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葬式後のバタバタした雰囲気が去って一週間が経った。
平日の朝。真広と真理恵はそれぞれ仕事に行く前の準備を済ませ、朝食を食べていた。
母親が亡くなり自由になった二人だが、前の生活と変わったことはほとんどない。
母親の世話がなくなったのだからその分なにかすればいいのだが、まだそういう気分にはなれてなかった。
真広はトーストにジャムを塗る妹に言った。
「シフトを増やしてもらえることになったよ。これからはフルタイムで働かないとな。この歳でそんなことを言うのも変だけど」
真理恵は真広をちらりと見て少し罪悪感を覚えながら頷いた。
「仕方ないですよ。母さんは兄さんを離さなかったんだから」
「うん。まあ。けどこれからはそうじゃない」
「ええ。そうですね」
一階の居間には落ち着いた空気が流れていた。
二人の住む家は古く、中も外も昭和の香りが漂っている。二階建てだが決して広いとは言えず、庭も狭い。隣の家とはほとんど隙間がなく、通れるのは子供か猫くらいだ。
階段が多く、細い道も多いこの町には年寄りが増え、若者は反比例するように減っていた。バスに乗ればそれほど時間も経たず都会に行けるし、電車も通っているのに活気というものがまるでない。
皮肉にも震災を生き残ったせいで時代に取り残されたこの町に二人は生まれた頃から住んでいた。
物静かな真広と何事もきちんとしたい真理恵は双子だがあまり似ていなかった。なのでいわゆる以心伝心みたいなものを感じたことはない。
真広は真理恵に告げた。
「その、これからは正社員を目指そうと思ってるんだ。今のところで無理なら別のところを探すつもりだよ」
「それがいいでしょうね」
「うん……。その、だから僕のことなら大丈夫だ。この家もあるし、食べてくくらいならなんとかなる」
真理恵は言葉の意味を理解して眉をひそめた。
「私にここを出て行けと?」
「いや。違う。出て行けとは言わない」
「ならなんです?」
「……その。だから、出て行きたくなったら……まあ、うん……」
「遠慮せずに出て行けと? 馬鹿馬鹿しい。生憎そんな予定はないですよ」
「まあ、ならいいけど」
真広は静かに安堵し、真理恵はやれやれとかぶりを振った。
真理恵だって派遣社員だ。大した給料はもらっていない。いきなり出て行けと言われたら困る。もちろん出て行きたいと思ったことはあった。あったが、それは随分前のことだ。
色々とあった理想は既に錆び付き、今はなんとなく収まったこの日常以外のことは考えられていない。
そう。二人はもう三十五歳なのだ。これが二十代ならまだ少し違ったかもしれない。
だがこの歳で今頃変われと言われてもそう簡単ではない。気力も体力も下り坂で、恥ずかしい理想を語れるほど世の中のことを知らないわけではなかった。
恋愛などもう随分していない。気になるのは健康と老後の不安になってきた。
毎月の給料から決まった額を貯金に回し、残った僅かな額を趣味に回す。それでいいし、それくらいしかない。
「生活費はどうしようか?」
真広は真理恵に尋ねた。前は母親の年金から食費や光熱費を出していた。しかしそれもなくなる。
「半分ずつでいいんじゃないですか? 月末に計算して、それを割る」
「うん。そうしてくれると助かる」
真広は今、月に十万円ほどしか稼ぎがない。あまり家を空けると母が不安になるから働きたくても働けなかった。
そういう意味でも変わることができるのは真広であり、真理恵はさほど変わる余地はなかった。
「兄さん」
二人は双子だが数分早く生まれた兄を真理恵はそう呼んでいた。
「な、なに?」
「私のことはいいから、もう少し好きにやってください」
「好きにって?」
「ほら、色々あるでしょ? 誰にだってちょっとした趣味が。そうそう。母さんがへそくりを貯めてるとか言っていたじゃないですか。あれで旅行でも行ってきたらどうですか?」
「そう言えばそんなことも言ってたな。でもどこにあるんだか。どちらにせよ、あんまり旅行っていう気分じゃないな」
「そうですか。まあ、これからは人のことを気にせず好きに生きてください」
真理恵はなにもせずにいる兄を見るのがいたたまれなかった。今までは母のための人生だったとしても、母が死んだ後もそうでは哀れで仕方ない。
「そうだな……。まあ、考えておくよ」
そこで二人の会話は終わった。母が生きていた時はなんだかんだでその世話をするために話していたし、母とも多少は言葉を交わした。
だがもうこの家には二人しかいなかった。どちらかが黙ればそこで会話は終わる。
しばらくして真理恵は「行ってきます」と言って家を出た。
それから数十分後、真広もまた行ってきますと言おうとした。だが言わなかった。もう言う必要はなかった。
平日の朝。真広と真理恵はそれぞれ仕事に行く前の準備を済ませ、朝食を食べていた。
母親が亡くなり自由になった二人だが、前の生活と変わったことはほとんどない。
母親の世話がなくなったのだからその分なにかすればいいのだが、まだそういう気分にはなれてなかった。
真広はトーストにジャムを塗る妹に言った。
「シフトを増やしてもらえることになったよ。これからはフルタイムで働かないとな。この歳でそんなことを言うのも変だけど」
真理恵は真広をちらりと見て少し罪悪感を覚えながら頷いた。
「仕方ないですよ。母さんは兄さんを離さなかったんだから」
「うん。まあ。けどこれからはそうじゃない」
「ええ。そうですね」
一階の居間には落ち着いた空気が流れていた。
二人の住む家は古く、中も外も昭和の香りが漂っている。二階建てだが決して広いとは言えず、庭も狭い。隣の家とはほとんど隙間がなく、通れるのは子供か猫くらいだ。
階段が多く、細い道も多いこの町には年寄りが増え、若者は反比例するように減っていた。バスに乗ればそれほど時間も経たず都会に行けるし、電車も通っているのに活気というものがまるでない。
皮肉にも震災を生き残ったせいで時代に取り残されたこの町に二人は生まれた頃から住んでいた。
物静かな真広と何事もきちんとしたい真理恵は双子だがあまり似ていなかった。なのでいわゆる以心伝心みたいなものを感じたことはない。
真広は真理恵に告げた。
「その、これからは正社員を目指そうと思ってるんだ。今のところで無理なら別のところを探すつもりだよ」
「それがいいでしょうね」
「うん……。その、だから僕のことなら大丈夫だ。この家もあるし、食べてくくらいならなんとかなる」
真理恵は言葉の意味を理解して眉をひそめた。
「私にここを出て行けと?」
「いや。違う。出て行けとは言わない」
「ならなんです?」
「……その。だから、出て行きたくなったら……まあ、うん……」
「遠慮せずに出て行けと? 馬鹿馬鹿しい。生憎そんな予定はないですよ」
「まあ、ならいいけど」
真広は静かに安堵し、真理恵はやれやれとかぶりを振った。
真理恵だって派遣社員だ。大した給料はもらっていない。いきなり出て行けと言われたら困る。もちろん出て行きたいと思ったことはあった。あったが、それは随分前のことだ。
色々とあった理想は既に錆び付き、今はなんとなく収まったこの日常以外のことは考えられていない。
そう。二人はもう三十五歳なのだ。これが二十代ならまだ少し違ったかもしれない。
だがこの歳で今頃変われと言われてもそう簡単ではない。気力も体力も下り坂で、恥ずかしい理想を語れるほど世の中のことを知らないわけではなかった。
恋愛などもう随分していない。気になるのは健康と老後の不安になってきた。
毎月の給料から決まった額を貯金に回し、残った僅かな額を趣味に回す。それでいいし、それくらいしかない。
「生活費はどうしようか?」
真広は真理恵に尋ねた。前は母親の年金から食費や光熱費を出していた。しかしそれもなくなる。
「半分ずつでいいんじゃないですか? 月末に計算して、それを割る」
「うん。そうしてくれると助かる」
真広は今、月に十万円ほどしか稼ぎがない。あまり家を空けると母が不安になるから働きたくても働けなかった。
そういう意味でも変わることができるのは真広であり、真理恵はさほど変わる余地はなかった。
「兄さん」
二人は双子だが数分早く生まれた兄を真理恵はそう呼んでいた。
「な、なに?」
「私のことはいいから、もう少し好きにやってください」
「好きにって?」
「ほら、色々あるでしょ? 誰にだってちょっとした趣味が。そうそう。母さんがへそくりを貯めてるとか言っていたじゃないですか。あれで旅行でも行ってきたらどうですか?」
「そう言えばそんなことも言ってたな。でもどこにあるんだか。どちらにせよ、あんまり旅行っていう気分じゃないな」
「そうですか。まあ、これからは人のことを気にせず好きに生きてください」
真理恵はなにもせずにいる兄を見るのがいたたまれなかった。今までは母のための人生だったとしても、母が死んだ後もそうでは哀れで仕方ない。
「そうだな……。まあ、考えておくよ」
そこで二人の会話は終わった。母が生きていた時はなんだかんだでその世話をするために話していたし、母とも多少は言葉を交わした。
だがもうこの家には二人しかいなかった。どちらかが黙ればそこで会話は終わる。
しばらくして真理恵は「行ってきます」と言って家を出た。
それから数十分後、真広もまた行ってきますと言おうとした。だが言わなかった。もう言う必要はなかった。
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