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1 このままだと婚約破棄

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「婚約破棄……ですか?」


 思いも寄らない衝撃的な言葉に、頭が真っ白になった。
 ここは王子専用の執務室。わたしの目の前には、婚約者であるアンドレイ・アングラレス様が困ったようにこちらを見ていた。

 アンドレイ様はため息まじりに、

「このままでは婚約破棄だと言ったのだ、俺は」

「ど……どういうことですかっ!?」

 わたしは思わずテーブルから身を乗り出す。貴族令嬢としてはしたないことだと分かってはいるけど、迫りくる焦燥感にそうせずにはいられない。

 だって、婚約破棄って?
 わたしとアンドレイ様が?
 どういうことなの?

「落ち着け、オディール」

 アンドレイ様が軽く顎を動かして合図を送る。わたしは彼の言わんとすることをすぐに理解して、淑やかにソファーに掛けた。

「そういうところだ」

「申し訳ありません……」

 わたしは深く頭を下げた。恥ずかしくて顔が上気する。
 またやってしまった。またアンドレイ様を呆れさせてしまったわ……。

 令嬢として正しくない行いをしてしまうと、いつもアンドレイ様が注意をしてくださる。彼は常にわたしのために、王子の婚約者としての正しい方向に導いてくださる素晴らしい方なのだ。

「いいか、お前の評判はすこぶる悪い。最悪だ。国の上層部からも俺とオディール・ジャニーヌ侯爵令嬢との婚約は取り止めにすべきなのではと意見が出ている」

「そんな……」

 悲しい言葉に涙が出そうになった。自然と身体が震え出して止まらない。指先から血が引くように、どんどん全身が冷たくなっていった。

 アンドレイ様に相応しい婚約者になるために、あんなに頑張ってきたのに……。
 わたしの努力は一体なんだったの……?

「彼らはお前の素行について問題視している。今の状態では王妃にするのは不安だと」

「それは……わたしの能力不足ということでしょうか?」

 アンドレイ様は一拍してから頷いた。

「端的に言うとそうだな。残念だが、周囲はお前を評価していない。それどころかマイナスだ。俺もこれまで庇ってはきたが、中々な……」

「すみません……」

 わたしは肩を落とした。罪悪感でいっぱいだ。
 アンドレイ様が自分のために骨を折ってくださったのに、この体たらく。穴があれば入りたいわ……。

「そう意気消沈しなくとも良い。彼らには俺が考え直すようにと掛け合って来た」

「えっ?」

 アンドレイ様はまっすぐにわたしの瞳を見つめた。爽やかな夏の空を閉じ込めたようなライトブルーの双眸に思わず引き込まれそうになる。

「挽回するんだ、オディール」

「挽回……?」

 わたしは目をぱちくりさせた。

「そうだ。お前が有能だと彼らに知ら示すのだ。ジャニーヌ侯爵令嬢こそが王妃に相応しい、と」

「そんなこと……わたしにできるでしょうか?」

 にわかに不安になってきた。これまでどんなに努力をしても認められなかったのに、これから挽回なんてできるのかしら……?

 アンドレイ様はニコリと笑って、

「俺に考えがある。悔しいが、今のままだと小さな積み重ね程度では汚名返上は厳しいだろう。――だから、賭けに出るしかない」

「賭け、ですか?」と、わたしは首を傾げる。

「あぁ、一発大逆転の大勝負をするのだ。誰もが称賛するような大きな功績を上げるんだ。それで彼らを見返してやろう」

「それは……どうやって?」

 わたしは息を呑んだ。緊張感が首筋にびりりと伝わる。
 大きな功績なんて思い浮かばない。わたしなんかに、そんなことができるのかしら。

 少しの沈黙のあと、アンドレイ様が口火を切った。

「オディール、お前はこれから隣国へ行くんだ。そして、王太子のレイモンド・ローラントを籠絡しろ」

「えぇぇぇええっ!!」

 わたしは驚きのあまり思わず大音声で叫ぶ。一瞬、アンドレイ様がなにをおっしゃっているのか理解できなかった。
 隣国って、隣の国なのよね? レイモンド王太子殿下って隣の国の王子様なのよね?
 それに……籠絡!?

「……はしたないぞ」と、アンドレイ様が顔をしかめた。はっと我に返る。

「もっ、申し訳ありません」わたしは慌てて頭を下げた。「で……ですが、籠絡って……。わたしは恐れ多くもアンドレイ様の婚約者なのですが……」

「あぁ、なにも王太子と本物の恋人になれとは言っていない。お前は俺の婚約者だからな。仮にそんなことになれば外交上の大問題になる」

「で、ですよね……」

 ほっと胸を撫で下ろした。よかった。わたしにはアンドレイ様以外の殿方なんて考えられないもの。
 だって生まれたときから、わたしたちの婚約は国王陛下と宰相であるお父様によって取り決められていたのだから。

「お前の本当の役目は王太子から情報を引き出すことだ」

「情報?」

「そうだ。極秘に掴んだ情報だが、あちら側――王太子のレイモンドが我がアングラレス王国に向けて戦争を計画しているようだ。だから、お前にそれに関する情報を収集するのだ。その為にも王太子に近付け」

「戦争ですか……?」

 物騒な単語に、わたしは息を呑んだ。

 わたしたちの住むアングラレス王国と隣国――ローラント王国は友好国とまではいかないが、外交上は問題なくお付き合いをしている。お隣だけあって民間でも交流が盛んだ。
 わたし自身も宰相の娘としてローラント王国の大使館の方々と晩餐をともにしたこともあるし、特に二国間に戦争の火種となるような問題を抱えているわけじゃないし……どうして?

「お前が困惑するのも分かる。俺だって最初は信じられなかったからな。だが、残念だが確かな情報筋からの提供だ。王太子が侵略戦争を仕掛けてくる可能性は、すこぶる高い」

「そんな……」

「だから、お前に秘密裏に探って欲しいのだ。そして可能ならば戦争を止める糸口を掴んで欲しい」アンドレイ様は立ち上がってわたしの肩に手を置いた。「我々の大切な民が犠牲になったら困るからな」

 わたしは頬を染めて、ゆっくりと頷いた。
 アンドレイ様は真面目で優しい方で、いつも民草のことを一番に考えている素晴らしい方なのだ。
 そんな方の伴侶になれるなんて、とても誇らしい。

「分かりましたわ、アンドレイ様。わたし、この国の民を守るためにも精一杯やらせていただきます」

「頼んだぞ、オディール。王妃になって、俺とともに平和な未来を築き上げよう」

「はいっ」


 わたしは意気軒昂にアンドレイ様の執務室を辞去した。
 正直言って、彼から婚約破棄になる可能性があると聞かされたときは肝が冷えたけど、わたしに挽回の機会を与えてくださったことは、とっても嬉しかった。

 アンドレイ様はいつも婚約者のわたしのために、お世話を焼いてくださる。わたしはそんな彼のために少しでも力になりたいと思う。だって、わたしたちは未来のアングラレス王国の国王と王妃なのだから。

 隣国との戦争を阻止して、王妃になる。
 そして、アンドレイ様とこの国の未来を輝かしいものに――……!





◆ ◆ ◆





「あ~あ。あの子、アンドレイの嘘をまるまる信じちゃっているわよ。可哀想な子」

 オディールが王子の執務室から出て行ったあと、奥の書棚の陰から一人の令嬢が出てきた。彼女の名はシモーヌ・ナージャ子爵令嬢。オディールとは対照的に、小柄で可愛らしい雰囲気を持っていた。

 シモーヌは王子であるアンドレイの膝の上に遠慮なく座って、二人は軽くキスをした。

「嘘も方便ってやつだよ」

「アンドレイったら、意地悪ね」

 ふふっ、と二人は揃ってしたり顔をする。

「仕方ないだろ。君を妻に迎えるためには、まずはあの女を排除しないと」

 オディール・ジャニーヌ侯爵令嬢は、瑕疵のない完璧な令嬢だと評されていた。
 容姿、品性、教養……全てにおいて他の令嬢より抜きん出ている。まさしく王子の婚約者としてこれ以上にない人物だと、国の中枢部からも太鼓判を押されていた。

「しかしアンドレイも上手いこと考えたわね。よくあんな悪知恵が働くわ」

「まぁな」アンドレイはニヤリと口の端を歪めて「このままでは俺はあの女と結婚しないといけないからな。こっちも必死なんだよ」

「まぁ!」

「仮に成功して、あの女が王太子を籠絡したら不貞を訴えて婚約破棄。仮に失敗したら、ジャニーヌ侯爵家の利益のために隣国との無用な戦争を煽る工作をしたと訴えて婚約破棄をすればいい。ついでに目障りな侯爵家自体も取り潰しだ」

「完璧なシナリオね。さすがだわ」

 アンドレイは満足そうに深く頷いた。


「いずれにせよ、あの女に待っているのは破滅だけだ」

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