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重好が例え、将軍・家治が御三卿潰しを狙っていようともそれに従うのみとの意向を示すや、勘定奉行の長尾幸兵衛保章が異議の声を張り上げる。
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「いや、それは如何なものかと…」
意知が若年寄へと進むことと御三卿潰しとを結び付ける用人の本目権右衛門親平の意見に対して、同じく用人の大久保半之助忠基であった。
「ほう…、忠基は別の意見があるようだの…」
重好はそう言うと、目を細めて忠基にその先を促した。
「されば畏れ多くも上様におかせられましては、重好様を殊の外、ご寵愛あそばされておりますれば…、何より重好様は畏れ多くも上様の弟君にあそばされますれば、他の…、田安家や一橋家はいざ知らず、この清水家を潰そうなどとは…、斯かる上様が左様に思し召されるとは到底思えませなんだ…」
重好は家臣との距離を縮めるべく、その諱にて呼ぶのと同時に、家臣に対しても己のことを「重好」とその諱にて呼ばせていた。
さて、忠基は将軍・家治と重好との紐帯から、本目権右衛門親平の意見に否定的見解を示したのであった。
大久保半之助忠基もまた、「附切」であった。即ち、小納戸であった大久保外記忠清の次男である。
御側御用人に次ぐ用人の中にあって、附切にて仕える者は本来、珍しいことと言えた。それと言うのも御三卿に仕える用人はその殆どが附人、つまりは旗本の当主というのが相場であり、仮に附切が含まれるとしても、その数は少なく、実際、田安館においては附切の身分である用人は二人しかおらず、一橋館に至ってはその用人は皆、附人で占められていた。田安館にしろ一橋館にしろ、清水館と同じく6人もの用人がいるにもかかわらず、である。
そんな中、ここ清水館においては6人の用人のうち、過半数である4人が附切であり、それも4人は皆、重好がまだ萬次郎と名乗っていた頃より近習番として仕えた者たちであった。
いや、本目権右衛門親平は附切ではないものの、つまりは旗本の嫡男ではあるものの、しかし未だ家督を継いではおらず、部屋住の身にて用人として仕えており、それゆえ旗本の嫡男として生まれ、且つ、家督を譲られた歴とした旗本の当主であると言えるのはたった一人だけであった。
そしてこの附切の多さもまた、清水館の家風がアットホームなものとなる一助となっていた。
御三卿と家臣との距離の近さという点では、御三卿が自ら召抱えた抱入が最も、御三卿との距離が近く、附切、附人と続く。
附人にしろ附切にしろ基本的には御三卿の監視役ではあるものの、しかし、附切の場合には重好の場合がそうであるように御三卿が幼少の砌より近習番として仕えた経歴を持つ者が多く、それゆえそのような附切は抱入と大差なく、そこへ重好の「思い遣り」とも相俟って、アットホームな家風を醸し出していたのだ。
ちなみにこのように清水館の用人がこうも附切の身分にて仕える者で占められているのは、それも重好の近習番の経歴を持つ者で占められているのはひとえに前将軍にして、父である家重の配慮によるものであった。即ち、
「見ず知らずの者を附人として、用人として重好の許へと差し遣わすよりも、近習番として重好に仕えた者たちをそのまま附切にて用人として仕えさせた方が重好も落ち着くであろうぞ…」
その配慮からであり、そして家重のその配慮はそのまま現将軍にして兄である家治にも受け継がれ、この点においても将軍・家治が田安家や一橋家よりも清水家を、と言うよりは清水家の当主たる重好を寵愛していることを物語っていた。
さてその大久保半之助忠基もまた、重好が萬次郎と名乗っていた頃よりその近習番として仕えた「クチ」であり、のみならず、兄にして今の大久保家の当主である半五郎忠得は江戸城本丸は中奥にて小納戸として将軍・家治の御側近くに仕えており、それゆえ将軍・家治と重好との兄弟仲の良さたるや、
「折に触れて…」
大久保半之助忠基は兄、半五郎忠得より書状などで伝え聞くことが屡であり、それゆえ大久保半之助忠基は自信をもってそのように否定することが出来たのであった。
すると用人の中でも唯一、歴とした附人の身分を持ち合わせる福村理大夫正敏が、「忠基が申す通りぞ」と合いの手を入れた。
福村理大夫は附人であるものの、しかし、重好の「思い遣り」の甲斐あって、やはり抱入の意識にて重好に仕えていた。
「されば畏れ多くも上様にお確かめあそばされましては如何でござりましょうや…」
郡奉行の安井甚左衛門保狡がそんな提案をした。だが、その提案に対しては即座に疑問の声が上がった。
「確かめるとは…、まさかに畏れ多くも上様に対し奉り、山城守殿がことを…、山城守殿を若年寄へと進ませまするは果たして御三卿潰しの一環でござりましょうか…、などと斯様に重好様に確かめさせようと申すのか?」
旗奉行の倉橋武右衛門景平が安井甚左衛門保狡のその提案に対して疑問の声を上げたのであった。いや、疑問の声と言うよりは、
「心底、呆れ果てた…」
そのような口調であった。
事実、倉橋武右衛門景平は呆れ果てていた。そのような提案をしてみせる安井甚左衛門保狡に対して。
だがそうとは気づかぬ安井甚左衛門は無邪気にも、「いけませぬか?」と返したものだから、倉橋武右衛門景平をして深々と溜息をつかせたものである。
「良いか?未だ、山城守殿がことは…、山城守殿が若年寄へと進まれしことは正式に決まったことではない…、謂わば内定の段階ぞ?その段階にて、畏れ多くも上様に対し奉り、山城守殿が人事についてあれこれと穿鑿申し上げるは、上様が…、上様のみがお持ちあそばされし人事の、それも最終的なる大権を侵すようなものぞ…、少なくとも、まだ正式に決まった人事ではないにもかかわらず、先回りして、賢しら顔にその人事について尋ねられれば…、あれこれと穿鑿されれば、上様はきっとご不快に思し召されるであろうぞ…」
倉橋武右衛門景平は怒鳴りたい衝動を堪えつつ、噛んで含めるようにそう言い聞かせたものである。
倉橋武右衛門景平にしろ安井甚左衛門保狡にしろ共に附人の身分にてそれぞれ、旗奉行、郡奉行として重好に仕えており、のみならず、二人は共に元は御家人であり、それが御家人役である支配勘定から旗本役である勘定へと昇進、所謂、
「班を進めた…」
それに伴い、御家人から旗本へと家格を上昇させたのであった。
しかも倉橋武右衛門景平は御齢79、56歳の安井甚左衛門保狡よりも二回りも年上であり、その上、ここ清水館に召抱えられたのも倉橋武右衛門景平の方が早く、ともあれそのような事情からいつしか倉橋武右衛門景平は己と経歴が似通っている安井甚左衛門保狡の「先輩」のような立場に位置づけられ、それから指導的立場に立たされていた。
するとそこで、「まぁまぁ」と取り成すような声が上がった。外でもない、安井甚左衛門保狡とは相役…、同僚である郡奉行の河内舎人胤庸であった。
河内舎人胤庸もまた、附人の身分にて仕えており、河内舎人胤庸は今から3年前の安永9(1780)年、幕府の番方…、武官である大番よりここ清水館へと、それも役方…、文官である郡奉行へと異動を果たしたのであった。
郡奉行とは年貢の徴収部門のトップであり、勘定奉行と共に、
「銭勘定…」
それに属する「ポスト」と言えた。
だがこれまで番方…、武官の道を歩いてきた河内舎人胤庸にとって「銭勘定」は全くの畑違いであり、異動を果たした当初は河内舎人胤庸は、
「果たして己に郡奉行が務まるであろうか…」
そのように大いに困り果てたものだが、これを援けたのが外ならぬ安井甚左衛門保狡であり、安井甚左衛門保狡は「銭勘定」には未熟な河内舎人胤庸に郡奉行としての仕事を教え込み、その甲斐あって、河内舎人胤庸は今では郡奉行としての仕事が板についてきた。
そのような事情から、河内舎人胤庸は安井甚左衛門保狡には恩義があったために、こうして「銭勘定」は得手だが、政治的には未熟児である安井甚左衛門保狡のために取り成してみせたのであった。
さて、皆の意見が出尽くしたところで、用人の一人、根来茂右衛門長方がまるでそれを見計らったかのように
「畏れながら…、重好様の御存念を承り度、存じ奉りまする…」
重好に対して深々と叩頭しつつ、そう告げたのであった。
根来茂右衛門長方の発っする言葉には厳粛なる響きが感じられ、それゆえ皆も自然と威儀を正して重好の方を向いた。
それもその筈、根来茂右衛門長方は何と御齢90であり、この清水館にて仕える者の中でも最年長であり、ちなみにそれに続くのが長柄奉行の戸田可十郎格誠であり、戸田可十郎格誠は何と御齢86であり、76歳の倉橋武右衛門景平が続く。
江戸時代は基本的に老人を大事にする社会であり、それゆえ高齢者であってもそのまま仕事を続けたいと思えば辞めさせることはせず、そのまま勤めを続けさせるのであった。
根来茂右衛門長方や戸田可十郎格誠、倉橋武右衛門景平にしても正にそうであった。
そして最年長である根来茂右衛門長方はこの清水館においてはまるで、
「重石…」
そのような役割を担っており、そのような根来茂右衛門長方の発する言葉には誰もが耳を傾け、のみならず、厳粛なる気持ちにさせたものである。
本来、用人の上役に当たる御側御用人の地位にある本目権右衛門親収や、更にその上役である番頭の地位にある杉浦頼母勝明と近藤助八郎義種にしても、根来茂右衛門長方の発する言葉には耳を傾け、のみならず、彼らを支配する地位にある家老の本多昌忠と吉川従弼にしてもそうであった。根来茂右衛門長方の発する言葉にはそれだけの力があった。
さて、それに対して重好もまた厳粛なる気持ちにさせられつつ、「左様…」と切り出した。
「されば、身はただ、上様の大御心に従うのみ…」
重好は家臣一同の熱い視線を浴びながらそう告げたのであった。
すると本目権右衛門親収が、「と仰せられますると?」と合いの手を入れた。
「仮に、田沼山城が御三卿潰しの謂わば尖兵として若年寄へと進むのだとしても、つまりは畏れ多くも上様におかせられては御三卿を潰されることをお考えあそばされているのだとしても、身としてはただその大御心に従うのみ…」
重好が改めてそう告げた途端、勘定奉行の長尾幸兵衛保章が、
「しかし、それでは我らは一体…」
そう異議の声を張り上げたのであった。
意知が若年寄へと進むことと御三卿潰しとを結び付ける用人の本目権右衛門親平の意見に対して、同じく用人の大久保半之助忠基であった。
「ほう…、忠基は別の意見があるようだの…」
重好はそう言うと、目を細めて忠基にその先を促した。
「されば畏れ多くも上様におかせられましては、重好様を殊の外、ご寵愛あそばされておりますれば…、何より重好様は畏れ多くも上様の弟君にあそばされますれば、他の…、田安家や一橋家はいざ知らず、この清水家を潰そうなどとは…、斯かる上様が左様に思し召されるとは到底思えませなんだ…」
重好は家臣との距離を縮めるべく、その諱にて呼ぶのと同時に、家臣に対しても己のことを「重好」とその諱にて呼ばせていた。
さて、忠基は将軍・家治と重好との紐帯から、本目権右衛門親平の意見に否定的見解を示したのであった。
大久保半之助忠基もまた、「附切」であった。即ち、小納戸であった大久保外記忠清の次男である。
御側御用人に次ぐ用人の中にあって、附切にて仕える者は本来、珍しいことと言えた。それと言うのも御三卿に仕える用人はその殆どが附人、つまりは旗本の当主というのが相場であり、仮に附切が含まれるとしても、その数は少なく、実際、田安館においては附切の身分である用人は二人しかおらず、一橋館に至ってはその用人は皆、附人で占められていた。田安館にしろ一橋館にしろ、清水館と同じく6人もの用人がいるにもかかわらず、である。
そんな中、ここ清水館においては6人の用人のうち、過半数である4人が附切であり、それも4人は皆、重好がまだ萬次郎と名乗っていた頃より近習番として仕えた者たちであった。
いや、本目権右衛門親平は附切ではないものの、つまりは旗本の嫡男ではあるものの、しかし未だ家督を継いではおらず、部屋住の身にて用人として仕えており、それゆえ旗本の嫡男として生まれ、且つ、家督を譲られた歴とした旗本の当主であると言えるのはたった一人だけであった。
そしてこの附切の多さもまた、清水館の家風がアットホームなものとなる一助となっていた。
御三卿と家臣との距離の近さという点では、御三卿が自ら召抱えた抱入が最も、御三卿との距離が近く、附切、附人と続く。
附人にしろ附切にしろ基本的には御三卿の監視役ではあるものの、しかし、附切の場合には重好の場合がそうであるように御三卿が幼少の砌より近習番として仕えた経歴を持つ者が多く、それゆえそのような附切は抱入と大差なく、そこへ重好の「思い遣り」とも相俟って、アットホームな家風を醸し出していたのだ。
ちなみにこのように清水館の用人がこうも附切の身分にて仕える者で占められているのは、それも重好の近習番の経歴を持つ者で占められているのはひとえに前将軍にして、父である家重の配慮によるものであった。即ち、
「見ず知らずの者を附人として、用人として重好の許へと差し遣わすよりも、近習番として重好に仕えた者たちをそのまま附切にて用人として仕えさせた方が重好も落ち着くであろうぞ…」
その配慮からであり、そして家重のその配慮はそのまま現将軍にして兄である家治にも受け継がれ、この点においても将軍・家治が田安家や一橋家よりも清水家を、と言うよりは清水家の当主たる重好を寵愛していることを物語っていた。
さてその大久保半之助忠基もまた、重好が萬次郎と名乗っていた頃よりその近習番として仕えた「クチ」であり、のみならず、兄にして今の大久保家の当主である半五郎忠得は江戸城本丸は中奥にて小納戸として将軍・家治の御側近くに仕えており、それゆえ将軍・家治と重好との兄弟仲の良さたるや、
「折に触れて…」
大久保半之助忠基は兄、半五郎忠得より書状などで伝え聞くことが屡であり、それゆえ大久保半之助忠基は自信をもってそのように否定することが出来たのであった。
すると用人の中でも唯一、歴とした附人の身分を持ち合わせる福村理大夫正敏が、「忠基が申す通りぞ」と合いの手を入れた。
福村理大夫は附人であるものの、しかし、重好の「思い遣り」の甲斐あって、やはり抱入の意識にて重好に仕えていた。
「されば畏れ多くも上様にお確かめあそばされましては如何でござりましょうや…」
郡奉行の安井甚左衛門保狡がそんな提案をした。だが、その提案に対しては即座に疑問の声が上がった。
「確かめるとは…、まさかに畏れ多くも上様に対し奉り、山城守殿がことを…、山城守殿を若年寄へと進ませまするは果たして御三卿潰しの一環でござりましょうか…、などと斯様に重好様に確かめさせようと申すのか?」
旗奉行の倉橋武右衛門景平が安井甚左衛門保狡のその提案に対して疑問の声を上げたのであった。いや、疑問の声と言うよりは、
「心底、呆れ果てた…」
そのような口調であった。
事実、倉橋武右衛門景平は呆れ果てていた。そのような提案をしてみせる安井甚左衛門保狡に対して。
だがそうとは気づかぬ安井甚左衛門は無邪気にも、「いけませぬか?」と返したものだから、倉橋武右衛門景平をして深々と溜息をつかせたものである。
「良いか?未だ、山城守殿がことは…、山城守殿が若年寄へと進まれしことは正式に決まったことではない…、謂わば内定の段階ぞ?その段階にて、畏れ多くも上様に対し奉り、山城守殿が人事についてあれこれと穿鑿申し上げるは、上様が…、上様のみがお持ちあそばされし人事の、それも最終的なる大権を侵すようなものぞ…、少なくとも、まだ正式に決まった人事ではないにもかかわらず、先回りして、賢しら顔にその人事について尋ねられれば…、あれこれと穿鑿されれば、上様はきっとご不快に思し召されるであろうぞ…」
倉橋武右衛門景平は怒鳴りたい衝動を堪えつつ、噛んで含めるようにそう言い聞かせたものである。
倉橋武右衛門景平にしろ安井甚左衛門保狡にしろ共に附人の身分にてそれぞれ、旗奉行、郡奉行として重好に仕えており、のみならず、二人は共に元は御家人であり、それが御家人役である支配勘定から旗本役である勘定へと昇進、所謂、
「班を進めた…」
それに伴い、御家人から旗本へと家格を上昇させたのであった。
しかも倉橋武右衛門景平は御齢79、56歳の安井甚左衛門保狡よりも二回りも年上であり、その上、ここ清水館に召抱えられたのも倉橋武右衛門景平の方が早く、ともあれそのような事情からいつしか倉橋武右衛門景平は己と経歴が似通っている安井甚左衛門保狡の「先輩」のような立場に位置づけられ、それから指導的立場に立たされていた。
するとそこで、「まぁまぁ」と取り成すような声が上がった。外でもない、安井甚左衛門保狡とは相役…、同僚である郡奉行の河内舎人胤庸であった。
河内舎人胤庸もまた、附人の身分にて仕えており、河内舎人胤庸は今から3年前の安永9(1780)年、幕府の番方…、武官である大番よりここ清水館へと、それも役方…、文官である郡奉行へと異動を果たしたのであった。
郡奉行とは年貢の徴収部門のトップであり、勘定奉行と共に、
「銭勘定…」
それに属する「ポスト」と言えた。
だがこれまで番方…、武官の道を歩いてきた河内舎人胤庸にとって「銭勘定」は全くの畑違いであり、異動を果たした当初は河内舎人胤庸は、
「果たして己に郡奉行が務まるであろうか…」
そのように大いに困り果てたものだが、これを援けたのが外ならぬ安井甚左衛門保狡であり、安井甚左衛門保狡は「銭勘定」には未熟な河内舎人胤庸に郡奉行としての仕事を教え込み、その甲斐あって、河内舎人胤庸は今では郡奉行としての仕事が板についてきた。
そのような事情から、河内舎人胤庸は安井甚左衛門保狡には恩義があったために、こうして「銭勘定」は得手だが、政治的には未熟児である安井甚左衛門保狡のために取り成してみせたのであった。
さて、皆の意見が出尽くしたところで、用人の一人、根来茂右衛門長方がまるでそれを見計らったかのように
「畏れながら…、重好様の御存念を承り度、存じ奉りまする…」
重好に対して深々と叩頭しつつ、そう告げたのであった。
根来茂右衛門長方の発っする言葉には厳粛なる響きが感じられ、それゆえ皆も自然と威儀を正して重好の方を向いた。
それもその筈、根来茂右衛門長方は何と御齢90であり、この清水館にて仕える者の中でも最年長であり、ちなみにそれに続くのが長柄奉行の戸田可十郎格誠であり、戸田可十郎格誠は何と御齢86であり、76歳の倉橋武右衛門景平が続く。
江戸時代は基本的に老人を大事にする社会であり、それゆえ高齢者であってもそのまま仕事を続けたいと思えば辞めさせることはせず、そのまま勤めを続けさせるのであった。
根来茂右衛門長方や戸田可十郎格誠、倉橋武右衛門景平にしても正にそうであった。
そして最年長である根来茂右衛門長方はこの清水館においてはまるで、
「重石…」
そのような役割を担っており、そのような根来茂右衛門長方の発する言葉には誰もが耳を傾け、のみならず、厳粛なる気持ちにさせたものである。
本来、用人の上役に当たる御側御用人の地位にある本目権右衛門親収や、更にその上役である番頭の地位にある杉浦頼母勝明と近藤助八郎義種にしても、根来茂右衛門長方の発する言葉には耳を傾け、のみならず、彼らを支配する地位にある家老の本多昌忠と吉川従弼にしてもそうであった。根来茂右衛門長方の発する言葉にはそれだけの力があった。
さて、それに対して重好もまた厳粛なる気持ちにさせられつつ、「左様…」と切り出した。
「されば、身はただ、上様の大御心に従うのみ…」
重好は家臣一同の熱い視線を浴びながらそう告げたのであった。
すると本目権右衛門親収が、「と仰せられますると?」と合いの手を入れた。
「仮に、田沼山城が御三卿潰しの謂わば尖兵として若年寄へと進むのだとしても、つまりは畏れ多くも上様におかせられては御三卿を潰されることをお考えあそばされているのだとしても、身としてはただその大御心に従うのみ…」
重好が改めてそう告げた途端、勘定奉行の長尾幸兵衛保章が、
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