2 / 67
2
しおりを挟む
葬式後のバタバタした雰囲気が去って一週間が経った。
平日の朝。真広と真理恵はそれぞれ仕事に行く前の準備を済ませ、朝食を食べていた。
母親が亡くなり自由になった二人だが、前の生活と変わったことはほとんどない。
母親の世話がなくなったのだからその分なにかすればいいのだが、まだそういう気分にはなれてなかった。
真広はトーストにジャムを塗る妹に言った。
「シフトを増やしてもらえることになったよ。これからはフルタイムで働かないとな。この歳でそんなことを言うのも変だけど」
真理恵は真広をちらりと見て少し罪悪感を覚えながら頷いた。
「仕方ないですよ。母さんは兄さんを離さなかったんだから」
「うん。まあ。けどこれからはそうじゃない」
「ええ。そうですね」
一階の居間には落ち着いた空気が流れていた。
二人の住む家は古く、中も外も昭和の香りが漂っている。二階建てだが決して広いとは言えず、庭も狭い。隣の家とはほとんど隙間がなく、通れるのは子供か猫くらいだ。
階段が多く、細い道も多いこの町には年寄りが増え、若者は反比例するように減っていた。バスに乗ればそれほど時間も経たず都会に行けるし、電車も通っているのに活気というものがまるでない。
皮肉にも震災を生き残ったせいで時代に取り残されたこの町に二人は生まれた頃から住んでいた。
物静かな真広と何事もきちんとしたい真理恵は双子だがあまり似ていなかった。なのでいわゆる以心伝心みたいなものを感じたことはない。
真広は真理恵に告げた。
「その、これからは正社員を目指そうと思ってるんだ。今のところで無理なら別のところを探すつもりだよ」
「それがいいでしょうね」
「うん……。その、だから僕のことなら大丈夫だ。この家もあるし、食べてくくらいならなんとかなる」
真理恵は言葉の意味を理解して眉をひそめた。
「私にここを出て行けと?」
「いや。違う。出て行けとは言わない」
「ならなんです?」
「……その。だから、出て行きたくなったら……まあ、うん……」
「遠慮せずに出て行けと? 馬鹿馬鹿しい。生憎そんな予定はないですよ」
「まあ、ならいいけど」
真広は静かに安堵し、真理恵はやれやれとかぶりを振った。
真理恵だって派遣社員だ。大した給料はもらっていない。いきなり出て行けと言われたら困る。もちろん出て行きたいと思ったことはあった。あったが、それは随分前のことだ。
色々とあった理想は既に錆び付き、今はなんとなく収まったこの日常以外のことは考えられていない。
そう。二人はもう三十五歳なのだ。これが二十代ならまだ少し違ったかもしれない。
だがこの歳で今頃変われと言われてもそう簡単ではない。気力も体力も下り坂で、恥ずかしい理想を語れるほど世の中のことを知らないわけではなかった。
恋愛などもう随分していない。気になるのは健康と老後の不安になってきた。
毎月の給料から決まった額を貯金に回し、残った僅かな額を趣味に回す。それでいいし、それくらいしかない。
「生活費はどうしようか?」
真広は真理恵に尋ねた。前は母親の年金から食費や光熱費を出していた。しかしそれもなくなる。
「半分ずつでいいんじゃないですか? 月末に計算して、それを割る」
「うん。そうしてくれると助かる」
真広は今、月に十万円ほどしか稼ぎがない。あまり家を空けると母が不安になるから働きたくても働けなかった。
そういう意味でも変わることができるのは真広であり、真理恵はさほど変わる余地はなかった。
「兄さん」
二人は双子だが数分早く生まれた兄を真理恵はそう呼んでいた。
「な、なに?」
「私のことはいいから、もう少し好きにやってください」
「好きにって?」
「ほら、色々あるでしょ? 誰にだってちょっとした趣味が。そうそう。母さんがへそくりを貯めてるとか言っていたじゃないですか。あれで旅行でも行ってきたらどうですか?」
「そう言えばそんなことも言ってたな。でもどこにあるんだか。どちらにせよ、あんまり旅行っていう気分じゃないな」
「そうですか。まあ、これからは人のことを気にせず好きに生きてください」
真理恵はなにもせずにいる兄を見るのがいたたまれなかった。今までは母のための人生だったとしても、母が死んだ後もそうでは哀れで仕方ない。
「そうだな……。まあ、考えておくよ」
そこで二人の会話は終わった。母が生きていた時はなんだかんだでその世話をするために話していたし、母とも多少は言葉を交わした。
だがもうこの家には二人しかいなかった。どちらかが黙ればそこで会話は終わる。
しばらくして真理恵は「行ってきます」と言って家を出た。
それから数十分後、真広もまた行ってきますと言おうとした。だが言わなかった。もう言う必要はなかった。
平日の朝。真広と真理恵はそれぞれ仕事に行く前の準備を済ませ、朝食を食べていた。
母親が亡くなり自由になった二人だが、前の生活と変わったことはほとんどない。
母親の世話がなくなったのだからその分なにかすればいいのだが、まだそういう気分にはなれてなかった。
真広はトーストにジャムを塗る妹に言った。
「シフトを増やしてもらえることになったよ。これからはフルタイムで働かないとな。この歳でそんなことを言うのも変だけど」
真理恵は真広をちらりと見て少し罪悪感を覚えながら頷いた。
「仕方ないですよ。母さんは兄さんを離さなかったんだから」
「うん。まあ。けどこれからはそうじゃない」
「ええ。そうですね」
一階の居間には落ち着いた空気が流れていた。
二人の住む家は古く、中も外も昭和の香りが漂っている。二階建てだが決して広いとは言えず、庭も狭い。隣の家とはほとんど隙間がなく、通れるのは子供か猫くらいだ。
階段が多く、細い道も多いこの町には年寄りが増え、若者は反比例するように減っていた。バスに乗ればそれほど時間も経たず都会に行けるし、電車も通っているのに活気というものがまるでない。
皮肉にも震災を生き残ったせいで時代に取り残されたこの町に二人は生まれた頃から住んでいた。
物静かな真広と何事もきちんとしたい真理恵は双子だがあまり似ていなかった。なのでいわゆる以心伝心みたいなものを感じたことはない。
真広は真理恵に告げた。
「その、これからは正社員を目指そうと思ってるんだ。今のところで無理なら別のところを探すつもりだよ」
「それがいいでしょうね」
「うん……。その、だから僕のことなら大丈夫だ。この家もあるし、食べてくくらいならなんとかなる」
真理恵は言葉の意味を理解して眉をひそめた。
「私にここを出て行けと?」
「いや。違う。出て行けとは言わない」
「ならなんです?」
「……その。だから、出て行きたくなったら……まあ、うん……」
「遠慮せずに出て行けと? 馬鹿馬鹿しい。生憎そんな予定はないですよ」
「まあ、ならいいけど」
真広は静かに安堵し、真理恵はやれやれとかぶりを振った。
真理恵だって派遣社員だ。大した給料はもらっていない。いきなり出て行けと言われたら困る。もちろん出て行きたいと思ったことはあった。あったが、それは随分前のことだ。
色々とあった理想は既に錆び付き、今はなんとなく収まったこの日常以外のことは考えられていない。
そう。二人はもう三十五歳なのだ。これが二十代ならまだ少し違ったかもしれない。
だがこの歳で今頃変われと言われてもそう簡単ではない。気力も体力も下り坂で、恥ずかしい理想を語れるほど世の中のことを知らないわけではなかった。
恋愛などもう随分していない。気になるのは健康と老後の不安になってきた。
毎月の給料から決まった額を貯金に回し、残った僅かな額を趣味に回す。それでいいし、それくらいしかない。
「生活費はどうしようか?」
真広は真理恵に尋ねた。前は母親の年金から食費や光熱費を出していた。しかしそれもなくなる。
「半分ずつでいいんじゃないですか? 月末に計算して、それを割る」
「うん。そうしてくれると助かる」
真広は今、月に十万円ほどしか稼ぎがない。あまり家を空けると母が不安になるから働きたくても働けなかった。
そういう意味でも変わることができるのは真広であり、真理恵はさほど変わる余地はなかった。
「兄さん」
二人は双子だが数分早く生まれた兄を真理恵はそう呼んでいた。
「な、なに?」
「私のことはいいから、もう少し好きにやってください」
「好きにって?」
「ほら、色々あるでしょ? 誰にだってちょっとした趣味が。そうそう。母さんがへそくりを貯めてるとか言っていたじゃないですか。あれで旅行でも行ってきたらどうですか?」
「そう言えばそんなことも言ってたな。でもどこにあるんだか。どちらにせよ、あんまり旅行っていう気分じゃないな」
「そうですか。まあ、これからは人のことを気にせず好きに生きてください」
真理恵はなにもせずにいる兄を見るのがいたたまれなかった。今までは母のための人生だったとしても、母が死んだ後もそうでは哀れで仕方ない。
「そうだな……。まあ、考えておくよ」
そこで二人の会話は終わった。母が生きていた時はなんだかんだでその世話をするために話していたし、母とも多少は言葉を交わした。
だがもうこの家には二人しかいなかった。どちらかが黙ればそこで会話は終わる。
しばらくして真理恵は「行ってきます」と言って家を出た。
それから数十分後、真広もまた行ってきますと言おうとした。だが言わなかった。もう言う必要はなかった。
1
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
異世界に転移してしまった私、古民家をもらったのでカフェを始めたら大盛況。国王陛下が頻繁に来るのですが、どうしたらいいですか?
来栖とむ
ファンタジー
ブラック企業で疲れ果てた30歳の元OL・美里(みさと)が転移した先は、見渡す限りの深い森。
そこで彼女が授かったのは、魔女の称号……ではなく、一軒の**「日本の古民家」**だった!
亡き祖母が遺したその屋敷には、異世界では失われたはずの「お醤油」「お味噌」「白いお砂糖」という禁断の調味料が眠っていて――。
「えっ、唐揚げにそんなに感動しちゃうの?」
「プリン一口で、国王陛下が泣いちゃった……!?」
おにぎり、オムライス、そして肉汁溢れるハンバーグ。
現代日本の「当たり前」が、この世界では常識を覆す究極の美食に。
お掃除のプロな親子や、お忍びの王様、さらにはツンデレな宮廷料理人まで巻き込んで、
美味しい香りに包まれた、心もお腹も満たされるスローライフが今、始まります!
二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)
MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。
かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。
44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。
小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。
一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。
ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?
至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件
こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる