信長の室──小倉鍋伝奇

国香

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出会い

六・人妻ゆゑに

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 信長はせっかちが過ぎて、あっという間に鉄砲を見てくると、落ち合う約束の件の桜の大木に戻ってきていた。

 信長が来た時、もう蒲生定秀もそれを見送る小倉実隆もいなかった。当然、定秀の孫もいなかったが、途中で入れ違ったようで、信長はすれ違うこともなかった。

 桜の木の下には、あの童子の代わりに、先に日野の名医のもとに遣わした者が待っていた。

「九右衛門か。藤八郎は?」

 於巳のもとへ遣った小姓がまだなのかと問う。九右衛門という者は、

「はっ、まだのようでございます」

と答えると、すぐに己の持ち帰った情報を披露する。

「件の日野の医者は留守でございました。急報を受けて、今日の早暁、成菩提院へ向かったそうにございます。つまり、再びの陣痛、今度こそまことに生まれそうだというので」

 信長はその報告に珍しく動揺した。先程、この木の下で童子の怪我の手当てに使った紫の布。懐に手を入れ、その残りを握りしめた。

 その時、彼方から馬を飛ばして来る者の姿が見えた。

「殿!殿っ!」

 夕暮れの、揺れて歪む視界の中、しっかり信長の姿を捉え、馬上から喚いている。

「弥三郎か?」

 信長は伸び上がって、驚いた。

 信長が京の都に置いてきた者だったからである。

 その者がここにいるということは、上洛の供に連れていた者全員、もう都を出て近江に入っているということであろう。

「おう、弥三郎!」

 馬から飛び降り、それを乗り捨てるようにして信長の足元に転がり込んできた者に、信長は手を差し伸べた。しかし、男は両腕を支えるように、地にひれ伏したまま。

「皆もう都を発ったか?」

 信長は手をひっこめ、男の返答を待つ。息も絶え絶え、彼はこくこく頷いた。

 しばらくして落ち着くと、彼は言った。

「他の者も皆、既に近江に入りました。二手に分かれ、一方は南近江を通っており、おそらく今は草津辺りを北上しておりましょう。それがしどもは北近江を巡り、それがしのみは先ず成菩提院へ参ろうと、一人で湖水を渡り、朝妻に上陸致しました。柏原へ向かいかけると、途中たまたま又左殿に会いまして、殿がこちらにおわすと──」

「おお、又左を成菩提院に遣ったのだ。途中で会うたか」

「はっ。共に参りますと、丁度御子様がお生まれになりまして──」

「なにっ!?」

 信長が男の襟を掴むようにして、彼の身を起こす。

「姫君様ご誕生にございます!」

「して、無事か。子は、奥は?」

「はっ。姫君様、北ノ方様、どちらもご無事にござりまする。ただ、早産で、一度陣痛も止まり、かなり長引いた御産でございますので、大事があってはならぬと、又左殿は北ノ方様についておられまする」

 信長は頷き、勢いよく立ち上がった。

「おめでとうございまする!」

 周囲の者が全員祝いを述べる。信長は力強く頷いた。

「姫か……」

 懐の紫の布を引っ張り出し、随分暗くなった空に掲げた。端が引きちぎられてほつれているが、美しい色の布。

(紫草に匂へる……きっと美女になる)

 にやりと信長は笑った。先程の童子が必死に取ろうとしていた、唯一花を咲かせている枝が目に入った。





 すっかり暗くなった時、ようやく小姓が戻って来た。

「於巳は城内にいて、外に呼び出すのが大変でございました。今日は城主の実父の蒲生定秀が来ていて、人の出入りも多くて──」

 遅くなった言い訳を口にする小姓。だが、その言い訳に信長は興味深そうに反応した。

「蒲生が来ていたのか」

 見つかったら、自分は襲撃されることもあるのではないか。

「面白い」

 だが、信長はそれさえ楽しそうだ。

「殿。六角は斎藤を敵視して、伊勢殿と斎藤との縁組に嫌がらせをしているそうですが、さりとてその配下の蒲生が我等の味方とも限りませぬ。斎藤は六角にとって我等と共通の敵でしょうが、我等をどう思っているのかはわかりませぬ故。蒲生がかようにしょっちゅう息子の所へ来ているなら、危険にございます。見つからぬうちに、急いで八風峠を越えませぬと」

 九右衛門という者がそう言えば、なお愉しげに、小姓に、

「で、藤八郎。蒲生に我等がこの地にいること知られたか?」

と訊いた。

「いえ」

「なんだ、つまらん」

 信長は途端に興味を失ったような眼になる。

「ようやく於巳を城の外に連れ出し、話を聞きましたところ、蒲生と小倉の当主は父子なので、考えが同じらしく、もしも殿がこちらを通るようなら、襲撃するかもしれぬと。故に、佐久良城主にはこちらの様子を知られてはならないと」

 小姓は興味を失った信長に、於巳から得た情報を淡々と伝え始める。

「そのようなわけで、佐久良城主の協力を得ることは不可能と判断し、鍋御前は他の小倉一族を説得して下さっているそうです」

 そこで、ようやく信長の眼が光った。

「鍋御前は小倉の分家の説得を?」

「はっ。そもそも、八風越には小倉の分家の協力こそ必要。鍋御前は佐久良城主に内緒で高野の許嫁の館に行き、そこに小倉一族を集め、説得しているところだそうです。先程、様子を見に於巳が行きました。もうしばらくしたら、こちらに参りましょう」

「ふむ、しかし、小娘の説得なぞに、一族が応じようか。いかに鍋御前が総領娘とはいえ──」

「於巳によれば、策があるそうにございます。小倉一族は佐久良城主を憎み、悉く彼に反発しており、彼の決定と真逆のことばかりしているとか。つまり、佐久良城主が織田家の味方だと言えば、小倉一族は織田家の敵になり、逆に佐久良城主が殿を襲撃するなら、小倉一族は殿を助けるであろうと」

 好都合なことに、小倉実隆は信長を無事に尾張へ帰すつもりはないらしい。ならば、小倉一族は実隆に対抗して、信長を八風峠に案内するであろう。

「蒲生の子を小倉家の当主にと決定した、主の六角にも不満があるようです。六角が、蒲生や佐久良城主と結託して、殿のお命狙うとなれば、小倉一族はきっと六角への恨みからも、殿にお味方するはず」

「ならば、ここより、愛知川の方へ移動していた方が宜しいのでは?」

 佐久良城の近くより、小倉一族の諸城付近にいた方が安全だ。それに、そちらは八風越の道に当たる。

 九右衛門の発言により、信長は愛知川沿いの市原の方へ移動した。また、藤八郎なる小姓を高野に向かわせ、他にも成菩提院に使いを走らせる。そして、弥三郎を後発の馬廻り衆の者達のもとに戻した。

 それらの手配が済み、いよいよ手持ち無沙汰になってきた頃、藤八郎が戻ってきた。

「於巳に会えました。今、於巳は鍋御前と高野の館におります」

 於巳によれば、お鍋の説得が成り、小倉一族はこっそり信長の一行を通し、さらに道案内まですることに決まったという。

 於巳は再び館内に入り、信長がすでにこちらに来ていることを報告中だという。

 信長は歓喜した。

「でかした!鍋御前!やはりただ者でない小娘よ!」

 信長はお鍋が彼を睨んだ時の顔を思い出し、惚れ惚れとその脳裏の彼女に笑いかけた。

「ならば、その高野の館へ行くぞ、挨拶にな」

 信長はすぐに高野へ向かおうとする。

 愛知川沿いの道は、春とはいえ、川風が冷たい。しかし、信長は全く寒くなかった。

 八風峠を越えられると知ると、逸る気持ちが体を熱くするのだ。一刻も早く峠を越え、帰国しなくては。

 馬を走らせ、山上辺りまで来た時、向こうから灯りを持った集団が近づいてきた。

「やっ?」

 警戒した。こちらはほんの数名。向こうは二十人以上はいそうである。

「見て参ります!」

 藤八郎が駆け出した。そして、すぐに戻ってきて、満面の笑顔で叫んだ。

「鍋御前と於巳です!小倉一門を引き連れて。殿を迎えに来て下さいました!」

 信長は素直に喜び、馬の速度を速めると、すぐに相手が近づく。先頭を歩くお鍋の顔が確認でき、手を振って呼んだ。

「おおい!鍋御前!」

 やがて、馬を飛び降り、手綱を藤八郎に預けてお鍋の前に駆け寄った。その顔は無邪気なほどの笑顔で──。

 しかし、お鍋は気まずそうに、「どうも」と軽く会釈しながら、斜め後ろを気にした。

 そこには、於巳と並んで、まだ若い男が立っていた。

 信長を警戒しているような目。

 しかし、その鋭い目を見て信長は、それを得体の知れない自分への、品定めの眼とは別種の物であると察した。

──茜さす紫野ゆき標野ゆき
野守は見ずや君が袖振る──

 ふとその歌が頭に浮かんできた信長。

(ここは蒲生野──)

 悪戯心がわき上がってくる。

 先程、紫草だと喜んでいた童子の手当てに使った布を引っ張り出し、しげしげと眺めながら、お鍋に言った。

「紫草に匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも」

 途端に男の目がつり上がり、お鍋はぎょっとして、於巳まで気まずそうに俯いてしまう。

 その妙な空気に、藤八郎はどうしたのと、隣の九右衛門を見た。九右衛門はこそっと藤八郎に耳打ちした。

「鍋御前の許嫁ってのは、あれかね?」

 目はお鍋の斜め後ろの男に向いている。

 藤八郎が頷くと、九右衛門は忍び笑った。

「蒲生野だ。殿もお人が悪い。くふふ」

「は?」

「あの紫草染め」

 九右衛門は信長の手元を顎でさした。

 その昔、額田王は大海人皇子の妻であったが、その後、天智天皇の妻となった。

 ある時、天皇は蒲生野に薬狩りに出掛け、額田王も供をした。その時、大海人皇子が彼女の姿を見つけて、袖を振った。

 人目に触れてはまずかろうと、額田王は「茜さす~」の歌を詠んでたしなめた。

 それに対し、大海人皇子が「紫草の~」と返したのだという。人妻でも、紫草のような美しいあなたが恋しいという歌だ。

 九右衛門が簡単に説明したのを聞いて、藤八郎はびっくりし、

「確かに、殿はお人が悪い」

と同意した。

 それにしても、信長は一目見て、件の男こそがお鍋の許嫁なのだと察してしまったのだ。

「殿ってまさか、本当に鍋御前がお好きなんですか?」

 藤八郎が問うが、

「そんなん、わしが知るかや」

と、九右衛門もさすがに信長の心までは知らない。

 信長はお鍋を、あるいはその許嫁をからかっているだけにも見える。

 おかしな空気が流れている中、信長は素知らぬ顔で、お鍋に話しかけている。

 何を訊かれても言われても上の空、気まずそうなお鍋だ。

(そんなに馴れ馴れしくしないで!)

 許嫁の右京亮の視線に、お鍋は泣きたさを堪えていた。

 信長は構わず右京亮に無邪気に言う。

「鍋御前には柏原で楽しい思いをさせてもらった。また世話になってしまう。有り難いこと」

 右京亮は無愛想に言った。

「なるほど、お親しいことはわかり申した。姫が何故織田殿を案内しようと仰有ったのか、納得です」

 お鍋は信長と個人的な関係があることを、右京亮らに一切言っていなかった。信長を道案内するべきなのは、あくまで小倉家の将来のためとだけ述べていたのだ。

「我等小倉は六角の屋形に仕える身である。屋形に内密に貴殿を通す以上は、それなりに覚悟が要ることなのです。貴殿の将来性を見越して、我等は貴殿に協力した方が得策だと姫に言われたが。果たしてそれだけの価値が、貴殿にあるのか……」

 右京亮は信長とお鍋の関係を疑っている。このままでは、信長主従を通すことをやめると言いかねない。

(からかい過ぎたな)

 信長は笑顔のまま、この辺でやめておくかと、

「一族の将来がかかっているのだ。ちと貴殿を確認……」

「柏原ではな!」

と、右京亮の言葉を遮り、大声で、

「鍋御前と於巳には世話になってな。難産の妻のために医者を世話して下されて。普通の出産ではなかったのだが、おかげで、今日無事に娘が生まれた!」

と、まくし立てた。

 妻と言われて、少々毒気を抜かれたような顔になっている右京亮に、信長は嬉しそうな笑顔を向けた。

「妻が無事で。娘が生まれて、恥かしながら、本気で嬉しい!」

 右京亮のすぐ後ろの男が祝いを述べた。おそらくこの人が山上城主の右近大夫だと思われる。

「娘は今日生まれたばかり。だが、みどもは先を急がねばならぬ。普通の出産ではなかった故、妻の回復も遅かろう。妻は成菩提院にいるが、その回復を待っているわけにはいかぬので。重ね重ね申し訳ないが、妻子のこともお願いできないであろうか?」

 厚かましくもと信長が右近大夫に言うと、彼は快諾した。

「時々人を遣って、様子を見ましょう。奥方が動かせるようになったら、お迎えに参り、またこっそり八風峠から帰して差し上げましょう」

 そう言う右近大夫の手を、信長は有り難いと強く握った。

 ふと、右京亮に目を向けると、まだ疑い半分な様子。

 信長は右近大夫から手を離し、今度は右京亮の手を取って、例の紫の布を握らせた。

「娘の顔を見に行っている時間がない。まことは、これで娘をくるみ、この腕に抱きたかったのだが。お願い致す。妻子がこちらに参ったら、これを娘に着せて下さらぬか?」

「……は」

「ありがとう!」

 信長はそれを彼に押し付け、次いで自身の背後を振り返って、九右衛門に訊いた。

「弥三郎が皆を引き連れて来るのは、いつ位だ?」

「もう二刻ないかと」

 信長はまた小倉一門の方へ向き直った。

「供の者ども八十人程、湖北、湖南二方より、後ほどこちらに着くはずなのだが、皆が揃い次第、出発したい。夜のうちに出ること、可能であろうか?」

 右京亮に代わって、右近大夫が答えた。

「商人が行き来しているとはいえ、馬では通れぬような、相当急峻で険しい山道です。夜間の移動は危険と存じますが──」

 そして、彼は九居瀬城の行国にも同意を求めるように問う。行国も夜間の移動は難しいと、

「どうしてもと言いはるなら、若い者に任せるのが宜しいでしょう、道案内は右京亮殿にさせます。如何?」

と答えた。

「急いでいる故、曲げてもお願いしたい。せめて、今ここに揃っている者だけでも今夜のうちに出発したい。案内して下さるのはどなたでも構わぬ故──」

 信長は頭を下げた。小倉一門は了承し、右京亮を案内役にすることに決めた。

 右近大夫がそこで、何やら先程から放心状態のお鍋に声をかけた。

「姫君」

(妻?娘?信長に娘が生まれたっていうの?娘が?於巳が言ってた難産の妊婦って、その女のことだったの?)

「姫君。姫君!」

(私に子を産ませたいって言ったのに!他の女にっ!……子を産んだなんて!その女に信長は恋をしているっていうの?)

「姫君!」

「お鍋様!」

 於巳に肩を揺り動かされ、はっと我に返ったお鍋は、般若のような目をしていた。

「姫君は於巳とそろそろ佐久良へお戻りを。実隆に見つからぬうちに」

 右近大夫がそう促した。

 お鍋が城を抜け出したことを、佐久良城ではまだ気づいていない、在宅であるよう自分が細工したと、於巳は小倉一門に言っていた。

 とはいえ、あまり長時間留守にしていると、ごまかしきれないだろうと、右近大夫は言ったわけだが、何故か右京亮は、向こうで家臣達と話し込んでいる信長を睨み。

「いいや、このまま我等の手の中におられませ。佐久良城へは帰る必要ない」

「いやいや、それでは実隆が、姫を盗んだと言って、蒲生の軍を引き連れてやって来ようぞ。今はまだ戦の準備はできておらぬ。機会を見て、こちらから仕寄るのだ。今は戦の時ではない」

「織田殿を案内するのだ。見つかれば、どうせ戦になる。それならば、いっそこのまま姫はこちらに。このままそれがしの妻となられよ。さすれば、仕方なしに実隆に従っている奥津保周辺の者どもも、こちらに寝返ろう。そうだ、それがしの妻となられることが条件だ、姫、織田殿を八風峠に案内するのは──!」

 般若のような面が落ち、お鍋は無垢の、いつもの少女の顔に戻った。そこに汗さえ見せて。

「何を馬鹿な」

 右近大夫が呆れて右京亮をたしなめる。

「お二人は許嫁。結婚のお約束はできていますのに、何を今更──ともかく、今日のところはお鍋様は佐久良へお帰りになるべきです」

 於巳が慌てて間に入ると、右近大夫が頷いた。しかし、右京亮はなお執念深い。

「貴様は蒲生から来た者ではないか!」

 於巳を疑い、罵る。お鍋は我に返り、しっかりと言った。

「右京亮殿とは必ず結婚致します。お約束します。だから、於巳を責めないで。於巳は確かに川副家の娘だけれど、今は私のことだけを考えてくれる、私だけの腹心。蒲生でも小倉でもない、私のことだけを考えてくれる」

 そして、右近大夫やその後ろにいる良秀、行国らに会釈すると、於巳の手首を掴んで信長の方へ歩き出した。

「おう、鍋御前、帰るのか?すっかり世話になったな。本当に感謝している、ありが……」

「大っ嫌い!!」

 笑顔を向けた信長に、大罵声を浴びせると、小倉一門がざわつく中を於巳を引っ張り、佐久良城へと走って行った。
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