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さつまいも

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aquarium~現実主義者は見る夢を~_001

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0. 序章 大手製薬会社 株式会社 A社 情報システム部 02:00 a.m.

 その晩は、うっすらとベールの様な雲が満月に目隠しをしている、そんな夜だった。

 闇に包まれて静まり返った室内。
 そこは昼間数十人の部員が働き様々な社員達が行き交う場所だという事を全く感じさせないほど、寝静まった世界だった。
 その場の静寂をいきなり壊すように、モーター音…、ハードディスクが起動する音と共に、パチンと音を立てモニターが点く。
 そしてカタカタカタ…、とコンピュータが処理している動作音が、無人のオフィス内に響き渡った。
 時間にして数分…。
 動いていたコンピュータは、シュンという音を立てて静止し、そしてまた起動を開始する。
 起動を確認するメニューがモニターに流れ、いくつかの通常ではあり得ないプログラムを何行か表示する。
 ゆっくりと不気味に一旦画面が止まり、大きくプログラムの起動画面が表示される。
『La vie en Rose(ラビアンローゼ)』
 それは、何かを告示するかのように照らし出され、そしてコンピュータは事切れるように静かに動作を止めた…。

 まるで春の夜長、その晩の月を朧気にしている雲のように、全てを覆い隠すような…、そんな様子だった..。




第一章
1.横浜市内 繁華街 11:55 p.m.

 華やかな潤色に近い色の照明が、煌々と輝くここは横浜。
 新宿、渋谷ほどの混雑も派手さも無いが、それでも夜の繁華街は賑やいで、酔っぱらい千鳥足で帰途につこうとしているもの、新たな酒場を求めるもの、訳もなく集まりしゃがみ込んで話しているもの、そして燃える夜を求めるカップルと、何時になっても眠る事なく、夜を楽しんでいる。

 その中央にある某有名ゲーム会社が経営しているアミューズメントセンター…、所謂ゲーセンの2Fでは、部屋の内電は暗めにしてあるが、外の明るさに負けじと、眩しいばかりの何色もの目に痛い色の照明がギラギラし、賑やかな音が不協和音の如く響き渡り、スロット、競馬等の様々なコインゲームが立ち並ぶフロアになっていた。
 そこで、またひときわ賑やかなドラムの音が鳴り響く。
 スーパージャックポット…、大人数が同時に遊べるコインゲームで、その中でも通常以上にコインが大量に入手出来る特別な機能…、が動き出す。
 "ガーンガーンガーン"と云う銅鑼の音のような派手な音が、フロア内に高らかに響き渡り、それと一緒に浮き足だった店員のうるさいほど興奮したアナウンスと、客達のざわめきが聞こえてくる。

『またか…』
 深い溜息を隣で勝ち続ける男を見つめながら、大塚朗は吐いた。
 二人座りの席がサークル状に十機連なったゲーム機。
 このゲームをしていると世の中は、ついているやつと、そしてどん底まで運の悪いやつの二種類だという事を嫌と云うほど思い知る。
 大塚の隣では、現在この世の運が全て与えられたように、3度目のスーパージャックポットを出した男が、ボーっと運良く当たった数千枚のコインの排出を待っている。
 そして大塚は、それを横目で見つめながら、どんどんコインが飲み込まれていく…。
 いつもならそんな運の良いやつが隣に居ようものなら、大塚はむかっ腹立ててこんなゲーム機とはさよならしている所だった。
 しかし今日はどんなに惨敗していようが、このゲームに勝ち負けは無いが当たらなければ散財しいしまおうが、絶対にこの席から離れたくはなかった。
 その理由は簡単で、隣の当たりまくっている男に大塚は興味があったからだった。
 何せそのラッキーボーイは大塚好みのすっきりクールな雰囲気を持った美人で、そして不思議な雰囲気を持っている。
 不思議な…と云うのは、その美人がさっきからコインをバカ当たりしているにもかかわらず、一向にそれを気にしていない様子で、ただ何も考えていないように感情が表に出ず、淡々とゲームをやっている。
 それがポーカーフェースなのか、それとも別の何かを考えているのか…、は、全く見当が付かなかったけれど、大塚にはそんな様子が更なる興味を生み出していた。
『超好みなんだよな…』
 隣の男を、横目でちらちら覗きながら大塚はそう小さく呟いた。
 その男はクリエータか何かを想像させるような服装で、プレスしていない生成のシャツと、ブルージーンズにスニーカーとラフな格好。
 シャツから出た整った顔は、外に出る仕事ではないのか、それとも持って生まれたものか判らないが、思いっきりそそられるくらい真白き肌、そしてそれにはしみ一つ見当たらない。
 髪型に頓着しないのか延びきったショートヘアだったが、不潔さを全く感じさせず薄茶のさらさらで癖の付かなさそうな真っ直ぐストレート。
 少し痩せ過ぎかとも思える体躯だが、顔は多分世の中の女共だったら美青年と形容して騒ぐに違いないほど奇麗な男だった。
 ちょっともったいない事に、それを隠すかのごとく縁なしの眼鏡を掛けていた。
 だがしかし、そうこんな別嬪には滅多にお目にかかれない。
 そう、すきあらば!などと浮かれた考えで何度も視線を送っていたが、相手は全く気付かない。
 それ所か、その思いは神にも届かずに…、ただただ手元のコインだけが空しさを醸し出すように減っていくばかりだった。
 溜息混じりに席へ荷物を置いて、大塚は立ち上がり、財布から千円札を取り出すと、またコインを買うために両替機に向かった。

「待てー」
 両替機の前でコインに交換しようと千円札を財布から出した時に、そんな聞き慣れた叫び声が聞こえてきたのは…。

『おやおや…』
 呆れながらそうぼやくいていると、十四、五歳の後ろを気にしながら走ってき、大塚の横を通り過ぎようとした。
『ふふン…』
 その状況に有る程度の察しがつき、そう笑うとわざと少年の目の前に足を出すと、その少年はその足に引っかかり転んだ。
「いっ、いてーなー!!」
 逃げているのを邪魔されその少年は、自分を煽るように見下ろしている人物にくってかかる。けれど大塚はにやりと笑って足下で転がっている少年の方を、猫でも持ち上げるように首根っこを掴んだ。
 そこに、その少年を追っていた…、制服姿の若い警察官と、走ったせいか元々は高級なスーツが着崩れ、息をぜいぜい切らしている、パッと見た感じは高校生にも見える青年が登場した。
「どうしたんだ、こんな子猫に…」
 声を掛けるとスーツの青年は、少年を持ち上げている大塚を見つけ、"あっ"と云う驚きの声と、そしてほんの一瞬だったが嫌な顔をする。
 しかし、その青年は元来まじめな性格なのか、直ぐにぴっと立つと、敬礼をした。
『おいおい…、ここでするか?』
 ここはアミューズメントセンター、自分はゲームを楽しんでいるパンピーな客。
 そんな状況に対するT.P.O.を全くと云っていいほど考えて貰えないその生真面目な態度に、苦笑しながら、いらない荷物でも放るかのように少年を下に落とした。
 その一部始終を見ていた警官は、何の事だか今一理解出来ずに、怪訝な表情をしながら途方に暮れ、何となくこの二人の人間関係を察して、報告をする。
「あ、いや…。万引きの通報が有り、尋問中に逃げ出しまして…」
「あ、そ…」
 興味のない報告と、辺りの客がざわつき始め、こんなごたごたはいい加減にして欲しいと、大塚は大きく溜息を付いた。
 そんなふてぶてしい様子に直立していた警官が、スーツの青年に小さな声で訊ねる。
「あの…、県警の捜査一課の方ですか?」
 "あ?"と大塚は迷惑そうに眉間に皺を寄せて大塚は、"お前のせいだ"と云ううんざりした顔でスーツの青年を見つめる。
 スーツの青年はまるでどこぞのファーストフードのメニューに書かれている"スマイル0円"と云う、少女漫画なら小花が飛び散る笑顔で警官に云う。
「あ、えーと、こちらは県警の情報システム部のかたで、大塚 朗巡査部長です」
 まるで自分の事のように紹介するスーツの青年をじとりと恨めしそうに見つめながら、大塚は警官に会釈をする。
 そう紹介されてもどう反応していいのか判らないらしく戸惑っている警官の姿に、苦笑しながら大塚は二人を追い立てるように左手であっちいけと手を振る。
「俺、関係ないから…、早くそれ持ってどっか行って。頑張ってね~、県警捜査一課、希望の星、吉川警部!」
 楽しく遊んでいたのに、人目を考えず挨拶や紹介までされた、高そうなスーツを着崩して走っている吉川 優(すぐる)警部に、受けた嫌がらせをそのまま返すように大塚はわざとそう云った。
 しかし、吉川には大塚の気持ちも伝わらずに、すがすがしい笑顔で先に行くよう指示をしする。警官は戸惑いながら吉川と大塚に軽く敬礼をして、少年を連れ去って行った。
 その姿を笑顔で見送る吉川に大塚はぼそっと尋ねる。
「何でよっしーが残るの?」
 その言葉に吉川は笑顔を消し、子供のように口を尖らせて、頬をぷっと膨らませる。
「よっしーじゃありません、吉川ですって…。何度云ったら判ってくれるんですか?」
 ぶつぶつ独り言を云ってるかと思うと、いきなり思い出したように"あっ"口を開く。
「それより…、大塚さん!こんなところで何してるんです?」
「え、見て判らない?」
 そう云ってニヤリと笑うと、大塚はさっき千円を入れて交換したコインの入ったカップを取りだし、吉川に自慢げに見せた。
「? 何です、それ?」
 不思議そうにそれを覗いている吉川は、本当にそれが何だか判らない様子で、眉間に皺を寄せて悩んでいる。
 その姿を見て、大塚は呆れながら溜息を付く。
「よっしー、勉強ばっかりしてると大きくなれないぞ…」
「大きくって、すみませんね、チビで世間知らずで…。で、それを持って…、ここで何してるんですか?」
 真剣な表情で訊ねてくる吉川の肩を哀れみを交えて何回か叩き、大塚はゆっくりと荷物を置いて確保していた二人座りの席に付く。
「よっしーもここ座りな…」
 "はぁ…"と呟きながら吉川は、渋々大塚の隣の席に座る。それを見計らって大塚はふてぶてしい笑顔でニヤリとし、コインを数枚ゲーム機に投入する。
「こうやってコインで遊んでるの。隣、座って一緒にやる?」
 そう云って大塚は、吉川にコインを数枚渡した。
 それを呆然としたまま吉川は受け取ったが、しばしコインを見つめてから”ハッ”と我に返って慌てる。
「だ、ダメですよ!コインの譲渡は風営法の七号関連に引っかかります!!」
「まじめなこって…」
 真剣にコインを握り締めたまま顔を真っ赤にしている姿が可笑しくて、大塚はわざと揶揄うように笑いながら質問する。
「俺は、よっしーみたく現場の人じゃないからね~」
「でも~」
「"でも~"、じゃないでしょ?それよりよっしーこそ何で補導なんてやってるの?君、捜査一課のお巡りさんでしょ?ましてあんたキャリア組じゃないの?」
 大塚が云うように吉川は国家一種で入署したバリバリのキャリアな職員だった。
 有名国立大学をほぼ首席で卒業し、最短で警部まで駆け上り、将来は国家のトップを担う事が出来るはず…、だった。
 だがしかし吉川は元来おぼっちゃま育ちのせいか、それとも性格がボーっとしていてか、大塚が見ていても警察官と云う職業に一番不向きなタイプだった。
 いつみても現場ではぷかぷか浮いていて、そのせいもあってなかなか居場所が無かったそんな彼との出逢いは、一課に呼ばれて誰かのマシンをセットしに行った時に、話をしたのがきっかけだった。
 そんな吉川が今している仕事の内容を、呆れながら質問してくる大塚に、頬をほんの少し赤くして、照れながら恥ずかしそうに小声で返答する。
「あ、いや…、そのヘルプで…。人出が足りないって云うので回されたんです…。西区の生活安全科に…」
 吉川を同情するように肩を、もう一つポンと叩いて大塚は呟く。
「生活安全って補導屋さんね…。大変だね…、君は不詳続きの神奈川県警を背負って立つ社員さんだもんね」
 深い溜息を付いた大塚の云い方がわざと茶化した云い方に聞こえた吉川は、いつものお花が咲いたような笑顔を少しだけしかめる。
「そう云う大塚さんだって、そこの職員でしょ!」
「え?だって俺、情シス…、情報システム部だもん。お巡りさんって云うより、コンピュータ屋さんだもんね~」
「はい、はい…」
 情シスという名の印籠をさも偉そうに振りかざす大塚に、いつも自分の部員が迷惑を掛けている事もあり吉川は、反論出来ずに子供のように口を尖らせた。
「それより、よっしー、行かなくていいの?お仕事中でしょ、君。こんなにここでさぼってちゃまずいでしょ?」
 吉川は”あっ”と声を出し、その言葉に慌ててコインを置き、立ち上がった。
 そんな子供みたいな姿に大塚はクスリと笑いながら、さっき自分でここに座れと云ったにも関わらずそれに気付いていない吉川を見ていた。
「あ、行きます!では!!」
 打てば響くようなその様子に笑顔で、手を軽く振りながら吉川を見送ると、大塚はもう一度溜息を付き、改めてゲームに向き直った。
 嵐が過ぎ去り、周りの視線から無事ではなかったが、やっとの思いで逃れ、煙草に火を点け、紫煙を吐き出す。
 一服終わりやっと落ち着けた大塚は、ゲームを再開しようとコインを掴みながら、先程から気になっていた美人な男をちらっと見やる。
 すると既に姿は無く、隣はとってもライトなカップルに変わっていた。
『ちっ…』
 新しい恋の機会をつぶされ、残念そうに舌打ちした。




2.神奈川県警 捜査一課 会議室 11:05 a.m.

 お腹が鳴るのとあくびが出るのを必死な思いで押さえながら、大塚は普段はめったに呼ばれるはずのない捜査会議に出ていた。
 特別捜査本部、捜査一課の仕切り…。
 通常は捜査一課では、殺人だの、強盗だの事件を扱う課…。
 その会議に大塚が召集されたきっかけは、小一時間前に捜査一課長から受けた呼び出しだった…。

 そもそも、大塚は警察官と云っても、普通の企業となんら変わりない部署に所属している。
 情報システム部…。
 IT時代と騒がれる昨今に於いてはちょっと聞こえが良いようにも感じるが、要するに神奈川県警察本部の情報や部内処理データを蓄積するサーバを管理したり、各部で使うオンラインシステムの設計や、それのインストール。
 はたまた今までコンピュータを使った事が無い職員へのお手伝い。
 そして情報誌を読み最近パソコンを購入し、妙な蘊蓄だけパーフェクトな職員へコンピュータ使用のお手伝い…、これが一番やっかいなんだが、そんな事を毎日、だらだらと大塚はやっていた。
 結局のところ、大塚の仕事はコンピュータ関連の雑用係に近かった。
 元々大塚は大きなゲーム会社のプログラマーをしていた。
 しかし、この不況でその会社が大リストラ大会を催し、それに乗って通常の二倍以上の退職金を貰って会社を辞めた。
 最初はだらだらとプログラムの在宅勤務でもしながら、適当に食べて行くつもりだった。
 それが何の因果か、丁度仕事を探している時期に募集の掛かっていた神奈川県警に、冗談のつもりで試験を受けたら、就職が決まってしまった。
 受かった当初はプロファイルの捜査だの、日に日に増加して行くコンピュータ犯罪の摘発…、などとスウィートな夢を見たりもした。
 しかし実際に配属されたのは、情報システム部と云う、夢見ていたお巡りさんのお仕事とはちょっと違うような部署になった。
 そんな大塚が事件と関わる事はあまり無いはずだった。
 けれどコンピュータ犯罪が激化する昨今で、専門知識が必要になると、こうやって捜査会議へ呼び出されたり、時には現場に赴いたりもしたのだった。
 腐っても鯛、まかり間違っても神奈川県警、ももちろんコンピュータ、ネットワーク犯罪を専門としている捜査二課や、コンピュータの達人の多いプロファイルチームも当然有る。
 有るには有るが、実際は人手不足で大塚のような情報システム部でも、知識があるものが借り出されるのであった。
 実際に捜査会議や現場検証などをやってみると、そう云う捜査の地味さと、コンピュータのコの字も知らない捜査官達への状況を説明する難しさを感じた。
 そう云う経験から、大塚がうんざりしそうな捜査等々のそう云う話が来るやいなや、同じ部署の他のやつに押しつけたり、適当に逃げたりしていた。
 それでもわざわざ御指命で、捜査一課への呼び出されたり、捜査本部への参加依頼の数は多くはないが、全くない話ではなかった…。

『げっそり…』
 また訳の判らない事を頼まれそうな予感に、大塚は深々と溜息を付き、お昼前のたるい捜査会議に出席した。


「最近有名企業に奇妙な事件が起こっているのは知っていると思うが…」
 捜査会議はそんな切り出しから始まった。

『奇妙な事件…』
 最近不思議な事件が起こっていた…、それは猟奇とも云える事件だった。
 犯人は、真夜中二時になると企業のホストサーバに繋がっているコンピュータへクラッキングし、ウィルスを起動させる。
 因みに一般的に、ハッキングとクラッキングの違いは、ハッキングはデータを解析するだけだけれど、クラッキングになるとそれを破壊する行為が含まれてくる。
 当然その感染したコンピュータからネットワークで繋がっているサーバまで、ウィルスはのデータからクラッキングした履歴まで、全てが抹消させると云う手口だった。
 当然企業側もデータのバックアップが有るので直ぐに復旧出来るのだが…、そこに繋ぎに行った履歴すら抹消しているために、クラッキングされた時にその企業のサーバに蓄積されているデータが盗まれている可能性もあった。
 そしてその悪質さが問題になり、事件の通報を当初受けた捜査一課で捜査を開始していた。
 クラッキングの履歴が抹消されているために、犯人の手がかりから、被害状況までが全く解明出来ないやっかいな事件だった。
 ただ判っているのは、最後に自分を告示するように浮かぶウィルスの名だけ。
 ウィルスの名は、『La vie en Rose(ラビアンローゼ)』。
 それ以外実際に何が起こったのかすら判らないため捜査の方針は、犯人が被害を受けた企業に対する嫌がらせを行っている場合と、全くの無差別な悪戯の両面で考える事になり、捜査員が会議で担当に振り分けられていった。

「それで、私は何を…」
 そう大塚が訊ねると、係長が待ってました、と云わんばかりの微笑みを浮かべながら、担当を説明していった。


車中 03:38p.m.

「しかし、大塚さんとご一緒出来て、俺ちょっと嬉しいです」

 ピクニック気分にでもなっているのか、満面の笑みを浮かべて、バックミラーを確認しながらハンドルを握っている吉川は、幸せこの上ない表情で訴えながらそう云った。
 しかしそう云われた本人は、その様子とは全く反対に、不機嫌この上ない、そんな表情を浮かべ、今現在、否、この業務全てに於いて不服だらけだと云う思いを全身で表していた。

「なぁ、何でこの仕事、二課じゃなく、一課なんだ?」
 そう、まず何でこの捜査が一課の担当なのか…?大塚にはそれが疑問に感じられた。
 ムッとした顔のままのその腹立たしい思いをぶつけると、吉川には何でそんなに機嫌が悪いのか、理解出来ないように驚いている。
「え、会議で云ってましたよね?この事件に関する届けが、最初一課に届いたから…。まずは一課で調べてそれから、二課に渡すって…」
「それも変だろ?だいたい、脅迫だの、コンピュータウィルスだのは二課のお家芸じゃねーか、それを何で一課で調べてから渡すんだよ」
 何を云っても理解してくれない吉川に、途方に暮れながら大塚は顔を引きつらせたが、当事者はにっこりとお花が散るような笑顔を見せる。
「まぁ、良いじゃないですか。そのおかげで、ドラマの撮影現場に行けるんですから。週間視聴率十五%を誇る"特捜刑事"ですよ!!あこがれなんです、あの主演俳優」
 何故妙に吉川がうきうきしながら車を走らせているか納得し、それ以上言葉が出なくなったところで、大塚は深い溜息を一つ付いた。

 あの眠さと空腹と戦いながら出た会議…。

 その会議で捜査官が、先々週の"特捜刑事"と云うドラマの中で、この事件と同じ名前のコンピュータウィルス『La vie en Rose(ラビアンローゼ)』を使った同じ様な犯罪を題材にしたストーリーが放映された…、と報告した。
 三ヶ月前に完成した脚本が、製作会議に掛けられ、製作開始されたのが今からほぼ二ヶ月前だった。
 事件が起こったのが二ヶ月とちょっと前。
 コンピュータウィルス『La vie en Rose(ラビアンローゼ)』と、はっきり告示したこの事件の発生は、製作開始よりもほんの少し前からだった。
 大塚は会議に呼び出された時、きっとウィルスに関しての説明とか、その解析など、めんどくさい仕事が来る、と思っていた。
 しかし、そんな真面目な会議場で、捜査一課の係長が満面の笑みを浮かべて、情シス…、情報システム部の大塚に振り分けた担当の仕事…。
 それは…、吉川と二人で、製作側に当たる事だった。
 吉川は大塚と共に行動出来る事と、そしてドラマの撮影現場に行ける事を、単純に喜んでいるみたいだった。
 けれどそれすら割り切れずに納得いかない仕事を押しつけられた大塚は、いい気分どころか、当然不機嫌きわまりなかった。
 しかし反論しようにも一課の課長にも、係長にも、いかにもとってつけたようにだったが、"コンピュータに詳しい君の専門的な見地から、この捜査に協力してくれ"と、まるで水戸黄門が印籠を振りかざす言葉で頼まれた。
 そんな風に一課の上司から云われ、大塚はそれ以上何も云えずに、渋々吉川と製作現場へ向かった。
 警察機構の分担としては、殺人等の事件が一課なら、今回のようなコンピュータウィルスだとか企業恐喝等の犯罪は、捜査二課管轄のはずだった。
 しかし、それを一課が捜査し、そしてそれに所属している吉川が事情聴取に行く事自体が、腑に落ちない要素の一つだった。

『結局、一課、二課って云う以前に、一課でお荷物になっている、よっしーの面倒を見ろって事じゃねーか…』
 自分の中でたどり着いた結論に、ついそんなぼやきを口にしていた。

 だがしかし、そんなダークな気分も撮影所へついてスタッフに有った瞬間に好転した。




3.市内撮影所 03:38p.m.

 大塚と吉川が現場に着くと、大きな事務所の一室に案内され、捜査員が行く事は話が事前に通っているらしく、皆のよそよそしい愛想笑いと共に、一通りのスタッフとキャストを紹介された。
 そしてそれを見て大塚は思わず驚きの声を上げてしまった。
 "あの男"だった、あの時のゲームセンターで勝ち逃げをした、あの美人と再会したのだった。

『これは運命かもしんない(はあと)』
 この面倒な捜査の件でうんざりしていた大塚は、思わずそう神様に見捨てられていない事を、仏教徒にもかかわらず、感じずにはいられなかった。

 この捜査も吉川のお供をする、と云われた時点で、事件との関わりの薄さははっきりしていた。
 だからこそ、この運命的な再会は神が与えたもうたチャンスなのだ!そう感じていたくどいようだが一度も寺に行った事はないが浄土真宗の大塚は、自分の運の良さに思わず歓喜せざるを得ない気分だった。
 そしてこの時既に大塚の頭の中では、事件や事情聴取の事は二も三も次で、"この男をどう口説こうか…"、それだけで一杯になっていた。
 しかし、話を聞いていく内に、それも儚いうたかたの幻だと確信してきた。
『俺って、不幸…』
 その状況に大塚は深々と溜息を付いた。

 その男の名前は、石屋 智史(いしや さとし)(二十八歳)。
 このドラマでも幾本かの脚本を担当しているが、他のドラマでも数本、彼が書いた脚本を使っていて、売れっ子までは行かないが、比較的コンスタントに仕事をしていた。
 このドラマの脚本がアップしたのは、事件が起こる少し前。
 事件はまだ具体的に世の中で発表されていないウィルス名を使って行われたために、捜査に対して素人同然の大塚でさえ浮かぶ予想と、そしてその考えとは裏腹に、そんな単純な事で浮かぶ人間が犯人なのだろうか、そんな疑問が浮かんでいた。

 しかし大塚の運命をぶちこわした発言は、普段おとぼけていて、何も考えていなさそうな吉川の一つの質問だった。
 そしてその事が大塚の新たな恋の道に、思いっきり焼夷弾を落としたのだった。

「あの…、石屋さんに質問なんですが…」
「はい?」
「石屋さんって、前にプログラマーもやっていらっしゃったと伺いましたが…」
 ただ話を聞くだけと云われていたのだろう、石屋はその質問に溜息の出るような美しい柳眉を寄せ、吉川と一緒に大塚まで睨んだ。

『よっしーのばかやろー』
 その時大塚は心の中で思わずそう叫んでいた…。

 石屋は吉川に尋ねられ、不機嫌な表情で、大きく溜息を付くと、ゆっくりそれに応える。
「はい、そうですね…。まあウィルスくらいは簡単に組めますよ」
「なら…」
「でも…、最近はワクチンソフトの性能が良いから、簡単に検索で引っかけられてしまって、除去されてしまうと思いますが…」
「でも…」
「刑事さんはクラックってご存じですか?実際に企業へクラックするだけでも、パスワードの検索だって大変でしょうが、もしクラックできたとしても、その後が残ってリスクも大きいでしょう?」
 美しい顔をしかめながら吉川を黙らせた、少し低めの印象に残るテノールの声で云った石屋の表情にうっとりしながら、大塚もその答えに同感だと感じていた。
 多少コンピュータやLANの知識があるものならクラックをしてみたい、と考える人間は少なくは無いと思う。
 しかし、パターン化されているウィルスを作るのは、多少プログラムをかじった事が有る人間なら出来ない事では無いだろうが、石屋が云うようにワクチンソフトに引っかからないように、だとか、自分のクラックした履歴を消したり、はなかなか出来ない。
 リスクがでかすぎる。
 今回の事件は、わざわざウィルスを入れるためにクラッキングを行っている。
 そうなると有る程度の壁を超えるかなり専門的な知識も必要だろうし、ネットワークやコンピュータシステムを知っている専門的な人間でも、下手な進入では、ウィルスを落とす前に自分が犯人だと云っているもので、直ぐに足がついてしまう…。
 けれど吉川はそれが判っているのかどうかは定かでは無いが、石屋の言葉に必死に反論する。
「しかし、あの脚本は物凄く事件に酷似していて!!」
 大塚の気持ちとは反対に、吉川は声を荒立て必死に自分の正当性を訴えようとする。
 しかし、どう考えても吉川の負け…。
 いつまでも墓穴を掘り続けようとするその口を手で塞ぎ、大塚は腕にすっぽり収まる170cmの身体を後ろから押さえた。
 そして、吉川のその態度に唖然としているスタッフやキャストに、大塚は愛想笑いをしながら頭を下げた。
「いやー、若い者は血気盛んでいかんですね~。今日は失礼致します。あ、もしかしたらまたここへ伺うかも知れませんが、その時は…、まあ宜しくお願い致します」
「いえ、なんかお二人ともこのドラマの刑事と違っていて、色々こちらも刺激になりましたので…」
 古参のスタッフらしき人、後でディレクター(監督)と聞いて驚いたが、親切にフォローしてくれて何とか場は収まった。
 しかし、石屋は二度と来るな、そんな表情でこちらを睨んでいた。
 大塚はそんな石屋の態度に苦笑すると、ただそんな事で帰るのでは、折角この神様が与えたもうたこの機会に申し訳ない、と感じ、吉川を先に部屋を出るように促す。
 そして、石屋の横に寄り吉川に聞こえないように、ぼそりと耳打ちする。
「!!」
 その瞬間、部屋に響き渡るビンタの音に、スタッフ全員が驚いたようにそちらを見る。
 スタッフ全員が大塚と石屋を注目する。
 大塚の囁きを聞いて、石屋はその言葉に総毛を立て全身怒りに震わせ、顔を真っ赤にすると、肩で荒い息をしながら大塚の顔に手形が付くくらいにひっぱたいた。
 怒りに動けなくなっている石屋と、何事が起こったか判らずに硬直しているスタッフに笑顔で大塚は"失礼"と会釈をし、唖然とし固まっている吉川の肩をポンと抱いて、足早に去った。
 部屋を出て何が何だか判らずに、きょろきょろしながら吉川は訊ねる。
「何、やったんですか?」
 大塚は少し切れた唇を手で拭いながらにやりと笑って、もう一度肩を叩く。
「さ、帰ろう、手応えは十分手感じ…、だな…」
 何の事やら判らない吉川は、不思議な顔をしながら首を傾げそれに従った。

『今晩、つきあわない?』
 殴られはしたが、まだ運命の糸は繋がっているような、大塚にはそんな予感がしていた。




4.大手製薬会社 株式会社 A社 情報システム部 05:51p.m.

 撮影所であんな事があったにもかかわらず、めげない吉川が帰り道、どうしても被害を受けた会社のサーバを見たい、とだだをこね出し、大塚は溜息混じりにそれに従う事にした。
『ま、よっしーもそれなりに必死って事か…』
 そんなぼやきを付け足しながら…。

 あれから半日以上経ったその会社の情報システム部は、既に事件が起こった前の状況に戻っていて、何もなかったように平常の業務を執り行っていた。
 状況を確認しようとすると、何度も警察から事情聴取を受けたらしく、社員の口は重かったが、それでも吉川の気力と根性で一通りを聞き出し、その中の専門的な内容で自分には判らない事を大塚に質問してきた。
 そんな姿を見ていると大塚はそれなりの吉川の覚悟みたいなものを感じながら、彼の県警内での要領と運の悪さを感じてしまった。
 情報システム部は県警だろうが、民間企業だろうが対して変わった雰囲気がなかったが、そこで大塚は懐かしい写真に出逢った。

 ただ月を撮影した写真…。
 その写真を大事そうにタワー型PCの上のフォトスタンドに入れていた人物に、親近感を感じ、大塚は気が付いたら声を掛けた。
「月の写真ですか?あっ…」
「木下です。株式会社AZUと云うコンピュータの会社から派遣で、ここに来ています」
「木下…さんですか…。素敵な写真ですよね。でも、その月の写真…」
 木下は驚いたように目を見開き、目の前で笑う大塚を見つめると、視線を写真立てに向けた。
「この写真…、て云っても印刷なんですが、以前にちょっとした知人から貰った、記念の画像なんです」
「あ、もしかして…、フィアンセか、何かですか?」
 そう茶化すように訊ねると、木下はただ愛おしい相手を見つめるかのように、写真立てに視線を向けたまま動かないまま、懐かしい思い出を語るように呟いた。
「昔、追われていた血統書付きの子猫を拾いました。一緒に、そう一週間くらい暮らしたんですが、その追っ手が私のところにも及びました…」
「…」
「その子猫は、私の生活を守るために元居たところに帰って行きました。私のその子猫への思いと一緒に…。これは…、今は逢えないけれど、いつか逢えるだろうと信じている、その子猫への思いなんです。ただ、もうじき私のところに戻って来てくれるみたいなんですけどね…」
 目を細めて幸せそうに木下は、そう語った。
 木下は知らないだろうが…、大塚はその血統書付きの子猫…、今は成人して立派な大人の猫だが…と、そしてその大切な男の存在を大塚は知っていた。
 それは以前、捜査に借り出された時に、その先で美しいと云う形容詞が似合う青年に出逢った。
 その青年の机の上に、これと全く同じ月の写真と、そして隠し撮りのようにピントは、ずれていたが、目の前でその写真を愛おしそうに見つめている人物…。
 年齢は三十過ぎくらいで、身長は175、6の太っても、痩せてもいない体形に深みのあるスーツがとても似合っていて、縁なしの眼鏡を掛けた、どこから見ても普通のサラリーマンと云う雰囲気の人物の写真が、大切そうにに飾られてあった。
 しかし誰だと尋ねると、その青年はただ笑うだけだった。
 だから直接本人から木下の事を聞いたわけではなかったが、ここに飾ってある月の写真はその青年が一番気に入っている昔撮影した…と云っていた月の写真と同じでだった。
 そして木下は、あのボケた写真の人物だとはっきり判った。

「まあ…、そんな所です」
 木下はそう云いながら、愛しそうにその写真を見つめていいた。
 それは大塚が知っている人物が、同じ写真に対してするような視線と同じように…。
「そう云えば…」
「え?」
「俺、昔、好きなHPがありましてね。そこって月の写真だけを飾ってあったページなんですが…、この写真はそこで見たのに凄くよく似ているんです…」
「そ、そうですか…」
「そのHPの管理者っていうのが、深い森で王子様を待って、眠っているお姫様のような美人なんですよ…」
 懐かしそうに木下は目を細めただけで、それ以上言葉を話さなかった。
 しばしの沈黙している内に、別の席から木下を呼ぶ声が聞こえてくる。
「木下さん!ちょっとこっち、お願い出来ますか!!」
 その方向に判ったという風に手を振って木下は、大塚の方を見て頭を軽く下げる。
「すみません、失礼します。でも…、懐かしい話を聞けて良かったです」
 大塚が云いたかった言葉が通じ、木下は笑顔でもう一度頭を下げ立ち去ろうとする所を、慌てて大塚は叫んだ。
「あ、木下さん!!」
 もっと話がしたい、その思いだけで木下を大塚は引き留めてしまった。
 何事かと云う顔で微笑みながら、振り向いて小首を傾げながら木下に、大塚は慌ててその場を取り繕うように質問をする。
「あ、あの、この事件どう思われますか?」
 少し驚いた顔をした後、大塚にクスリと笑う。
「さあ…。ただ…、嫌がらせでウィルスを送るにしては…、少し凝りすぎているような…。まるでこのウィルスよりは、サーバに接触した履歴を消すための様な気がしますが…」
「履歴…ですか…」
「ええ、まあ、私の仕事はここでデータベース用のシステムを組むだけですから…、この会社の事情はよく判りませんが…、ただ…」
「ただ?」
 PCの上に置いてあった月の写真をそっと持ち、木下は言葉を続ける。
「この写真を撮影した人間なら…」
「その写真を撮影した人間なら?」
 写真に目をやった後、何かをこらえるように木下は天井を仰ぐ。
「いえ…、何でもありません。ちょっとした独り言です、気にしないで下さい…。失礼します」
 そう言葉を残し、木下を呼んでいる方へ立ち去った。
「"スイ"か…」
 一人そこに取り残されたように立った大塚は、その月の写真を見て呟いた…。

『あそこへ行けばこのウィルスも、ワクチンも出来てるだろうな…』
 そう独り言ち、吉川を引っ張ってその現場から早々に引き上げた。


石屋 自室 08:18p.m.

 今日は最悪の日だった…、石屋は家に帰りぼっと窓の景色を眺めながら、そう感じていた。

 脚本の締め切りが間もないのにも関わらず、警察の事情聴取があるからとディレクターの夏目に呼び出された。
『まあ、形だけだから直ぐ終わるよ…』
 その時はそんな感じで軽い様子で頼まれ、ただ顔を出せば良いのか…、と渋々だったが、事情聴取と云う言葉に物書きとしての好奇心を駆り立てられ、出向いた。
 しかし行ってみると、訳の判らない若い警官には嫌がらせのような追求を受け、そしてその同僚らしき変態刑事には云い寄られ…。
 うんざりしながら真っ暗な部屋の電気も付けずに、窓辺のディスクトップPCの置いてある普段仕事をしている机に向かって、石屋は深々と溜息を付いた。

 横浜市内、山下埠頭にほど近く、外観は潮風に揉まれかなり傷んでいるように見えるワンルームマンション。
 窓からは、微かに横浜博の時に建てられ、今では見事な遊園地に変化を遂げた大きな観覧車"コスモクロック"がカラフルなネオンを光らせていた。
 そんな風に形容すれば聞こえは良いかも知れないが、ここは雑踏に紛れた小汚くて安い10階建てのマンションの5Fの部屋だった。
 自分の生まれ育った街を離れたくなかった石屋は、家を出て一人暮らしをしている今も、この街で暮らしていた。
 この街が横浜博以降"MM21"と銘打って、昔の大好きだった面影を忘れていき、街並みはどんどん別の形に変化していったが、それでもここがとても好きだった。
 だから離れるつもりはなかったが、けれど最近石屋やこの家の周りで、おかしな事が起こるようになっていた。
 何がと具体的に上げろ、と云うと途方に暮れてしまうが、いつも誰かに監を視されているような…、そんな気配を感じる時があった。
 気のせいかも知れなかったが、それでもさっきも感じた不気味な気配に、背筋が寒くなっていた…。
『ま、気のせいだろう…』
 石屋は自分にそう云い聞かせて、PCの電源を付けると、もう一度溜息を付き、机の中からケースを出し、そこから一枚のFDを取り出した。
 レーベルには『La vie en Rose(ラビアンローゼ)』と書かれているFDを…。




5.閉鎖した研究室 10:15p.m.

 そこはかつて世の中すら左右する、と噂された研究室だった。
 元々は某大学の秘密生物研究所だったここは、横浜市内とは感じさせないほどの森の様な樹々に隠れて、ひっそりとたたずむ化け物屋敷そんな印象を受ける所に建っていた。
 そして1年前に起こった火災。
 それが引き金となり研究室は閉鎖され、今でも修復されずに黒く爛れた壁の幾つかが、生々しさを残っていた。

『しかし、これじゃ王子の来るのを待ってる眠り姫の居城って感じだな…』
 誰も来ないのをいい事に、車を空き地に乱暴に止め、それから降りると不気味な程に静かな建物を見つめ、大塚はそうぼやいた。
『住んでるのは古城の美姫は美姫でも、既に魔女になってるがな…』
 そう付け足すと、ポケットから煙草を取り出して火を点けた。

 今は一人しかいない研究所。
 研究の中止を確証させるかのように起こった火災は、ここの主任職員、橘 貴文当時三十二歳が、灯油をまき、今までの研究データを共に自殺をしたのだった。
 データが全て燃えかすになり、それをきっかけに研究の中止された今では、かつてここの所長だった博士の息子が、後処理をするためにここに通うだけで、後は誰も訪れたりしない。
 そんな所だった。
 中に入ればその色はなお一層濃く感じられ、燃え残った部屋のテーブルには埃を被らないように白い布が掛けられているが、それでもその上にはうっすらと埃が被り、子供の頃にやった肝試しの理科室を思い浮かべられるようにまで、鄙びてしまっていた。
 そんな薄気味悪さしか感じさせない建物を、銜え煙草で大塚はずんずんと進むと、その研究所の奥にある唯一電気のついた部屋へたどり着いた。
 そして今はただ一人になったここの、主(あるじ)を見つけた。
 主(あるじ)は大塚が来た事など全く気付かないように、ただ忙しなく立ち上がって、机の上を片づけているようだった。
 自分に気付かない様子に、大塚はニヤリといやらしく笑うと、銜えていた煙草を埃の被った机に押しつけ、後ろから愛おしい恋人にするようにぎゅっと抱きしめた。
 今にも折れてしまいそうな華奢な躯。
 そして真っ白な首筋に唇を落とす。

『スイ…、逢いたかったよ…』
 そんな言葉と共に…。

 かつてこの研究所が多くの研究員で華やいでいた頃ここをまとめていた上村教授の一人息子。
 そして現在唯一のここの管理をしている人物…、上村(かみむら) 翠(すい)、スイ…。

 吉川のお供で大手製薬会社へ行き、そこで懐かしい月の写真を見つけ、その持ち主とこの不気味な研究所の主であるスイの話を大塚はした。
 事情聴取を終え、吉川と別れると一旦家に戻り、そして自分の車でここを訪れた。
 いつ見ても不気味なここも、何度も来ている内に目隠しでも歩けるほどに大塚はなっていた。

 大塚はスイの首筋に何度も音を立てて、欲望を煽るように唇を落としながら、後ろ向きの青年の腰に自分自身を擦り付け、耳朶を舐りながら訊ねる。
「だーれだ?」
 抱きしめられた青年はフッと鼻で笑うと、無言のまま大塚の脇腹に肘鉄を入れ、そして大きく溜息を付く。
「あなたも飽きない人ですね…、大塚さん」
「お前を見て、むらむら来ない男なんて、いないさ。なぁスイ…」
 叩いても離さないどころかシャツのボタンに手を掛けていく大塚の腕に、呆れたようにスイはもう一度大きく溜息を付く。
「同性に…、男に好かれても全然嬉しくないんですが…」
「それだけの美貌の持ち主が何を云うんだい?」
 そう云いながら大塚は首筋にちゅっと音を立て唇を落とし、片手で胸の飾りを弄りながら、もう片方の腕でスイの少し長めの色素が薄いストレートの髪をサラサラとすく。
 確かにスイは作られたお人形の様に美しい男だった。
 様々な事情で普通とは全く異なる育ち方をしたスイは、一度逢ったら忘れる事の出来ない程の美貌の持ち主で、雪白のごとき肌と、色素の薄い茶色の切れ長の瞳と薄く煎れた紅茶色の髪の毛。
 身長は176cmあるけれど、あまり運動はする機会がなかったせいか筋肉は付いていないが、摂取カロリーと、栄養を計算されたつくした食事をずっと取っていたお陰か贅肉も一切付いていない。
 二十二歳になった今でも、今にも消えて無くなってしまいそうな儚げな雰囲気を思っていた。

「いい加減その腕、解いて頂けますか?それじゃここ片づけが出来ないんで…」
 これ以上怒らせると魔法でもかけられハムスターか蛙にでもされるのではないかと、思わせる誰が聞いても冷たさがはっきり感じられるテノールの声で、スイに拒絶された大塚は諦めてゆっくりと腕を解いた。
「どうしたんだ?片づけなんて…」
 行動を邪魔する腕が離れ、嘆息しシャツを整えるとスイは机の上の書類を分け始める。
「やっと買い手が付いたんで、ここを売り払うんです。だからここに来てももう誰もいませんよ…」
「それは、それは…。お前はどうするんだ?スイ」
「なんであなたにそんな事、云わなくちゃいけないんですか?」
「冷てーな、俺とお前の仲だろう」
「そんな仲になった覚えは全く無いんですが…」
 スイは机の上の書籍を手早く片づけながら、嫌そうな顔をして大塚を見た。
「冷たいね~、でもま、そこがいいんだけどな」
 いやらしそうにニヤニヤ笑っている姿に、更に不快感を感じたスイは無言で大塚を睨み付けた。
 しかし、大塚はそっとスイに近づき肩を抱くとサラサラの髪の毛を愛しそうにすく。
「で、本当の所どうするんだ?一応俺だってお前の事が心配なんだぜ…」
「大塚さん…」
 スイは一旦片づける手を止め、大塚からすっと逃げると、そして煩わしそうにスイは深い溜息を付く。
「しょうがないですね…、結婚するんですよ。ここもやっと片づいたし、資料も有りませんから、僕もここにいる必要が無くなりましたしね…。これで晴れて自由な身です」
 普通の人間とは全く違う生き方をし、色々な思いを秘めてここに住んでいたスイを知っている大塚は、目の前で幸せそうに微笑んでいる姿が眩しいくらいに感じられた。
「そりゃあ良かった。おめでとう」
「有り難う御座います。だからもう相談持ちかけてきてもダメですよ」
「そんな冷たい事云うなよ、スイちゃん」
 照れたように目線をそらしたスイを後ろから首に腕を絡めるようにもう一度抱きしめて、キスをしようと顎を押さえた。
 しかし直ぐにいつもの表情が伺えないすましたスイに戻り、その手をぴしゃりと叩いた。
「そんな風に甘えてもダメですよ」
「冷たい事云うなよ。あ、それより誰かのものになる前に俺と一発…」
 眉間に皺を寄せスイは大塚を睨む。
「何度もお誘い頂いて申し訳無いんですが、あなたと出逢う五年も前から、結婚を約束をしてるんです。心も躯もその人のものですから…」
 そうきっぱりと云い放つ姿に、大塚は安堵の笑みを浮かべた。

「愛されてるわけだ、木下ってやつは…」
 スイの手元にあった本が、音を立てて下に落ちた。
 表情は相変わらず張り付いたようなポーカーフェイスだったが、落ちた本がまるでスイの気持ちを表すかのようだった。

「おや、どこからそんな情報を?」
 スイは何もなかったようにゆっくりと本を拾い、大塚は思っている事がはっきり判る態度に思わず笑みを浮かべる。
「ま、一応警察にいるからな」
「情シスの"お巡りさん"ですか?」
「そ、だからどんな情報も俺にお任せ!!ってね」
 まるで全てを掌握しているようなふてぶてしい笑いをしている大塚を、悔しそうに見つめスイはいささか呆れたように息を吐いた。
「それで、僕を脅そうとでも思ったんですか?暇人ですね~」
「よく判ってるじゃん、さっすが俺のスイ。まあ、暇人ってのは心外だけどな」
 もう一度溜息を付いて、片づけている手を今度は本格的に止めると、適当に机の上のものを寄せて腰を掛ける。
「"俺の"って云うのはよく判らないですが…。だいたい、何処からその情報を手に入れたのか、御教授頂きたいですね…」
 スイはゆっくり長い足を組んで微笑む。
「それを教えてくれたら、考えても良いですよ。協力するかを…」
 ニヤリと大塚は笑みを浮かべて、今日仕事で赴いた所で、月の写真を愛おしげに飾っている男の話をした。
 それを聞くと、美しい鼻梁を歪めてスイは、呆れたようにもとれる溜息を、もう一度深く吐きながら薄い唇を尖らせる。
「…。ニュースソースが当事者って云うのは、ずるいような気がしますが…。でもその辺があの人らしいかな…」
 木下の事を思いだし、スイは今まで大塚が見た事がないほどの柔らかな笑顔を見せた。
 この研究所から離れる事が決まり、スイにも余裕が出てきたのだろうか…。
 しかし、その辺の質問をしたとしてもスイはきっと何も答えず、ただ笑うだけだろう、と大塚は思った。

 直接出逢う前からスイがやっていたHPを知っていた大塚は、火事の捜査に借り出され、たまたまPCの壁紙に使われていて、木下の机の上にも飾ってあった月の画像を見た時に運命を感じた。
 一目惚れに近い気持ちで大塚は、無機質な魅力を持った、人間の匂いを全く感じさせないこの青年に惹かれていった。
 そう、特別な運命を背負って生まれてきた目の前の青年に…。
 以前、誘導尋問のような形で、強引に聞き出した内容でしか大塚もスイの事に関しては知らなかった。
 その時にスイは、生まれてから去年の火事が起こるまで、自分は”国家のトップシークレットに属していた…”、と寂しそうに笑って語っていた。
 その時の捜査資料にも、火災を起こした研究所の実体は具体的に書かれておらず、ここで何が起こっていたかは、今ではスイ以外知るものがなかった。
 ただ人から聞いた噂では、何かの事故の影響を受け突然変異で生まれてきたスイが、様々な実験の研究材料されていた化け物だ、と聞いた事があったが、実際は判らなかった。
 そんな謎の青年が残念な事に、様々な問題に整理が付いたのを物語るように、この青年はどんどん奇麗になっていく姿に感じ、それはスイの春の訪れだと何となく判った。

「で、今回の事に協力すると、大塚さんは新しい門出を祝福してくれるわけですね?」
「ま、そう云う事かな?多分…」
 "多分"と云う言葉が腑に落ちないのか眉間に皺を寄せるが、降参したとばかりに両手を上げる。
「判りました。ま、お逢い出来る内に火災の時の恩は返して置きたいですしね…」
「お、律儀だな…」
 一年前の火災。
 橘は元々はスイの父親の助手をしてい男だった。
 スイを産んで亡くなった母親と、研究に没頭していたため家に全く帰らずスイが十五歳の時の無くなった父親の上村博士。
 スイの保護者であり、上村博士の後を引き継ぎ研究を続けていた。
 しかし、スイが成人した日、研究所に火を放ち、この研究所のデータと共に、炎の中に消えていった。
 その火災後、この研究所で残ったデータを全てチェックし、少しでも復旧出来るものが有れば残らずしろ、と上司から命令を受けて、大塚はここに初めて訪れた。
 火災で無事だったHDや記憶媒体を見ると、まるで誰かが目にするのを避けるように見事にデータ消されていた。
 その炎で焼かれた残骸で、何人も派遣されていた捜査員は何も見つけられなかった中で、大塚はたまたま橘教授がスイのために暗号化して残したデータを見つけてしまった。
 しかし、その時に大塚はわざと上司に報告せずに、スイにそのデータを渡した。
 遠巻きに伝わってきた政府の圧力みたいなものが、納得出来なかったからだった。
「あの火災は…、僕の所為ですから…。橘さんを自殺にまで追い込んだのは、誰でもなく僕ですからね…」
 あの時そう苦しそうに呟いたスイが、たまらなく美しかった。
 研究所の火災の原因は、公にはノイローゼ気味だった橘教授の自殺だったが、本当のところは一介の捜査官には伝えられなかった。
 しかし、そのデータが全て消え去った火災がきっかけで、スイには転機が訪れた。
 特殊な環境で育ち、その為に自由を持たなかったスイは、子供の頃から保護者代わりだった大切な人間…、橘教授の死によって、自由を手にしたのだった。
 もしかしたらその為に橘教授はこの自殺劇をやったのかも知れなかったが…。

「ま、あれは事故だって、心神耗弱で教授は研究所に火を放ち自殺した。捜査書類でもそうなってるし…。スイは研究所とは全く関係なかったんだから…」
「まあ、公になってはまずいですからね…、人体実験をしていたんですから」
「そう云うなって、あれがなきゃお前だって、自由にはなれなかったんだから…。つう事でコレ宜しく」
 しんみりしている雰囲気を壊すかのように、笑顔で大塚はCDRを2枚渡した。
「何ですか?」
「今、噂の『La vie en Rose(ラビアンローゼ)』…」
「ウィルスを持っているんですか?」
「いや、これはそれが落とされる寸前のPCのデータと、復旧前のウィルスで死んだ後の残像…」
 期待を裏切られたようにスイは頭をかくんと下げながら"で?"と訊ねる。
「まあ、そんなにがっかりしないで…。で、欲しいのは、『La vie en Rose(ラビアンローゼ)』と前後に起こった事…」
 あまりに他力本願過ぎる発言に、スイはこめかみを押さえる。
「これで、何を調べろと?まさかウィルスの履歴だけで解読しろと?」
「そ、La vie en Rose(ラビアンローゼ)…、バラ色の人生の謎に迫ってね。スーイちゃん」
 大塚は楽しそうに笑ってポケットから煙草を取り出すが、喫煙を拒むかのようにきつい瞳のスイが口を尖らせていた。
 しかし、そんな事に全くお構いなしで、一瞬横目でちらっと睨んでいるスイを見ながら、平然と火を点け、ゆっくりと味わうように紫煙を吐き出す。
 すると煙に苛立つように咳払いをするが、それでも止める気のない姿にスイは、プッと頬を膨らます。
 そんな可愛い姿を見せられ大塚は"これ一本だけだから…"と云い訳をし、スイも諦めまた片づけを開始した。
「まあ…、どうなるか判りませんが…、これが最後ですからね…、何とかしましょう」
「お、優しいな。ど、結婚する前に俺といっぺんやりたいとか思わない?」
 じとりとスイは大塚を睨むと、今日何度目かの溜息を付いた。
「あなたはそれしかないんですか?そのうち捕まりますよ!!」
 苦笑しながらスイはディスクを受け取り、事件の概要を何か云いたげににやにや笑う大塚から聞いた。
 そして全てを把握するとぼそっと呟く。
「なんか、変な話ですよね。実はその犯人はその美人な脚本家さんを狙ってるストーカーだったりしてね…、そんな事ないか。大塚さんじゃ有るまいし…」

『石屋を…』
 薬品の爆発事故の影響を受け、生まれた時からIQ200以上も有る天才にそう云われ、大塚はもう一度撮影現場に行きたいと思わずにはいられなかった。




6.神奈川県警情報 システム部 08:30a.m.

「おっはよーござーまーす!!」

 吉川は、まだ人のほとんどいない情報システム部の扉を軽快に開けた。
 昨夜撮影所へ行った後、一緒に署に戻って来はしたが、吉川は現場検証の報告書を作成しなくてはいけないために大塚と別れた。
 別れ際に、大塚はその晩、バッチ当番だと云っていたので、きっと泊まりで、仕事から開放されるのは今朝だろうと吉川は思っていた。
 家に帰って事件を振り返り、そしてあの事件の事で大塚に相談したい事があり、こうして朝一番にここへ来たのだったが、部屋には目当ての人の姿は見当たらなかった。
 実際は違っていた。
 吉川の挨拶に答えたのは、情報システム部で一番若い職員の太田だった。

「あ、お早う御座います、吉川警部。大塚さんなら今日は午後からですよ…」
「え?でも昨日…」
 耳を疑うように吉川は呟くと、太田は首を傾げる。
「え?だって昨日、一課のサポートで出ていたんですよね?大塚さん」
「ええ、一緒に出掛けましたけど…」
 大塚の云う事と目の前の現実とのかなりのズレに混乱しながら吉川は答えるが、太田はその様子に全く気付かず、言葉を続ける。
「捜査に出掛けると、何時に帰れるか判らないですからね。当番が変更になったんですよ」
「え、じゃあ大塚さんは?」
「うーん、そっちを手伝う方が優先順位高いですからね…、うちの部はパシリっすからね。そう云えば今日も捜査協力って云ってたけど、あれ?一緒じゃなかったんですね…」
「あ、多分大塚さんは一課の他の人から、他の用事を頼まれてるんじゃないかと…」
「そうっすね…」
 腑に落ちないその話に、大塚が何で自分にうそまで云ったのか、が気になって吉川は考え込んで無言になってしまった。
 いつも笑顔が眩しい吉川の表情が曇り、太田は自分で云った事を気にしながら尋ねる。
「それより…、吉川警部はこんな所にいていいんですか?てゆうか、今回の事件って大変そうですよね…」
 太田の声に我に返りながら、職位を付けて自分の名前を呼ばれ、それになれない吉川は苦笑する。
「その吉川警部って止めてくれよ…、恥ずかしい。吉川でいいよ…、確か太田さんですよね?」
 気恥ずかしそうに頬を赤くしていて否定すると、太田は吉川を尊敬するように、まるで自分の自慢をするかのように云う。
「そうっす、太田っす。吉川さん、何云ってるんですか!!国内一、有名な国立大学を在学中に司法試験通ったにもかかわらず、トップレベルで卒業して、国家一種をこれまたトップレベルで合格」
「そんな事…」
「またー、謙遜しないで下さいよ。署内で有名なんですから」
「いや…、あの」
 自慢げに自分の経歴を語られ、吉川は途方に暮れた。
「最短出世コースをまっしぐら!!試験は全て完璧!って有名ですよ!本当なら既に警視くらいまでなれるのに、なんで試験受けないんですか?」
 この太田の云ってる事を今まで何度も、それこそ耳にたこが出来る位に色々な人から云われた。
 それこそ、上司、先輩、部下、知りあい、家族、大学時代の知人、と…。
 そして、いつも通常業務に関係の無い部署に用があって行くと、今の太田と同じように尊敬の目で見られたり、世の中の誇りのようなそんな云われ方をされたり…。
 吉川は、子供の頃から机に向かって、こつこつテスト勉強を、勉強をする事がとても好きだった。
 その所為か、昔から試験に関してだけは悩んだ事はなかった。
 だからそんな自分はただ試験に受かれば出世が出来て、それでいて格好いい警察官に昔からあこがれ、何の躊躇いもなく国家一種を受け、この職業を選んだ。
 しかし、テストでの天才は警察機構の現場では、何の役にも立たなかった。
 確かにどんな試験を受けても優秀な成績を治められたが、生まれつきぶきっちょな吉川は、現場に出るとテストのように上手くは行かなかった。
 一課ではお荷物…。
 いつでも重要な捜査には加えて貰えず、いつも別の所で補導の手伝いや、課内で書類の整理やデータベースの管理…、しかやらせて貰えない。
 自分の足で捜査して仕事をしている周りからは、"未来の上司"、"将来のお偉いさん"程度に思われているのか、ただ愛想良くされているだけだった。
 大塚以外は…。

「俺なんか、まだまだだよ…。それに、そ…そんな、の、社会人としては、全く誉められた事じゃないですか…」
「そんな事ないっすよ!!今だって捜査一課なのに、二課のサポートまでしてるんすから!!」
「それは…」
 自分を真剣に尊敬している太田に、必死に事実を伝えようとするが、その気持ちは謙遜にしか伝わらずにただ吉川は苦笑するしかなかった。
「吉川さんに比べて俺なんか、ただのコンピュータオタクっすから、だから吉川さんの行動は尊敬に値します!!」
「そんな事ないよ…。俺なんて、ただ勉強しか出来ない…、社会不適合者だよ…。俺なんかより大塚さんの方が数段…」
 いつも大塚に助けられる吉川は有るがままを伝えようとするが、しかしその気持ちが伝わっていないらしかった。
 吉川の言葉に納得出来ないかのような不思議な顔をし、そして顔の前で手を数度、太田は振る…、そんな事は無いと…。
「またー、謙遜して、吉川さん謙虚過ぎ。大塚さんなんて俺から云わせりゃ、ただのふてぶてしいエロおやじっすよ」
「エロ…」
「そうっす。確かに見た目がっちりしていて、身長は185cmでワイルドな感じで格好良いっすよ。おまけに女子職員にも死ぬほどもてるし…」
「そうだろうね」
 大塚の姿を思い出しクスリと笑う吉川を見ながら、太田は眉間に皺を寄せ口を尖らせる。
「でも、それをいい事に俺のケツ痴漢みたいに触るし、オタクだし、ゲーマーだし、マニアだし、寒いギャグ連呼するし…、あれをおやじと云わずして何を云うって感じですよ」
 毛虫でも見たかのような表情で云い切り、"吉川さんはセクハラ受けてませんか?"と自分の躯も心配する太田に吉川はつい苦笑する。
「そ、そんな…、事は無いんじゃ…」
 セクハラどころかいつも感謝していると感じている吉川が、その言葉に対して必死にフォローしようとするのを遮ると、太田は否定する。
「いいえ!!吉川さんは優しいから気付かないだけっす」
「そんな…、俺よりも大塚さんのほうが…」
 数倍凄いとと続けようとした言葉を、太田は力一杯思いっきり遮る。
「あんなおやじよりも吉川さんの方が何億万以上素敵です。知ってます?吉川さんはここの男性職員の花なんっすよ!!」
「花って…、何ですかそれ?俺、男なんですけど…」
 男の自分が職場の花と云われ、吉川は顔を引きつらせながら質問した。
「俺なんか吉川さんが大塚のおやじを訪ねて来るたびに、幸せな気分になってます。吉川さん!変な事されてませんか、あの変態おやじに?大丈夫ですか?俺、吉川さんの事が心配で、心配で!!」
 確かに大塚はおやじっぽい所もあるが、捜査一課でお荷物な自分をいつも何処かで見守っていてくれるそんな所があった。
 吉川はさっき太田に云ったように勉強だけは出来るが、他は何も出来なかった。
 捜査課に配属されて初めての仕事で、犯人を追いつめたにも関わらず、自分の不手際で逃がしてしまい、そこからけちが付いた。
 今では周りは早く出世して何処かの所長なり、もっと上に行って自分たちの邪魔をしないで欲しいと思われているようだった。
 事件が起こっても今回のように直接関係ないところの事情聴取や、簡単な地域巡回パトロールや、補導や青少年犯罪摘発をする生活安全課の手伝いに回される事も多かった。
 その中で大塚だけは普通に自分を見てくれた。
 確かにいやらしい事を云ったり、仕事が終わるとゲームセンターに入り浸ったりと警官らしさはなかったが、だからこそ親しい友達も恋人すらいない吉川にとって、大塚は大きい存在だった。
 しかし、そんな大塚を信じ切っている吉川を本気で心配してくれている太田に、なるべく当たり障りのない言葉を返す。
「そ、そんな、頼りになりますよ…。あ、じゃ戻ります、大塚さんがいらっしゃったら連絡下さいとお伝え下さい」
「判りました。吉川さんも捜査頑張って下さいね」
「有り難う」
 軽く手を振って微笑みながら吉川は部屋を後にした。
 自分への評価はいつもの事なので諦めもつくし、それで反論しても無駄の事が判ってるので、反論する気にもなれなかった。
 しかし、大塚への評価は納得出来ないものを感じた。
 普段は社内のPCを相手に悪戦苦闘しているが、以前ヘルプで大塚が現場を手伝った時、あまりの機敏な判断と行動に吉川は度肝をぬかれた事があった。
 そんな大塚だから、もしかしたら事件解決の糸口を既に掴んでいるかもしれない…、と吉川は思っていた。
 そして、大塚が無茶しない事をただ祈るだけだった。


横浜市内 某マンション 10:30a.m.

 遅い朝食を食べながら大塚は、昨夜参考資料として一課から拝借してきた”特捜刑事”四十八話のビデオテープを、ぼーっと見ていた。

 作品自体は何処にでもありがちな刑事ドラマで、人気アイドル俳優メインに何人か使って、平均視聴率はこの手のドラマにしては比較的高いドラマだった。
 確かにその四十八話のあらすじは、今まさに起こっている事件と全く同じ手口だった。
 比較的入りやすい企業のサーバにクラッキングを掛け、コンピュータウィルス『La vie en Rose(ラビアンローゼ)』を送る。
 そして、自分たちがクラッキングした履歴は疎か、サーバの情報も全てを消し去り、電源が切れると、再度立ち上がりデータは全く残って居らず、唯モニターに『La vie en Rose(ラビアンローゼ)』…、バラ色の人生と文字だけが出ている、そんな事件だった。
 ドラマでは、プロファイルの得意なノーブルなインテリ刑事と、見た目はダンディーだが全てを力で解決するワイルドな刑事、そして、その二人に振り回される有名政治家の息子で良い大学を出たおぼっちゃま係長の三人が、偽物の『La vie en Rose(ラビアンローゼ)』を作って、それをネット仲間に流す。
 自分が本物だ吹聴して回ると本物の犯人が自分を主張し、そこにクラッキングしやすいダミー会社の顧客データがほしい、と云う依頼を流す。
 最後にその嘘の情報に上手く犯人グループが引っかかり捕まる。
 ドラマはそんなストーリーになっていた。

 そのドラマは全国で放送されていて、これを見た人間が似たような事を実行出来る。
 極端に云えば、ドラマ製作だけではなく、このドラマを見た人間全てが犯人になりえる…。
 けれど、ドラマ放映前に、脚本が完成し製作に取りかかる前に起こっていると云う事は、これではまるで制作側が黒だと云っているもので、あまりにそれも不自然だと思えた。
 このドラマの脚本は制作側には半年前には渡っていて、大勢の俳優や制作スタッフ、そしてコピーだったら一般に渡る事もある。
 通常の撮影は早ければ半年、遅くても編集の関係で三ヶ月前には終わってるが、この話だけは何故か俳優の出演の都合で、ドラマの撮影は二ヶ月前。
 事件が二ヶ月半前、そして放映が先々週、ただ…。
 大塚は机の上に置いてある煙草に手を伸ばすと一服し、しばらく考えてから頷き、ビデオテープを止めると、残ったコーヒーを一気に胃に流し込みジャケットを取った。

「気になる事をそのままにするのは、俺らしくねぇや…」
 そんな呟きをしながら部屋を出た。




7.横浜市内某撮影所 11:30a.m.

 昼になって、次の自分が書く事になっている脚本の打ち合わせをしに、ひょっこりと石屋が撮影所に行くと、ちょっとした騒ぎになってしまった。

 元々、お祭りだとかが大好きな連中が集まっているのか、それとも普段フィクションを作っている中での、ライブなノンフィクションネタの所為かは判らなかった。
 昨日"神奈川県警捜査一課の本物の刑事"が来ただけでも十分現場の話題に上れるが、ましてそれが事情聴取されたとなれば、それに参加、不参加を問わずして、その噂だけでも盛り上がれる連中は大騒ぎだった。
 そこへ来て、石屋が若い刑事に追求され、同行していた刑事を殴ったと聞けば、スタッフ皆の目の色も変えて、それこそ、実際に合った事に加えて、おひれ、めひれ等々の様々な装飾加わって、ここに書けないほど物凄い想像を絶する話になっていた。
 そこへ渦中の人、石屋の登場は、芸能レポーターに成り果てたスタッフ達にとって、ピラニアの池に金魚を投げ入れるような物だった。
 元々人付き合いが苦手で口数のそう多くない石屋は、脚本家と云う職業の所為もあって、スタッフとはそう親しく付き合っていなかった。
 しかしその日は、普段全く話さないスタッフからも話し掛けられ、開放されるまでに三十分以上も時間を要した。
 そして、やっと今日ここに来た本題であった打ち合わせをするために、撮影所の事務所で待つ夏目の所にたどり着くころには、既に昼を回ってしまっていた。

 夏目は石屋にとって、この仕事に引っ張り込まれた原因でもあり、大学時代からの尊敬する先輩であって、現在の数少ない友人で、この”特捜刑事”では、このドラマで、しばしばディレクターをしていた。
 同世代のディレクターの中では、夏目は一番の注目株でもあった。
 そして…今、巷を騒がせているウィルスを題材にした四十八話も石屋が、夏目と手がけた話だった。

「お疲れさん」
 夏目は、やっと自分の所に来れた友人、石屋を労うように、机に肘を付き銜え煙草のまま、呆れたように云った。
 どうやら撮影所に来てから起こった事を、夏目は全て承知している様子で、そんな姿を見てどう言葉を返していいか判らない石屋は、口ごもってただ赤面するしかなかった。
「しかし、宣伝にはなるけど、迷惑な話だよな…」
 真っ赤になった友人に向け同情している口調で、まだ興奮している様子で部屋の外で騒いでるスタッフ達に、呆れるように溜息混じりの紫煙を吐きだす夏目に、石屋はクスリと笑う。
「ま、彼らにとってはいいネタが出来ただけの事だろう?」
 あんなに迷惑を掛けられたのにも関わらず、呑気に笑っている石屋を見つめ、更に呆れたように夏目は肩を上下する。
「智史…、お前は昔から危機感がなさ過ぎ…」
 顔をしかめて心配している様子の夏目を見て、石屋はフッと微笑む。
「大丈夫だよ。ほら、人の噂も~、って云うじゃないか。実際事件に関与している訳じゃなんだから、警察だってその内諦めるだろう?」
「ならいいが…、しかし…」
 今までの冗談めいた雰囲気を消し夏目の目つきが鋭い物に変わり、石屋も自然に背筋に緊張感が感じられる。
「"あれ"は…、外に出てないから大丈夫…。そう思うだろう?だって…」
 続きを夏目が云おうと口を開いた時に、事務所のドアをノックする音が聞こえる。
 夏目は”判っている”という風に一回頷いた石屋を見てから、嘆息し、"どうぞ!"と叫んだ。
 すると番組のアシスタントディレクターが"失礼いたします"と云って入って来、何やら夏目に耳打ちをする。
 それを聞いて大きく溜息を夏目は付くと、石屋に云う。
「智史…、いや、石屋さん、君にお客様だ…」
 来客の予定の全くない石屋は、小首を傾げると、夏目は忌々しそうに云った。
「昨日君が殴った方の神奈川県警の刑事さんだ…」
「!!」
 驚きに石屋は言葉を失ってしまった。


「よう!!」
 大塚はやっと来た待ち人に対して、普段は絶対他人に見せないような笑顔で声を掛けた。

 この撮影所に来て、アシスタントディレクターらしきスタッフに声を掛け、石屋を呼びだして貰うように頼んで大塚は荷物を搬入するスタジオ入り口で待たされた。
 車でここに向かう途中、前もって石屋の予定を確認した時に、今日は打ち合わせがあって午後から撮影所へ来る、と教えてくれた。
 その上で来た撮影所だったが、呼びに行ってもらってから待ち人が来るまでに、十数分の時間を要した。
 それも大塚の思っていた通り、眼鏡がずり落ちるくらいに秀麗な顔を歪めて、眉間には深く皺を刻み、全身で不機嫌さを訴えるように、わざと大きくうんざりとした風な溜息を付いて、おまけに忌々しそうに睨み付けいる。
 しかしその姿が大塚には、機嫌が悪いプライドの高い高級ネコ、と云う雰囲気を感じさせた。
 石屋のそんな姿を見ただけで、ここに来た甲斐があった、と思えそれだけで大塚は嬉しくなった。
「何かご用ですか?昨日あれだけ事情聴取をしたにも関わらずしつこいですね。それとも神奈川県警ってそんなに無能なんでしょうか?」
「ごあいさつだな…」
 にやにやといやらしく笑っている大塚を、石屋は思いっきり腹を立てたように睨みつける。
「いちいち撮影所に来られて、凄く迷惑してるんですけど…」
 まるで喧嘩でも売るように石屋はそう吐き捨てると、プイッと大塚から顔を背ける。
 鋭い目つきで見つめる石屋と、余裕の表情でにやりと笑う大塚。
 撮影所の事務所の前で立ち話をしている二人の横を、慌ただしく通り過ぎるスタッフに、石屋は助けを求めるように目線をやる。
 しかし、忙しいスタッフの方はそんな石屋や大塚にはお構いなしで、まるで二人とは全く別の空間にでもいるように通り過ぎて行く。

 可愛い顔するじゃないか。
 全く…、そんな表情が股間にくるって判ってるのかね…。
「こんなとこで立ち話も何だから、どっかの会議室にでも通して通してくれないか?」
 大塚はそう云いながら、真っ赤になって拗ねている様に見える石屋を、まじまじと見つめ、嬉しくなってつい笑みをこぼしてしまった。
「何故ですか?」
 つんけんしている石屋に大塚はぼそっと耳打ちする。
 石屋はそれを聞き背筋をぞくっと震わせ、舌打ちすると、忌々しそうに”こっちです”と大塚を会議室まで案内する。
 先導して歩いていた石屋は、もちろんその間一度も口を開かなかった。

『それは、君の胸の中にある事かな…』
 そんな呟きに唾を飲み込んだ石屋は、諦めて大塚を会議室に連れて行く事になった。
 開いている会議室に入ると、そこは二人だけの空間になる。

 目の前で何か云いたげに笑っている大塚の様子に、腹を立てて親の敵にでも目の前にいるような、きつい視線で石屋に見られ、取り繕うように慌てて大塚は云い訳をする。
「ま、そんな目で見なさんなって…。俺は、あんたにどうしても逢いたくてさ、こうやって足を運んだんだから…」
 石屋の形相は、大塚の言葉とふてぶてしく思える態度に、更に険しさを増し、その苛立ちをぶつけるように声を荒立つ。
「だから!!それが迷惑だって云ってるんです。云いたい事があるならさっさと云え!!」
「そんなに怒鳴りなさんなって。君がさそう云うつれない態度とるからさ…、俺としてはよけい燃えちゃうわけよ」
 怒りに震えている予想通りの反応に面白くなり、つい顔がほころんでいってしまった大塚は、右手でグイッと石屋の肩を自分に引き寄せ、左頬に口付けた。
「刑事さん!!」
 石屋はワナワナと肩を震わせそう叫ぶと、その怒りを大塚の腹にぶつけるように、力一杯肘鉄をくらわした。
 肘が思いっきり胃に入り、その痛みに大塚は腹を両手で押さえるが、そんな様子をかまわずに石屋は怒鳴る。
「そう云うのって、セクハラって云うんじゃないのか?だいたいあんた、何をしに来たんだで!」
 腹に食い入る苦痛を表すかのように、大塚はサングラスの下の眉を寄せ、まだ痛みを感じる場所を押さえながら、わざと揶揄うように、にやりと笑う。
「そりゃ、君に逢いに来たんだ、智史の事が心配だったから…」
「あ、あんたに"智史"なんて名前で呼ばれる筋合いはない!!」
「冷たいね~、一緒にコインゲームした仲じゃん」
「え?」
 驚きに動きが止まった石屋の両腕を大塚は掴んで、”とにかく聞け”と真っ直ぐに奇麗に整った瞳を見つめた。
「昨夜、智史ってば、めっちゃ当たってたじゃん。俺、隣にいたの…」
「じゃ、あの時の…、刑事?」
 そう云いながら顔を背けた石屋にはどうやら覚えがあるようだった…、もしかしたら吉川がもたらしたごたごたを見て、あの場から立ち去ったのかも知れなかったが…。
「そ。で、事情聴取に来て運命的なもの、感じちゃったんだよね」
「な!ふざけんな、何が運命だ!あんたここに仕事で来たんだろう。だったらきちんと仕事をしろよ!!」
 石屋の怒りに顔を真っ赤にして震えているのを見て、怒った顔もたまらない、まじ燃えそう…、と大塚は感じる。
「え、何か勘違いしているな、智史は」
「何が…だ?」
 大塚にそう云われて、石屋は驚き、そして眉間に皺を寄せて、間が抜けたように口を”えっ”と小さく開ける。
「俺は仕事で来たんじゃない、智史に逢いに来たんだ」
「あ、あんた刑事だろ!!」
「いや、俺は刑事じゃない」
 自慢げに”にっ”と笑って大塚はそう云った。更に衝撃を受けたように石屋の開かれた口が大きく広がり、そのまま苛立ちをぶつけるように叫ぶ。
「じゃあ!!」
「俺は神奈川県警察本部情報システム部、勤務なんだ」
 不敵な笑みを浮かべながらそう自己紹介すると自分の名刺をすっと大塚が差し出し、昨日からずっと刑事だと信じて話をしていた石屋は、その驚きと騙されたと云う腹立つ気持ちが入り交じって、その怒りに顔を真っ赤にして声を荒立てる。
「じゃあ、なんで!!昨日だって…」
「一緒にいたのは確かに捜査一課の刑事だ。俺は別の用事でここに来たの」
「別の用事?」
「そ、一つは智史、君を口説くため…」
 左手の人差し指をはっきりと判るように一本立て、訝しげに目を見開く石屋はまた揶揄われているのではないかと、怒りに口を開けるが、大塚はすかさず言葉を付け足す。
「そして残念ながら、もう一つ…」
「まだ何か有るんですか!あんたいい加減にしろよ!!」
 大塚は大声を出す石屋の口を手で塞ぎ、ひそひそ話をするように小声を出した。
「La vie en Rose(ラビアンローゼ)…、バラ色の人生…」
「そ、それが、ど、どうしたんですか?」
 顔色までは変えなかったが、何かを隠しているかのように口ごもった石屋を見ない振りをして、大塚はすました顔で言葉を続けた。
「いや、たださ…、智史が書いた脚本に出てきて、そんでもって今回のウィルス騒ぎでも使われた名前だな…。ってそう思っただけ…」
 わざと何かを含む云い方をし、にやにやと意味深に笑う大塚を直視出来ずに、目線を背けながら石屋は口ごもりながら相づちを打つ。
「そ、そですね…。それが…、何か?」
「いや、なんとなく思っただけだ。バラ色の人生なんて在り来たりの名前だしな…」
 どう返事をして良いかその言葉に戸惑い、動けなくなっている石屋の肩に、近づいて耳に唇が触れるか触れないかの距離で熱い吐息を吐くようにそっと囁く。
「何かあったら云ってくれよ…、この事件の事や、それ以外で相談があったら」
「…」
 全てを大塚に見透かされているような、そんな不安が襲ってきた石屋は、何か云いたげに口を開きながら言葉を探した。
「な、俺と智史の仲だろう?」
「!!」
 石屋の顎に、そっと大塚は左手を添えると、何も考えられずにただ呆然と開かれている唇に誘われるように、唇で塞ぎ、歯列をゆっくりなぞる。
 そして、その奥でちんまりと収まっている官能を全く知らない聖女のような舌へ、熱く欲望を滾らせた舌を絡ませる。
 まるで躯を繋げているのではないか、と思わせるほどの燃える口付けに、欲望の激しい流れの河に落とされたかのように、そのまま石屋は流されていく。
 しかし大塚の自分を抱きしめる腕が、一層強さを増し、服の上からもはっきり判るような、腰に当たる熱く滾らせて開放を時を期待しているものを躯に感じた一瞬、我に返り必死にもがきながら自分を侵略し始めている大塚から必死に逃れる。
 そして唇が外れた瞬間叫ぶ。
「い、いい加減にして下さい!!」
 その声と同時に、部屋には激しい頬を叩く音が響き渡った。

「どうしたんだ!」
 いきなりドアが開き、まるでスタンバイしていたのではないか、と思うくらい最高のタイミングで夏目は部屋に飛び込んできた。

 拳を握り締め必死に怒りと戦っている石屋。
 打たれた頬を左手で押さえ、ふてぶてしく笑っている大塚。
 その姿は誰が見ても一目瞭然で、後から入って来た夏目にも二人の様子を見てどんな状況下直ぐに伺えた。
 夏目は石屋を守るように大塚から奪い、自分の方へ引っ張り寄せると、宿敵に出逢った化のように唇を噛みしめ、睨み付けた。

「何が起こったか…、説明して頂けますか?」
 必死に冷静を装う話し方だったが、内から沸き立つ怒りに燃えているそんな瞳で見つめられ、大塚は思わず吹き出してしまった。
「何が、可笑しいんですか?」
 再度、夏目に睨み付けられ大塚は笑うのをすっと止める。
「すまんな、笑っちまって…」
 笑ってはいないが、何か物云いたげな目でにやにや見つめる大塚を、夏目は訝しげな視線で眉間に皺を寄る。
「刑事さん、あなたは石屋に事件の事情を聞くために来たんじゃないんですか?」
「いや、違うよ」
 お前が石屋に何をしたかを全て知っている、と云わんばかりに鋭い眼光で問いつめる夏目に、大塚はすました顔でそう答えた。
 大塚のその態度に夏目は怒りに拳を震わせて、声を荒立てる。
「じゃあ何で!」
「俺に逢うため…、だそうですよ…。ね、大塚さん」
 確信になかなか入らない二人のやり取りに痺れを切らし、まるでどこぞの深窓のお姫様がナイトに守られるように後ろにいた石屋は、夏目を避け大塚の前に立った。
 そして、そう云うと悔しさを表すように奥歯を噛み締め、睨み付けるが、何か云いたげな余裕の表情で大塚はポリッと鼻をかく。
「ま、それもあるな…」
「じゃあ、さっき、何で物凄い音がこの部屋からしたんだ!?」
 夏目にそう問われ、大塚はまるで合図での送るようにちらっと石屋に目線を流す。
「それは…、云っちゃってもいいのかな?智史」
「え…」
 別に大塚に対して悪い事をしたつもりなどはなかったが、さっきのからの態度で自分の秘密を知っている口振りだった様子に鼓動を早くし、石屋は言葉を飲み込んでしまった。
「ま、いいや…」
 石屋の不安をよそに大塚は直ぐに興味を無くした態度をとると、視線をそらし夏目を見ると真剣な面もちをする。
「夏目ディレクター、俺は石屋さんに惚れてるんです」
 まるで新郎が新婦の父親に"お嬢さんを下さい"と云う口振りで、夏目に宣言した。
 自分や周りの事を構わずに云ってのけるずうずうしい態度に、開いた口が締められず渋い顔をしている石屋に、大塚は"な、智史"とウィンクする。
 さっき無理矢理に奪われた口付けを思い出し、石屋は顔を真っ赤にし、そして叫ぶ。
「知りません!!あれはあんたが勝手に…」
「そんな冷たい事云うなよ、智史」
 そんな反論すら自分の都合のいい風に大塚は取り、懲りずに肩を自分の方に近づけ、唇を髪に寄せる真似をすると、石屋はまるで猫が毛を立てて威嚇するようにその手を思いっきり叩く。
「だから関係ないって云ってるだろ!!」
「まあいいや…」
 真っ赤になって怒っている姿が可愛く見える石屋に、大塚は微笑む。
「また来るよ、智史…。その時には君の悩みを教えてほしいな…」
 その言葉に背筋に寒いものを感じた石屋はごくっと唾を飲み込み、それが脅しに取れた夏目は大塚に怒鳴る。
「いい加減にしろよ!!いくら警官だからって、して良い事と悪い事ぐらい判るだろ!早く帰らないと訴えるぞ!」
 必死に石屋を守ろうとする夏目の姿に、クスリと笑いながら"そうだね。夏目ディレクター…"と呟き、そして思い出したように言葉を繋げた。
「そう云えば…」
「何だ、まだいたのか!早く帰れ!」
 忌々しそうに見つめる夏目に何気なく問う。
「夏目ディレクターは…、ここで智史…、石屋君と俺と何があったか、よく判りましたね。いいタイミングで邪魔してくれた…。まるでストーカーチックってかんじ?」
「!!」
 心当たりのある石屋は驚きに自分を守ろうとしている人物を見ると、大塚を睨み付けながら悔しそうに拳を握り締め言葉を失っていた。
 その夏目の姿に石屋の心の中で引っかかっていた不安が一気に膨れ上がり、二人の思っている事がまるで読めるかのように、大塚は不気味な笑みを浮かべている。
「では…、失礼します」
 大塚はにやりと笑い夏目に会釈をして、そして石屋の肩にポンと手を乗せると、"智史、またな"と云って頬にキスをした。
 暴れる石屋の背中越しに、余裕の笑みで大塚が手を振りながら部屋を出ると、ドアは音を立てて閉まっていく。

 一時の静まり返った部屋。
 大塚が去ったのを確認し、夏目は石屋に駆け寄って心配しながら口を開いた。
「大丈夫か?智史…」
「それは…、お前が気にする事じゃないさ、大丈夫だから…」
 石屋は冷めた微笑みで心配する夏目に応えると、表情をまた真剣なものに戻す。
「それより…、La vie en Rose(ラビアンローゼ)…の事だが…」
「何か云われたのか?」
「あの男、何か知っているようだった…。あれは…、お前と俺しか知らないはずだよな、夏目?」
「あ、ああ…」
 口ごもりながら、夏目はゆっくり頷いた。
「判った…、俺はお前を…信頼してるから…」
 石屋は夏目の言葉に安心したように、少しずつ緊張を解していった。

『信頼してるね…。全く中での声がしっかり外に筒抜けじゃねーか…』
 大塚は大きく溜息を付いた。



閑談休話~もしくは云い訳

まず、この話は思い起こせば数年前、作者が一番最初に小説を書こう!と思った時に作ったプロットの続編です。
キャラクターの名前もその時に考えたんですが、しかし世の中とは恐ろしい。
なんで恐ろしいと思うかと云うとこの話を焼き直した時に作者が今LIVEではまっている某特撮のキャラクター&役者様の名前とかぶるは、現首相とかぶるは…。
止むを得ず名前を変えたキャラクターもいます。ほんに恐ろしや恐ろしや。
因みに作者が一番最初に~と考えている話しはスイと木下さんのお話なんですが、その話しを書かずにこの話しを書くのがいかに難しいかを今回書いていて感じました。
なにせ説明が…、前半の部分は物凄い説明が多くなってしまい、自分の技巧のなさに涙をしました。
いつかスイの話しも書きたいと思ってるんですが、自分で作っておいて何なんですが、物凄く難しいと感じ、もう少し文章が上手くなったら日の目を~と思ってます。
その時は、宜しければ読んでやって下さいませませ。

 to be continued…
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