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高野にはこれと言った友人は愚か、知り合いすらいなかった。
職場でも仕事のこと以外は話さず、そもそも業務のほとんどが黙って行われる。休日なんて一言も発さずに終わることが多かった。
だがそんな生活が小白達親子と出会ってから変わっていった。
仕事終わり、高野は毎日スーパーで弁当を買って帰るが、それが一つから三つになった。
病気であまり動けない瑠璃の代わりに弁当や他の食材を買って帰り、自分も一緒に食べる。最初はほとんど会話なんてなかったが、慣れてきたのか小白があれこれと尋ね、高野がそれに困りながらも答えていると次第に会話は弾んでいった。
「ねえ。うちのみみかわいいでしょ?」
「そうだな。よく聞こえそうだ」
最近テレビの音が大きくなっていた高野は羨ましそうにそう答えた。
嬉しそうに笑う小白を見て瑠璃は申し訳なさそうにする。
「すいませんいつも……」
「いや、ついでだから」
瑠璃もパートで働いていたが病気のせいで出勤できていない。当然給料はなく、その間の食費を高野が立て替えていた。
そのせいで酒は減り、パチンコにも行けなくなった。煙草も少しだが吸う量が減った。
それを惜しむ時もある。だがそれでも高野は二人に弁当を届け続けた。
なぜ赤の他人にこんなことをやっているのか高野自身にも分からない。だがやらないといけない気がした。
それは小白達のためではなく、自分のために。そんな気がした。
そのおかげで瑠璃の顔色は少しずつ良くなり、簡単な料理ならできるようになっていた。
そうなると高野は食材も買ってくるようになった。それを瑠璃が調理して三人で食べる。
そのたびに高野はリビングにある写真立てが気になった。笑顔の瑠璃の隣に並ぶ若い男がそこにいた。
二週間ほど経ってようやく高野は尋ねた。
「……旦那は?」
瑠璃は寂しそうに笑った。
「亡くなりました。事故で」
瑠璃は優しく膝の上に頭を乗せて眠る小白を撫でた。
「……そうか」
高野は聞いたことを後悔した。てっきり離婚でもしたのだと思っていた。
気にする高野を慰めるように瑠璃は微笑み、尋ねた。
「その、なんでここまでしてくれるんですか?」
それは至極まっとうな質問だった。下心がないことは瑠璃も分かっていたが、だとしても隣人だと言うだけで助けてくれる存在は今の時代珍しい。
高野は少し考えてみたが答えは出ず、「……なんでだろうな」と呟いた。
そして歳を取りボロボロになった自分の手を見つめ、握った。
「俺にも分からん」
高野は小さく溜息をついた。
「迷惑ならもうやめるよ」
「いえ、そんなことは思ったことないです。ただ、その……」
瑠璃は俯いて小白の可愛い耳を見つめた。
「…………わたしは、わたし達は普通じゃないですから……」
その寂しい言葉を聞いて高野は妙に納得した。
「……だからかもな。俺も自分を普通だと思ったことは一度もない」
どこに行っても誰もそう思わせてくれなかった。
だからこそこの状況が心地良いのかもしれない。高野はそう思ったが言わなかった。
瑠璃はそれを感じ取ったらしく、小白を撫でながらゆっくりと話し出した。
「外の世界を見てみたかったんです。わたしが生まれたのは小さな島だったので。もちろん反対されました。わたし達が生きるには外の世界は優しくないですから。直接なにかを言われることは少ないですが、いつだって視線は感じました。警戒するような、憐れんでいるような、そんな目で見られるんです。覚悟はしていましたけどね」
瑠璃が苦笑すると高野はばつが悪くなった。高野も初めて小白の耳を見た時はギョッとした。妖怪なんじゃないかとすら思った。
ネコミ族の存在はどこかで見聞きしたことはあったが、見るのは初めてだ。だが高野はこれと同じようなことをずっとしてきている。
静かな場所で知的障害者がよく分からない言葉を喚いたのを見聞きした時だったり、街中で黒人や白人を見た時だったり、聞き慣れないアジア系の言葉を話す若者達の隣を通り過ぎる時だったり。
差別しているわけではないつもりだが、それでも見てしまう。身構えてしまう。関わりたくないと思ってしまう。
知らないから。分からないから。そんな理由で。
高野が瑠璃と小白に抱いた最初の感情もそれだった。自分の度量のなさに辟易しながらも高野は瑠璃の話を聞いていた。
「すぐに帰ろうと思いました。わたしはここで生きるべきじゃないんだと感じましたから。でも、彼と出会えた」
瑠璃は嬉しそうに写真立てを見つめた。そこには優しそうな若い男が映っている。
「バイト先で出会った彼は警戒心の塊みたいなわたしにも優しく接してくれました。昔の自分に似ているからって。彼も身寄りがなかったんです。震災で家も家族も失ったって言っていました。それでも周りの人に支えられて少しずつ立ち直っていったんだそうです。だからわたしもどうにかなるって。不幸は続かない。続いているとしたら、それは自分が自分を不幸にしているだけだって彼は言いました。本当にそうですよね。わたしは自分が思い描いていた理想の未来が来ないことが不満だったんです。こんなはずじゃなかった。もっとよくなるはずだったのにって。でもそれはただのワガママで、望んだものが願うだけで手に入ると思っていた子供の考えだったんです。現実に受け入れてもらうには、自分が現実を受け入れないといけない。彼はそれをわたしに教えてくれました」
「……残酷な言葉だ」と高野は嘆息した。
「ええ」瑠璃は頷いた。「でも、結局それしかないんです。現実を受け入れるしかない。でないと誰も前に進めない。この言葉があったからわたしはなんとかやってこれました」
瑠璃は静かに微笑する。それは自らの人生に誇りを持っているものの笑みだった。
高野は写真を見つめた。写真には小白が写っていない。おそらく小白が生まれる前に瑠璃の旦那は亡くなったんだろう。
受け入れがたい様々な現実を受け入れ、瑠璃はここまでやってきた。
俺とは大違いだ。高野はそう思った。
いつもどこかで自分は悪くないと思っていた。誰かのせいにしたり、社会や会社や組織や時代や政治が悪いと思ってきた。そしておそらくそれらはよかったわけではなかった。
自分はそれなりに頑張っている。なのに幸せにはなれていない。だから自分以外のなにかが悪い。
そう考えないともう耐えられないところにまで高野は来ていた。
その実、自分はなにもしてなかった。高野はそれが分かると無性に寂しくなったが、それが収まるとどうにかなりそうな気にもなれた。
「…………これからどうするんだ?」
「働きます。働いてこの子を育てます。小白がわたしの全てですから」
瑠璃の顔色は決して良いとは言えなかったが、それでも瞳には強さがあった。
それが高野を逆に不安にさせた。
今でも高野は思う。あの時、瑠璃を止めていたらまた別の未来があったのだろうと。
だけど高野には止められなかった。そんな資格は自分にはないと思っていたし、なにより誰かを助けてやれるだけの力がなかった。
職場でも仕事のこと以外は話さず、そもそも業務のほとんどが黙って行われる。休日なんて一言も発さずに終わることが多かった。
だがそんな生活が小白達親子と出会ってから変わっていった。
仕事終わり、高野は毎日スーパーで弁当を買って帰るが、それが一つから三つになった。
病気であまり動けない瑠璃の代わりに弁当や他の食材を買って帰り、自分も一緒に食べる。最初はほとんど会話なんてなかったが、慣れてきたのか小白があれこれと尋ね、高野がそれに困りながらも答えていると次第に会話は弾んでいった。
「ねえ。うちのみみかわいいでしょ?」
「そうだな。よく聞こえそうだ」
最近テレビの音が大きくなっていた高野は羨ましそうにそう答えた。
嬉しそうに笑う小白を見て瑠璃は申し訳なさそうにする。
「すいませんいつも……」
「いや、ついでだから」
瑠璃もパートで働いていたが病気のせいで出勤できていない。当然給料はなく、その間の食費を高野が立て替えていた。
そのせいで酒は減り、パチンコにも行けなくなった。煙草も少しだが吸う量が減った。
それを惜しむ時もある。だがそれでも高野は二人に弁当を届け続けた。
なぜ赤の他人にこんなことをやっているのか高野自身にも分からない。だがやらないといけない気がした。
それは小白達のためではなく、自分のために。そんな気がした。
そのおかげで瑠璃の顔色は少しずつ良くなり、簡単な料理ならできるようになっていた。
そうなると高野は食材も買ってくるようになった。それを瑠璃が調理して三人で食べる。
そのたびに高野はリビングにある写真立てが気になった。笑顔の瑠璃の隣に並ぶ若い男がそこにいた。
二週間ほど経ってようやく高野は尋ねた。
「……旦那は?」
瑠璃は寂しそうに笑った。
「亡くなりました。事故で」
瑠璃は優しく膝の上に頭を乗せて眠る小白を撫でた。
「……そうか」
高野は聞いたことを後悔した。てっきり離婚でもしたのだと思っていた。
気にする高野を慰めるように瑠璃は微笑み、尋ねた。
「その、なんでここまでしてくれるんですか?」
それは至極まっとうな質問だった。下心がないことは瑠璃も分かっていたが、だとしても隣人だと言うだけで助けてくれる存在は今の時代珍しい。
高野は少し考えてみたが答えは出ず、「……なんでだろうな」と呟いた。
そして歳を取りボロボロになった自分の手を見つめ、握った。
「俺にも分からん」
高野は小さく溜息をついた。
「迷惑ならもうやめるよ」
「いえ、そんなことは思ったことないです。ただ、その……」
瑠璃は俯いて小白の可愛い耳を見つめた。
「…………わたしは、わたし達は普通じゃないですから……」
その寂しい言葉を聞いて高野は妙に納得した。
「……だからかもな。俺も自分を普通だと思ったことは一度もない」
どこに行っても誰もそう思わせてくれなかった。
だからこそこの状況が心地良いのかもしれない。高野はそう思ったが言わなかった。
瑠璃はそれを感じ取ったらしく、小白を撫でながらゆっくりと話し出した。
「外の世界を見てみたかったんです。わたしが生まれたのは小さな島だったので。もちろん反対されました。わたし達が生きるには外の世界は優しくないですから。直接なにかを言われることは少ないですが、いつだって視線は感じました。警戒するような、憐れんでいるような、そんな目で見られるんです。覚悟はしていましたけどね」
瑠璃が苦笑すると高野はばつが悪くなった。高野も初めて小白の耳を見た時はギョッとした。妖怪なんじゃないかとすら思った。
ネコミ族の存在はどこかで見聞きしたことはあったが、見るのは初めてだ。だが高野はこれと同じようなことをずっとしてきている。
静かな場所で知的障害者がよく分からない言葉を喚いたのを見聞きした時だったり、街中で黒人や白人を見た時だったり、聞き慣れないアジア系の言葉を話す若者達の隣を通り過ぎる時だったり。
差別しているわけではないつもりだが、それでも見てしまう。身構えてしまう。関わりたくないと思ってしまう。
知らないから。分からないから。そんな理由で。
高野が瑠璃と小白に抱いた最初の感情もそれだった。自分の度量のなさに辟易しながらも高野は瑠璃の話を聞いていた。
「すぐに帰ろうと思いました。わたしはここで生きるべきじゃないんだと感じましたから。でも、彼と出会えた」
瑠璃は嬉しそうに写真立てを見つめた。そこには優しそうな若い男が映っている。
「バイト先で出会った彼は警戒心の塊みたいなわたしにも優しく接してくれました。昔の自分に似ているからって。彼も身寄りがなかったんです。震災で家も家族も失ったって言っていました。それでも周りの人に支えられて少しずつ立ち直っていったんだそうです。だからわたしもどうにかなるって。不幸は続かない。続いているとしたら、それは自分が自分を不幸にしているだけだって彼は言いました。本当にそうですよね。わたしは自分が思い描いていた理想の未来が来ないことが不満だったんです。こんなはずじゃなかった。もっとよくなるはずだったのにって。でもそれはただのワガママで、望んだものが願うだけで手に入ると思っていた子供の考えだったんです。現実に受け入れてもらうには、自分が現実を受け入れないといけない。彼はそれをわたしに教えてくれました」
「……残酷な言葉だ」と高野は嘆息した。
「ええ」瑠璃は頷いた。「でも、結局それしかないんです。現実を受け入れるしかない。でないと誰も前に進めない。この言葉があったからわたしはなんとかやってこれました」
瑠璃は静かに微笑する。それは自らの人生に誇りを持っているものの笑みだった。
高野は写真を見つめた。写真には小白が写っていない。おそらく小白が生まれる前に瑠璃の旦那は亡くなったんだろう。
受け入れがたい様々な現実を受け入れ、瑠璃はここまでやってきた。
俺とは大違いだ。高野はそう思った。
いつもどこかで自分は悪くないと思っていた。誰かのせいにしたり、社会や会社や組織や時代や政治が悪いと思ってきた。そしておそらくそれらはよかったわけではなかった。
自分はそれなりに頑張っている。なのに幸せにはなれていない。だから自分以外のなにかが悪い。
そう考えないともう耐えられないところにまで高野は来ていた。
その実、自分はなにもしてなかった。高野はそれが分かると無性に寂しくなったが、それが収まるとどうにかなりそうな気にもなれた。
「…………これからどうするんだ?」
「働きます。働いてこの子を育てます。小白がわたしの全てですから」
瑠璃の顔色は決して良いとは言えなかったが、それでも瞳には強さがあった。
それが高野を逆に不安にさせた。
今でも高野は思う。あの時、瑠璃を止めていたらまた別の未来があったのだろうと。
だけど高野には止められなかった。そんな資格は自分にはないと思っていたし、なにより誰かを助けてやれるだけの力がなかった。
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