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1巻
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しおりを挟むエスターク王国の王城のお膝元、賑やかな商店街で、俺の親父が営む肉屋の前に一台の馬車が停車した。うちは王都で三代続く肉屋で親父が三代目だ。四代目の俺は未だ嫁さんもなく、五代目は一番上の姉ちゃんの次男が立候補している。やる気があって嬉しい限りだ。
話を戻し、キラキラしい馬車の中から現れたのは、背の高い優美な青年だった。およそ肉屋とは馴染みのなさそうな高貴な佇まいだ。
俺の幼馴染みが王家に嫁いだ縁で、いくつかのお貴族様の家とは懇意にさせてもらっている。かつては弟みたいに可愛がっていた王弟殿下とその学友は、幼い頃は度々お忍びでやってきて、うちのメンチカツを食べながら街歩きをしたものだ。
彼らが貴族社会でメンチカツを褒めちぎってくれたおかげで、こうして高貴な人が買い求めにくることがある。普通は使用人が買いに来るか、注文を受けて配達するかなんだけど。
「いらっしゃいませ」
カウンター越しに微笑みかける。件の幼馴染みが『笑顔は無料だ。お客様が喜ぶなら惜しまず振りまけ!』と逞しく力説していたのを思い出した。
いつも通りに愛想よく対応すると、青年は艶やかに笑う。
「ただいま帰国いたしました。お久しぶりです、シルヴィー」
誰だ? こんな綺麗な男、知り合いにいたか?
俺の名前――シルヴェスタを愛称で呼ぶってことは、確実に知り合いなんだろうな。
帰国したと言っていたので、しばらく外国暮らしか。随分と若い。それこそ先日会った王弟殿下と同じくらいの年齢に見える。
王弟殿下の学友か?
そういえば子爵家の末の坊ちゃんが、三年前から王太后殿下の母国、スニャータ王国に留学している。俺の知っているそのフレディ坊ちゃんは、子爵家の三男で、やんちゃで可愛いちびちょだった。
そう、過去形。
俺を見下ろす男は誰だ?
いや、チェリーブロンドと灰色がかった緑の瞳には見覚えがある。
「王弟殿下が立太子の儀に臨まれるのに合わせて、臣下の忠誠を誓いに帰国したのです。子爵家の屋敷に戻るとしばらく母に離してもらえなくなりそうなので、その前にご挨拶に伺いました」
やっぱりフレディ坊ちゃんか!
「いやぁ、デカくなったなぁ」
エスタークの平均と変わらない平凡な身長の俺が見上げるほどの長身になって帰ってきたのは、フレッド・アイゼン子爵子息だ。
もともと美形ではあったけど、やんちゃな性格がそれを打ち消していた。そんな彼も幼さが抜けて精悍な顔立ちになっている。仕草も優美だ。
「久しぶり……って、もう、タメ口じゃ駄目だな。立派になられましたね、坊ちゃん。中でミルクでも飲んでいかれますか? 馬車があるから無理ですか?」
「馬車は先に帰らせます。お言葉には甘えますが、流石にミルクはご遠慮しますよ」
そりゃそうだ。こんないい男を捕まえて、ミルクはない。俺の中でフレディ坊ちゃんは、夜の飲み屋街で迷子になってベソをかいていた五歳児で止まっていたようだ。
お貴族様のフレディ坊ちゃんと肉屋の倅の俺が親しくなったのは、迷子になっていた坊ちゃんを保護したのがきっかけだ。
俺の幼馴染みのパン屋の倅は、王様の奥方になった。生まれも育ちも俺と変わらないド平民の幼馴染みが王様と出逢ったきっかけは、このフレディ坊ちゃんが学友として侍っている王弟殿下だ。
王弟殿下は幼馴染みの姉さんの息子で、まぁ、前の王様の落とし胤ってヤツだった。俺も弟みたいに可愛がっていたあの子が王子様だと知った時は、仰天した。
まぁそんな縁で、幼馴染みは王様と出会って恋に落ちた。あのニブチンを捕獲した王様は、純粋に尊敬に値する。なにせ幼馴染みは『鈍感』『難聴』『勘違い』の三重苦を背負っていたからな。
そんな幼馴染みは子どもたちの教育に熱心で、街の物価を学ばせたり市井の生活を体感させるために、商店街に王弟殿下とその学友を物見遊山がてらの視察に連れ出していた。
こういった経緯で当時五歳の坊ちゃんとは顔見知りだ。その子が真夜中の飲み屋街をベソベソ泣きながらほっつき歩いていたら、十七歳だった俺は保護するしかないじゃないか。……知らない子でもするけどな。
そういうわけで知り合いだったフレディ坊ちゃんを、店頭を親父に任せて、自宅部分の居間に通す。キラキラしいお貴族様には不釣り合いだけど、フレディ坊ちゃんなら気にしないだろう。
ミルクの代わりにお茶を淹れると、坊ちゃんはにっこり笑って礼を言った。
「いい香りですね」
「后子殿下に貰ったんです。アイツ、未だにこっそり商店街に遊びにきて、追いかけてきた王様にとっ捕まって連れ戻されてるんですよ」
つい最近の出来事を思い出して思わず笑う。俺の幼馴染みは王様の正式な配偶者だが、男なのである。アイツが王様と結婚するまで、后子という地位があることを知らなかった平民は多い。
「それにしても、フレディ坊ちゃん。随分と鍛えているんですね」
安物のカップを持つ指が、思いのほかゴツゴツしている。
見た感じはすらっと細身だが、この手を見る限り相当な鍛錬をしたんだろう。上着を脱いだら胸筋はそこそこ厚いと見た。豚の二頭くらいなら余裕で担げそうだ。ちなみに俺は担げる。
「殿下のことはアイツと呼ぶのに、僕には言葉が硬いのですね。呼び捨てにして、普段の言葉で話してください」
「坊ちゃんだって、平民の俺……私に丁寧に喋るじゃないですか」
以前はいつも一緒にいた坊ちゃんのお付きの侍従さんは、公の場でなければ構わないと言っていたが、あれは子どもの頃の話だ。四、五歳の子どもと成人したらしい青年を一緒にしちゃダメだろう。
「僕はいいんです。でないとイロイロ余計なことを叫んで、あなたに大変なことをしでかしそうですから」
「意味が分かりません」
「分かってください」
首を傾げた俺に、坊ちゃんは間髪容れずに畳みかけた。
「はぁ、シルヴィーは変わりませんね。いつまで僕を子どもだと思っているんですか?」
「おめでとうございます。やっぱり成人を迎えていたんですね。誕生日、過ぎてますもんね」
「誕生日を覚えていてくれたのは嬉しいですが、そういうことではないんです」
フレディ坊ちゃんが物憂げに微笑んで、優美な仕草でカップを置いた。……デカくなっただけじゃなく、とんでもない色気を纏って帰ってきたようだ。こりゃ留学先では相当モテただろう。
「憶えていませんか? 幼いあの日の僕はあなたに言いました。『大人になるまで待っていてください』。と」
……確かに言われた。憶えている。
危ないところを救われた子どもが、絵本の英雄に憧れる程度のものだと思っていた。
虚を衝かれて、ぽけっと口を開けて坊ちゃんを見る。彼はまるで知らない若者のように、色を含んだ瞳で俺を見つめていた。
「まだシルヴィーは結婚していませんね。僕を待っていてくれたのですか?」
そうじゃない。破れてしまった初恋以上に、大切なひとに出会えなかっただけだ。
違う、と否定の言葉を紡ぐ前に、フレディ坊ちゃんが「ごちそうさまでした」と言って立ち上がった。丁寧な挨拶を残して帰っていくのを呆然と見送っていると、思い出したように立ち止まって振り向く。
「僕はもう、子どもではありません。覚悟してくださいね」
チュッと唇の際に音を立てて口づけを寄越して――
フレディ坊ちゃんは悠々と居間を出ていった。
§
王弟殿下の立太子の儀は無事に終わり商店街のお祭り騒ぎが一段落した頃、フレディ坊ちゃんがひょっこり店にやってきた。ちょうど休憩中だった俺は、一番上の姉ちゃんの賑やかな声を聞きながら、店のメンチカツをキャベツと一緒に丸パンに挟んだ昼食を食べていた。
「こんにちは、シルヴィー」
フレディ坊ちゃんは無駄にキラキラしながらウチの居間に入ってくる。姉ちゃんが入っていけと言ったんだろう。
「いい、いらっしゃいませ?」
「くくっ、何故疑問系なんですか?」
そりゃ店の客じゃなさそうだからだ。
「何かご用でも?」
質問に質問で返してしまった。焦りすぎだろう、俺。
「特に用はないのですが、強いて言うなら、あなたの顔を見に」
物憂げに微笑まれて、絶句する。この美しく育ったお貴族の三男様は、まさか本気で俺を口説きにかかっているのだろうか?
「坊ちゃん、こんな草臥れたおじさんの顔を見て、何が楽しいんですか? どうせなら、若くて可愛いお嬢さんの顔でも見に行ってくださいよ」
「何が草臥れたおじさんですか。后子殿下と同じお歳でしょう? あなたがおっさんなら、殿下もおっさんです。有り得ませんね。それにシルヴィー、あなたも相当な童顔ですよ」
俺の幼馴染みと一緒にするな。アレは規格外だ。商店街じゃ妖精なんて言われて、すでに人間扱いされていないんだぞ。……この童顔は認めざるを得ないがな。
若い頃は気にならなかったのに気付けば身長も打ち止めで、威厳の欠片もない。自分では大きいほうだと思っていたが、平均だった。いつも一緒にいた幼馴染みが小柄すぎただけだ。
せめて燻銀の格好良さを求めて髭を伸ばしたらひょろっと薄かった上に、姉ちゃんに不潔だと殴られた。たしかに食べ物を売る店で、無精髭は有り得ない。
「坊ちゃん……そんなはっきり言わないでくださいよ。童顔、気にしてるんです」
「少しくらい意地悪を言ってもいいじゃないですか。シルヴィーだって、いつまでたっても『坊ちゃん、坊ちゃん』って、士官もした成人男子を子ども扱いなんて酷いです」
……俺は坊ちゃんの自尊心を激しく傷つけていたらしい。確かに前途洋々たる若者を、いつまでも『坊ちゃん』呼びはまずかったか。
「フレッド様……慣れなくて呼びにくいですね。フレディ様……こっちは馴れ馴れしいか」
「フレディがいいです。僕もシルヴィーと呼ぶから、フレディと呼んでください」
眼差しが熱い。
思わずたじろいで仰け反ると、椅子の背もたれにぶつかった。坊ちゃんがテーブルを迂回して寄ってきて、自分が椅子もすすめない無礼を働いていたのに気付く。マジで動揺しすぎだ。
「改まった口調も寂しいです。フレディと呼んで、普通に話しかけてください」
「うわぁああっ!」
これ以上はないというほど仰け反ってしまい、椅子ごと後ろにひっくり返りそうになる。俺の叫び声と、ガターンッという椅子が倒れる音が響く。店のほうから姉ちゃんの「うるさいよ、馬鹿弟!」と怒鳴り声がした。
「大丈夫ですか、シルヴィー?」
「だ、大丈夫」
腰に腕が回されて、危なげなく支えられている。
「……シルヴィーって、こんなに小柄でしたっけ?」
フレディ坊ちゃんが少し驚いたような、自分の記憶に問いかけるような、曖昧な口調で呟いた。ちょっとムカつく。
「坊ちゃんが大きくおなりなんです。俺……私は標準です」
いや、マジで頭半分デカいとかない。あんなにちびちょで俺が抱っこで運んでやったこともあるのに。
「昔のシルヴィーは、大きくて、格好良くて、大人で、僕にはとても頼もしく見えました。今だって格好いい大人だけれど……僕も大人になりました」
「ぼ、ぼ、坊ちゃん?」
声が上ずる。
顔が近い。
「また坊ちゃんって言いましたね。そうですね、シルヴィーが子ども扱いする度に、僕はもう大人だって証明しましょう」
「証明ってどんな?」
フレディ坊ちゃんがにんまり笑った。子どもの頃のやんちゃめいた表情に、ちょっと安心する。
「ふふふ」
「笑うな、坊ちゃん」
幼い坊ちゃんの面影を見て、ついそう呼んでしまった。
そしたら。
近すぎた顔がもっと近くなって。
チュウッと音がする。
柔らかな唇が重なって、すぐに離れた。
「ふふふ、子どもはこんなことしないでしょう?」
うっとりと耳元で囁かれて、腰が抜けそうになる。坊ちゃんが支えているから尻餅をつかずに済んでいるけれど。
「く、く、く、唇が……」
「僕の初めての接吻です。あなたに捧げられて嬉しいですよ」
「俺も初めてだよ! なんだよ、こんな不意打ちあるか⁉ あり得ないだろ? だいたいお付き合いもしてないのにこんなことするなんて、他所のお嬢さんが相手だったら犯罪だぞ‼」
言った瞬間、ぎゅうっと抱き締められた。
ぎゃあッ、さっき食べてたメンチカツサンドが口から出るだろ‼
「初めて? なんて素敵なんだ。僕が大人になるまで、本当に待っていてくれたなんて」
「気にするのそこか⁉ 俺とお前がお付き合いをしてないってのを気にしろよ!」
「ふふふ、嬉しい。言葉に壁がなくなりました」
もう取り繕ってる余裕もねぇよ! コイツ、こんなに美形に育ったけど、中身はやんちゃ坊主のまんまじゃねぇか!
「いい加減、離せよ。大人を揶揄うな」
精一杯の威厳を込めて、重々しく言ってやったのに……
「揶揄ってなんかいませんよ。全力で誘惑してるんです」
とろりと色気の漂う眼差しを向けられた。
絶句して固まっていると、坊ちゃんはその艶めいた瞳のまま口角を引き上げる。
「きっかけは、夜の歓楽街を彷徨っていたのを保護してもらったことです。怖くてたまらなくて、どうにかなってしまいそうだった時、抱き上げてくださったあなたが神様に見えました」
それは、刷り込みの勘違いというヤツでは?
「勘違いとは思わないでくださいね」
コイツ、心が読めるのか⁉
「シルヴィーは腹芸ができませんね。全部表情に出ていますよ。神様だったら信仰を捧げて終わりです。そうではなく、王太后様のお供をして養護施設や施療院の慰問に行くと、奉仕活動をしているあなたと度々会いました。率先して働き、子どもたちと泥だらけになって遊ぶあなたを見て、神様から大好きな人に変わっていったのですよ」
坊ちゃんは目を逸らさない。俺も目を逸らしたら喉笛に噛みつかれそうな恐怖を覚えて、逸らすことができなかった。結果として随分と長い時間、見つめ合う。
「シルヴィー、名前で呼んでください」
「…………フレディ」
坊ちゃん――フレディが満足そうに笑った。
倒れた椅子を元に戻して、俺をそこに座らせる。
フレディより背が低いとはいえ、そこそこ重さのある身体を片手で支えたまま、それをやってのけられた。コイツ、スニャータ王国で相当鍛えてきたな。留学って、勉強してたんじゃないのかよ。
「そろそろシルヴィーの休憩時間も終わりますね。今日は時間切れです」
あっさり身体を離して距離を取られる。引き際が見事だ。これ以上はいっぱいいっぱいで、突き飛ばしていたかもしれない。
「これから、休日の度に誘惑しに来ます。楽しみにしていてくださいね」
ふふふ、と笑って、フレディは来た時と同じように、無駄にキラキラとして去っていった。
三十路を迎えたおっさんに交際経験がないなんて、人付き合いが苦手でもないのにどうかしている。何度か告白されたり紹介されたりしたことはあるけれど、一、二度一緒に出かけることはあっても、それ以上は続かなかったのだ。
まだ交際に至っていないのに口づけや抱擁を強請ってくる相手が、何故だかとても苦手だった。
だからといって過去の俺、もうちょっと遊んでおけよ。
いや、結婚まで辿り着けるか分からないのに、不誠実なことができるわけがない。
仕事を終えて、俺はひとりで部屋に閉じこもる。頭を抱えて考えた。
過去の交際未満の彼ら彼女らと、フレディのどこが違うのだろう。小さな頃を知っている可愛いやんちゃ坊主が、突然大人の男になって目の前に現れて、ひどく戸惑っている。
いや、あの子はまだ十八歳になったばかり。俺が同じ歳には六歳の子どもだったんだぞ。歳の差は十二歳だ。改めて考えるとそんな若い子を嫁にだなんて、おっさんが気持ち悪すぎるだろう⁉
嫁ってなんだ。まだ付き合ってもないっ!
って、まだってどういうことだ⁉
ぐるぐると考えているうちに、訳が分からなくなってきた。
俺の初恋は幼馴染みだった。今は后子殿下になってしまった、パン屋の倅のエルフィンだ。
パン屋一家はちょっと複雑な家庭で、おじさんとおばさんが事故で亡くなってからは、彼が幼い甥っ子を育てながら、ひとりでパン屋を切り盛りしていた。可愛くて健気でニブチンで、ちょっと口が悪いアイツは、頑張り屋さんで放っておけなかった。
護ってやらなきゃならないほど弱い子じゃないし、ひとりで立てる強さを持っていたが、だからこそ無理をする性格だったので、隣に並んで支えてやりたかったんだ。
初恋ってなんだろう。
フレディに口づけられて気付いたのは、幼馴染みに口づけしたいと思ったことがなかったってことだ。ずっと一緒にいたかったし、同じものを見ていたかったけれど、そこには息もできなくなるほどの情欲はなかった。隣にいるだけで心が満たされたって言うか。
駄目だ。
考えすぎて、さらに訳が分からなくなってきた。ジャネットのところで一杯やるか。
お袋に一言伝えて商店街の酒場に向かう。
飲み屋街と商店街の境目よりちょっとだけこっち寄りにある酒場は、王様と幼馴染みが俺たちの前で婚姻を誓った思い出の場所だ。そこの若女将は俺たちの幼馴染みのひとりで、年下の婿を貰って店を切り盛りしている。
「なぁに? シルヴィーったら辛気臭い表情して、どうしたの?」
十年前より確実にふくよかになったジャネットが、カウンターにダンッと音を立ててジョッキを置いた。元気で可愛いと評判だった看板娘は、今やすっかり肝っ玉母ちゃんだ。ふくよかも肝っ玉も口に出したが最後、酒場出入り禁止が発令されるだろうから、怖くて言えやしないが。
「ん~、俺の初恋どこ行った? ……って思って、頭ん中ぐるぐるしてんの」
「ぶふッ。何を小っ恥ずかしいこと言ってんのよ! アンタの可愛い初恋相手は、『王子様といつまでも幸せに暮らしました』ってヤツじゃない。お相手は王子様じゃなくて王様だけどさ」
「そうなんだよなぁ。ずっとそう思ってたんだけど、よく分からなくなってきて」
「よく分からないのは、あたしのほうよ。アンタが何言ってんのか理解できないわ。ホントにぐるぐるしてんのね」
ジャネットは肩をすくめて、キャベツを山盛りにした皿にメンチカツを添えてジョッキの横に置く。肉屋のメンチカツだが、普通は野菜が付け合わせだろうに、皿の上はほぼキャベツだ。
その皿をちろりと見る。
「何よ。アンタは家に帰ったらいくらでも食べられるでしょ。キャベツでお腹いっぱいにして、八百屋のじいちゃんに貢献しなさいよ」
昼食は丸パンに挟んだメチカツとキャベツだったから、どっちも遠慮したいのが正直なところだ。うへぇと思ったところで、丸パンとメンチカツとキャベツに連鎖して、フレディの唇の感触を思い出した。
ゴツッ。
ぎゃっ、勢いよくつっぷしすぎた!
「何やってんの⁉ ……なんなの、アンタ。ぶつけたデコが赤いのは分かるけど、なんで耳まで赤いのよ」
「聞くな!」
なんで思い出すかな、俺⁉
『あの、おねえさんとけっこんしないなら……ぼくがおとなになるまで、まっていてください』
真っ赤なほっぺたで、ありったけの勇気を振り絞った六歳のフレディを思い出す。
そういや、きっかけはジャネットだったな。最初はコイツが俺を揶揄って言った『アンタの子ども産んであげよっか?』という軽口を聞いて、フレディが不安そうにしたんだった。
あの時も、今も、ジャネットだけはない。こうして何かあったら話しにくるくらいに大事な友達だけど、彼女と家庭を築いていく像が全く浮かばないんだよな。
とにかく、ジャネットが十二年前に失恋した俺を揶揄わなかったら、何かが違ったんだろうか?
子どものはしかだといなすには、フレディの眼差しは真摯すぎる。お貴族の三男様が平民の草臥れたおじさんに向けるようなものじゃない。もっとこう、愛しくてたまらないものを見る色だ。
耳の赤さを隠すように、ジョッキを呷る。麦酒の酒精で顔が赤くなってしまえばいい。酒はあんまり得意じゃないから、すぐに酔えるはずだ。
「兄さん、イケる口かい?」
その時、カウンターのスツールを三つ空けた場所に座っていた男が、楽しげに声をかけてきた。知らない男だ。この店の客は商店街の親父どもが多いけど、おのぼりさんも結構来る。国王陛下と后子殿下の思い出の場所として、スニャータ王国の旅行家の手記に記されたため、その恩恵にあずかっているんだ。ちなみに肉屋もな。
「お兄さんは旅行者ですか?」
男は三十代半ばに見えた。ニヤッと笑うとスツールを移動してきて、隣に腰を落ち着ける。近いな。
「スニャータから来たんだ。エスタークの王都で店を始めたくてね。親父が手広く商売してて、スニャータじゃあちこちに支店を構えてるんだけど、友好国のエスタークにも進出できないかってさ。下見をしてこいって送り出されたんだ」
なるほど、酒場で情報収集ってとこか。それならこの店はもってこいだな。
「じゃあ、長期の滞在なんですね」
この男に興味はないが、商店街に店を構えるなら商店街長に情報を流しておかなきゃなぁ。
「俺はカッツェンって言うんだ。兄さんは?」
「シルヴェスタ」
簡単に自己紹介をすると、カッツェンさんは饒舌に喋りはじめた。それと同時に、ぐっと顔を近づけてくる。瞳の色が分かるくらいの距離って、なかなか近いぞ。
……俺の苦手な距離感だ。
これは酒が入って陽気になっているのか、もとからこうなのか悩む。自慢が多くて疲れるタイプの人だ。近すぎて太ももが触れるし。
親父さんがスニャータで成功していて、王都に二店、地方都市に五店の店舗を構えているらしい。そのうちのいくつかを兄弟が、残りは信頼できる部下が、それぞれ切り盛りしているんだとさ。
じゃあ、アンタは?
喉元まで出かかった言葉を、俺は賢明にも呑み込んだ。
それから数度、カッツェンさんと酒場で飲んだ。
……約束しているわけじゃない。行ったらいるんだよ。最近じゃジャネットも気にして、なるべくカウンターの隅に席を用意してくれるんだけど、カッツェンさんに見つかるとだいたい席を移動してくる。
「空き物件でいいのがないかなぁ」
「不動産屋に聞いたほうが、親身に相談に乗ってくれますよ。じゃあ明日も早いので、私はこれで失礼します」
嘘はついてない。肉屋の朝はパン屋ほどじゃないが早いからな。
「まだいいじゃないか。来たばかりだろう?」
アンタの距離感が苦手なんだ。なんで手を取るんだ? そう言えたらスカッとするだろうか。
「じゃあ、あと一杯だけ」
ジャネットに合図して麦酒のジョッキを運んでもらう。量は多いけど一番酒精の濃度が低い。なんとなく、この人の前で酔っ払うのはまずい気がしていた。
「お待たせ」
カウンター越しにジャネットがジョッキを寄越す。
「カッツェンさんはイケるでしょ。いいのが入ったのよ。サービスするわ」
そう言って彼女の手でグラスに注がれたのは、エスタークの北部に位置する山間地方で嗜まれる火酒だ。外国には輸出していないから、スニャータから来たばかりのカッツェンさんは飲んだことがないだろう。相当キツい酒で、俺は匂いだけで酩酊する自信がある。
ちなみにジャネットはサービスするなんて言っているが、原価が安いのでお代はいただかなくても酒場の懐は傷まない。
「知らない香りだな」
カッツェンさんは匂いを嗅いだ。それからちびりと舌に乗せる。結構慎重だな。
「スッキリしていて美味いですね。わぁ……胃の腑が熱いな」
「熱いけど美味しいでしょ。ささ、ググッといっちゃって」
ジャネットがニコニコしている。人好きのする笑顔は彼女の武器だ。促されてカッツェンさんは飲み干した。
……数分後。
「今のうちに帰りなよ。この人、悪い人じゃないかもしれないけど、ちょっと気持ち悪いよ。いつもアンタが来るの待ってるの。仕事をしてる気配もないし……何がどうっていうんじゃないけど、良くない気がする」
すっかり寝入ってしまったカッツェンさんを胡散臭そうに見ながら、ジャネットは俺を追い立てた。
「やっぱりお前もそう思うか?」
彼女が言う通り、なんとなく気持ちが悪い。本能的に危険を感受しているのかもしれなかった。
帰り支度をしながら立ち上がると、珍しく心配げな表情をした彼女に顔を覗き込まれる。
「しばらく夜は家でおとなしくしてなよ。アンタはどっかの誰かさんと違って危機感知能力はあるんだから、用心する頭くらいあるでしょ?」
どっかの誰かと言われた相手を想像して笑う。たぶん今頃、王城で王様と団欒している幼馴染みのことだろう。
「アンタ、あの子の前以外では、出来るいい男なんだから、変なの引っかけないよう気を付けなね」
不意にフレディを思い出した。
……アイツは変なのじゃないよな。
動きを止めた俺に、ジャネットが怪訝な表情をする。
「カッツェンさん以外にも、誰かいるの?」
「いや、いやいやいや。そんなことはない」
「……あの子が関係ないところで、その狼狽えよう。アンタ、好きな人ができたでしょ?」
「何を言ってんだ。まだそんなんじゃない!」
「ふぅん、まだ?」
ジャネットが意味ありげな視線を寄越した時、カッツェンさんが「うーん」と唸り声を上げた。
ヤバい。せっかくジャネットが潰してくれたのに、今のうちに逃げなきゃ。彼女も無言で店の入り口を指差している。
カッツェンさんからもジャネットの追求からも逃れて、俺は酒場の外に飛び出した。
そこで前を見なかった俺が悪い。
出会い頭に人とぶつかって、抱き止められる。
「うわぁ、すみま……ッ」
「会えてよかった、シルヴィー」
なんで夜の酒場の前にフレディがいるかな⁉
結構な勢いでぶつかったのに、彼はよろめきもせずに俺を抱きとめた。この間、椅子ごとこけそうになった時もだが、宰相府に就職したとは思えないご立派な胸筋に驚く。
フレディは俺を真っ直ぐに立たせると、両手のひらを頬に這わせて見下ろしてきた。
「シルヴィーのお母様に伺ったら、ジャネット姉さんのところだ、と。行き違いにならなくてよかった。随分早く切り上げたんですね」
灰色がかった緑の瞳が、街灯の光を反射してオレンジ色に潤んでいる。
「ほっぺたが熱いです。少し飲みました?」
「……酒場なんだから、飲むだろう」
居た堪れなくなった俺は、半歩下がった。フレディは特にしつこくすることもなく、自然に手を離す。
「せっかくだし、姉さんにも会いたいです。もう少し付き合ってくれませんか?」
数刻前にも似たような台詞で引き止められたな。その相手がまだ中にいる。……会いたくねぇ。
「ジャネットに会うなら、ひとりで行ってくれないか? 俺に話があるなら外で待つよ」
フレディと話をするのも微妙にむず痒いけど、わざわざ俺を探しに酒場まで来てくれたのを、邪険にするのもなぁ。
「駄目ですよ。こんな夜にほろ酔いのシルヴィーを外で待たせるなんてできるわけないでしょう? ジャネット姉さんと喧嘩でもしたんですか?」
やんちゃ坊主がこんな気遣いさんに育って。おっさん感動しちゃうぜ。
「いや、ジャネットじゃなくて……最近、ここでかち合う客が苦手なんだよ。妙に距離が近くてベタベタしてくるのが気持ち悪くてさ。ジャネットがソイツを火酒で潰してくれたから、その隙に逃げてきたところなんだ」
「ベタベタ? ふぅん、その人のこと嫌いなんですか?」
「嫌いって言うか、苦手って言うか、気持ち悪いって言うか」
ねちっこく手を掴まれたのを、思い出す。無性に気持ち悪くて、ぷらぷらと振った。
「手をどうかしたんですか?」
「ソイツから逃げようとして、とっ捕まった時に掴まれたんだよ。口で言えばいいのに、やたら手が出るんだよな。しょうがないから一杯付き合ったんだ」
あんまり楽しい酒じゃない。眉間に皺が寄るのは許してくれ。
「それなら中には入らないほうがいいですね。送るので帰りましょう」
フレディはごく自然に俺を促した。並んで肉屋に向かって歩く。袖が擦り合うくらい近い。まぁ、抱っこして歩いたこともあるしな。
歩きながら王弟殿下の学友たちが、それぞれ将来の側近候補として各府に配属された話を聞いた。全員小さい頃から視察という建前で商店街を散策しているので、住民と顔馴染みだ。
前の王様の時代には考えられないほど、お貴族様と市井の民の距離が近い。后子殿下が商店街出身のおかげもあるけど、若い貴族が街に降りてきてくれるのが大きかった。
少々ささくれ立っていた気持ちが落ち着いてくる。幼い頃から知っている相手は、気が楽だ。
うちの表は店舗なんで、店じまいしてからの出入りは裏になる。通りから一本入って勝手口まで行くと、街の灯りが届かなくなった。
「表通りまででよかったのに。って言うか、わざわざ送ってくれなくてもよかったよ。ありがとな」
心配されるほど酔ってない。
「どういたしまして。それじゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
応援ありがとうございます!
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