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深谷盛朝が石寺伊織を介して高嶋朔庵に毒物の鑑定を頼もうとした理由 ~石寺伊織は奥医師・吉田桃源院善正の嫡男であった~

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「いや、じつもうさば盛朝もりとも直接ちょくせつ高嶋たかしま朔庵さくあん協力きょうりょくもとめずして石寺いしでら伊織いおりかいすることにしたのにもそれなりの理由わけがあっての…」

 家治はおもわせぶりにそうげた。

「それはやはり、高嶋たかしま朔庵さくあん一介いっかい町医まちいあらずして、田安たやす殿につかえし医師いしゆえでござりましょう?」

 意知おきともはそう答えた。高嶋たかしま朔庵さくあん田安たやすやかたやとわれのである。

 そうであれば「やとぬし」とも言うべき田安たやすやかた頭越あたまごしに直接ちょくせつ高嶋たかしま朔庵さくあんにそのような協力きょうりょく要請ようせいするのはつつしむべきであろう。

 高嶋たかしま朔庵さくあんにしても深谷ふかや式部しきぶ盛朝もりともからそのような協力きょうりょくけられたところで素直すなおおうじてくれるとも思えなかった。

 すなわち、高嶋たかしま朔庵さくあんかならずや深谷ふかや式部しきぶ盛朝もりともに対して、田安たやすやかた承知しょうちしていることなのかと、そうかえすにちがいないからだ。田安たやすやかたやとわれのとしてはそうかえすのが当然とうぜんと言えた。

 それにたいして深谷ふかや式部しきぶ盛朝もりとも素直すなおに、いや、馬鹿ばか正直しょうじきにと言うべきか、田安たやすやかた頭越あたまごしに協力きょうりょくもとめていることをければ、

「それなればまずは田安たやすやかたゆるしをてからにしていただきたい…」

 高嶋たかしま朔庵さくあんからはそうかえされるにちがいなく、ぎゃく田安たやすやかた承知しょうちみのことと、深谷ふかや式部しきぶ盛朝もりともがそのようにうそをついたところで、

「さればまこと承知しょうちみのことか、ご家老かろうにでもたしかめもうす…」

 やはりそのように高嶋たかしま朔庵さくあん返答へんとうするにちがいなく、実際じっさい家老かろうにでもわせるであろう。

 そうなれば深谷ふかや式部しきぶ盛朝もりともうそをついたことなど、ぐにバレてしまう。

 それよりは田安たやすやかたにて目付めつけつとめる石寺いしでら伊織いおり章貞あきさだかいした方が安全あんぜんというものであろう。

 目付めつけ石寺いしでら章貞あきさだかいして高嶋たかしま朔庵さくあん協力きょうりょくもとめれば、高嶋たかしま朔庵さくあんとて、田安たやすやかた承知済しょうちずみのことと、そうしんじてはこころよ協力きょうりょくおうじてくれるにちがいないからだ。

 意知おきともがその点を指摘してきすると、家治は「たしかにそれもある」とじつふくみのある返答へんとうをよこした。

「さればほかにも…、式部しきぶがそれな石寺いしでら伊織いおりかいしましたる理由わけがござりまするので?」

 意知おきともが家治にそうたずねると、「そのとおりぞ」と家治はみとめたので、

「さればそは…、一体いったい如何いか理由わけにて?」

 意知おきともすようにしてたずねた。

石寺いしでら伊織いおりはの、実は吉田よしだ桃源院とうげんいん嫡男ちゃくなんであったのだ…」

 家治がそうけるなり、

おく医師いし、それも法印ほういんとしておそおおくも大納言だいなごん様につかたてまつりしあの、吉田よしだ桃源院とうげんいん善正よしまさでござりまするか?」

 意知おきともぐにそう反応はんのうした。意知おきとも家基いえもと生前せいぜんおりには家基いえもとわれて度々たびたび西之丸にしのまるへと登城とじょうしていただけに、いつしか西之丸にしのまるにて家基いえもとつかえる者に自然しぜんつうじ、それゆえにぐにそのように反応はんのうすることが出来できたわけだが、しかし、流石さすが家族かぞく関係かんけいまではさしもの意知おきとも把握はあくしていたわけではなかった。

然様さよう、その吉田よしだ桃源院とうげんいんぞ」

「されば…、桃源院とうげんいん嫡男ちゃくなんなれば何ゆえに田安たやす殿のやかたにて目付めつけとしてつかもうしておりますので?」

 意知おきともくびかしげた。おく医師いし家系かけいに、それも嫡男ちゃくなんとしてまれたのであればその家業かぎょうぐべく、修行しゅぎょうであろう。

 すくなくとも、嫡男ちゃくなんに生まれた以上いじょう他家たけへと養子ようしされるはずがなかった。

 おく医師いし家系かけいに、それも嫡男ちゃくなんとしてまれながら、今は実家じっかせいである吉田よしだから石寺いしでらへとあらためて田安たやすやかたにて目付めつけとしてつかえているということは石寺いしでら家に養嗣子ようししとしてむかえられたことにほかならない。

 意知おきともはそう思えばこそ、くびかしげてみせたのであり、家治もその点、理解りかいしめした。

意知おきともくびかしげるのももっともぞ…、されば伊織いおりは…、伊織いおり章貞あきさだ生憎あいにくと、医業いぎょうにはじゅくせざるようで…」

 医者いしゃ家系かけいまれたからと言って、かならずしも医者いしゃになれるとはかぎらない…、医者いしゃとしての才能さいのうめぐまれるわけではなく、石寺いしでら伊織いおり章貞あきさだはどうやらまさにそれであったらしい。

「さればそれゆえに石寺いしでら家に…、田安たやす殿のやかたつかえし石寺いしでら家へと養子ようしされましたので?」

 意知おきともは家治にたしかめるようにたずねたものの、ちがった。

「いや、それがちがうのだ」

 意知おきともは家治にあっさりと否定ひていされたことから、おもわず「ちがう?」とかえした。

然様さよう…、されば伊織いおり章貞あきさだ石寺いしでらなる一家いっかを…、別家べっけして田安たやすやかたにてつかえるようになったのだ」

「されば伊織いおり石寺いしでら家の始祖しそ…、初代しょだいというわけでござりまするか?」

然様さよう…、旗本はたもとではのうて、御家人ごけにんとしてだが…」

「つまり、附切つけきりとして田安たやす殿がやかたにてつかもうしておりますわけにて…」

 意知おきともがやはりたしかめるようにたずねると、家治も今度こんどは「然様さよう」と首肯しゅこうし、その上で、

もっとも、いきなり別家べっけを…、御家人ごけにんたる石寺いしでら家をさしめ、石寺いしでら伊織いおり章貞あきさだとして田安たやすやかたにてつかえさせては周囲しゅういに対して、伊織いおりには医学いがくさいがないと吹聴ふいちょうするも同然どうぜんと、そこでまずは桃源院とうげんいんが父…、伊織いおりにとっては祖父そふたりし吉田よしだ法眼ほうげん之参ゆきみつ養子ようしとしたのち、その伊織いおりのために御家人ごけにん石寺いしでら家をさしめ、吉田よしだ伊織いおりあらたに、石寺いしでら伊織いおりとして田安たやすやかたにてつかえるようになったのだ…」

 家治は石寺いしでら伊織いおり田安たやすやかたつかえるようになった経緯いきさつについて補足ほそくした。

「ちなみに、吉田よしだ法眼ほうげん之参これみつはの、かつては叔父おじ田安たやす宗武むねたけ殿につかたてまつり、それゆえに…」

 伊織いおり章貞あきさだのために、その「就職しゅうしょくさき」として田安たやすやかた斡旋あっせんすることが出来できたということらしかった。

 医師いし家系かけいまれながら、医師いしとしての才能さいのうがないために嫡男ちゃくなんの座をなげうち、次男じなん三男さんなんぼうのように一生いっしょう部屋住へやずみもとい「ニート」としてらすよりははるかにマシというものであろう。もっとも、はたらいたらけと思っていなければのはなしだが。

 いや、田安たやすやかたにて真面目まじめつとめにはげんでいるあたり、石寺いしでら伊織いおり章貞あきさだなる者はどうやらその、はたらいたらけの「信者しんじゃ」ではないようで、そうであれば石寺いしでら伊織いおりにとって田安たやすやかたにてはたらけるのはさいわいと言えよう。

「いや、これらの事情じじょうみな石寺いしでら伊織いおり盛朝もりともけたものぞ…」

 深谷ふかや式部しきぶ盛朝もりともはそれをそのまま、家治につたえたということらしかった。

 そしてそれは、石寺いしでら伊織いおり深谷ふかや式部しきぶ盛朝もりともに対して、おのれうえけるほどしたしい間柄あいだがらであることを物語ものがたっていた。

「されば式部しきぶ石寺いしでら伊織いおりがそれなるうえ勿論もちろん…」

 意知おきともたしかめるようにそうすと、家治は「無論むろん承知しょうちしておる」とこたえた上で、

「さればその、石寺いしでら伊織いおりつうじて高嶋たかしま朔庵さくあんどく鑑定かんていを…、治済はるさだ一体いったい如何いかどくもちいて倫子ともこ萬壽ますひめ、そして家基いえもといのちうぼうたのか、その鑑定かんていたのめば、石寺いしでら伊織いおり実父じっぷたる吉田よしだ桃源院とうげんいん協力きょうりょく見込みこめると…」

 そうつづけた。

成程なるほど…、それゆえに式部しきぶ石寺いしでら伊織いおりつうじまして、高嶋たかしま朔庵さくあんどく鑑定かんていを…」

 意知おきともがそのように声を上げると、家治も「然様さよう…」とおうじた。
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