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石寺伊織章貞より毒物の鑑定を頼まれた吉田桃源院善正はしかし、それから間もなくして息・元策善之と共に死を遂げる。
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「そはまた何ゆえに…、一橋殿に式部が探索を悟られましたなどとは…、何か確たる根拠でも?」
今度は意知が尋ねた。
「されば石寺伊織は盛朝が期待せし通り、実父たる吉田桃源院にも毒の鑑定を頼んだのだが…、それが間違いの因であったと…、盛朝曰く、石寺伊織は大いに嘆いたそうな…」
「と仰せられますと?」
意知はその先を促した。
「されば石寺伊織の頼みを実父たる吉田桃源院は快諾したそうで…、吉田桃源院も家基が死については大いに悔やんでおり…、何しろ家基に仕えし奥医であったゆえにの…、それゆえにその家基が毒殺された可能性がある、となればその毒の鑑定には吝かではないと申すものにて…、それどころか奥医として家基を守れなかった身として、せめてもの罪滅ぼしから積極的に事に…、毒の鑑定に当たる姿勢を覗かせたらしいのだが、その際、桃源院は息である元策善之とその弟に当たる元長…、その当時は桃庵であったか…、桃庵臻の二人に手伝いを命じたそうな…」
意知はそれを聞いて、元策善之なる者が石寺伊織に代わる嫡子であり、元長こと桃庵臻はその弟であろうと推察したが、違った。
「されば嫡子は元策ではのうて、元長こと桃庵臻の方なのだ…」
「弟が兄を差し置いて嫡子に?」
本来なれば考えられないことであり、にもかかわらず、弟が嫡子になるとはやはりその元策善之なる者も石寺伊織と同様、
「医業熟せざる…」
医者としての資質に欠けたからであろうかと、意知はそう思うと、その旨、家治に尋ねたものの、しかしまたしても違った。
「いや、医師として元策は優れていた…、何しろ本草学に関する書籍も執筆せしゆえに…」
「それなれば何ゆえに元策が嫡子ではないのでござりまするか?」
いよいよもって意知には訳が分からなかった。
「実はな、桃庵は桃源院が実子ではないのだ…、されば石寺伊織が実子にて…」
これには意知も驚かされた。
「元策なる嫡子が、それも医業に優れし嫡子がいるにもかかわらず、でござりまするか?」
意知には元策という立派な跡継ぎがいるにもかかわらず、態々、石寺伊織の実子を養嗣子として…、己の跡継ぎとして迎え入れた桃源院のその行動原理が理解出来なかった。
「されば桃源院は廃嫡せし伊織に対してかねがね、申し訳なく思うており…」
家治がそう切り出したので、意知は思わず、「それは致し方のなきことではござりませぬか」と言葉を被せ、
「されば石寺伊織には医業熟せざる由にて、家を継ぎしことあたわず…」
意知は石寺伊織を廃嫡した吉田桃源院に理解を示した。
そんな意知の割り切りの良さに家治は苦笑させられた。
「如何にも意知らしい割り切りの良さだが…、なれど皆が皆、意知のように割り切れるものではないのでな…」
「吉田桃源院もまた、皆と同様に、それがしのように割り切れず、と?」
意知がそう尋ねると、家治も「然様」と応じた。
「されば桃源院はせめて伊織が子、つまりは己が孫を嫡子に据えることで、伊織に対する罪滅ぼしとしたらしい…」
「成程…、それではその桃庵なる者、元策の義理の弟というわけでござりまするか…、なれど元策はそれを…、父・桃源院が判断を素直に受け容れましたので?」
元策としては上の兄である石寺伊織が廃嫡された以上は伊織に代わって己が嫡子になれるとそう信じたに違いなく、そうであれば父・桃源院の判断たるや、その元策にしてみれば嫡子の座を奪われるも同然であり、元策は果たして父・桃源院の判断を素直に受け容れたのかと、それが意知には疑問であった。
「されば元策にしても父・桃源院と同じく、兄・伊織に対してはかねがね申し訳なく思うていたそうで、それゆえ元策は伊織が子の桃庵を己に代えて嫡子に据えし父・桃源院がその判断を素直に受け容れたそうな…、何しろそれこそが嫡流を守ることにもなるゆえに…」
武士、それも武官である番士系の者が嫡流を気にするのなら頷けもしようが、しかし、そうではない医師たる者がそのような嫡流を気にするとは、意知は内心呆れたものの、しかし口にはしなかった。
「ともあれ、桃源院には奥医としての仕事があるゆえに…、家基亡き後はここ本丸にて余に仕えし奥医として登城しなければならず…、いや、事情を把握せし余としてはやはり、桃源院には登城を…、余の奥医としての仕事を免じてやっても良かったのだが、それではやはり、周囲には奇異に思われるであろうゆえ、それで…」
家治は話を本筋に戻したので、意知もそれに応ずる格好で、
「成程…、それゆえに吉田桃源院は元策と桃庵に手伝わせますことに致しましたので…」
意知は理解を示すようにそう言った。
「然様…、なれど今にして思えばそれが間違いの因であったと…」
将軍・家治の奥医師という本業があるために、そこで二人の倅に毒物の鑑定を手伝わせることにした吉田桃源院のその判断は意知には頷けるものであり、にもかかわらずそれがどうして間違いの因になるのか…、石寺伊織は何ゆえにそのように評するのかと、意知にはそれが分からずに首を傾げたものである。
「されば桃庵には妻女がいるのだが…、その妻女は稲守三左衛門榮正なる者の娘なのだが、その稲守三左衛門、その当時…、今もそうだが、一橋館にて郡奉行として仕えているのだ…」
家治がそう打ち明けると、それで意知も合点がいった。
「まさかに…、毒の鑑定につきて…、吉田桃源院が二人の息・元策と桃庵に命じて、畏れ多くも大納言様がお命を奪いし毒の鑑定に当たらせしこと、それなる桃庵が妻女の口より実父へと…、一橋殿に郡奉行として仕えし稲守三左衛門へと伝わり、そして一橋殿へと…」
治済の耳にまでそのことが届いてしまったのだとしたら、石寺伊織がそう評するのも頷けた。
「されば確か、吉田桃源院は畏れ多くも大納言様が失せ給いし安永8(1779)年の5月頃に卒しましたのでは…」
意次はそのことを思い出した。奥医師は若年寄支配であるものの、それでも将軍・家治に近似する奥医師であるので、意次も支配違いとは言え、奥医師の動静には普段より気にかけており、それゆえ吉田桃源院が亡くなったことを、それもいつ亡くなったかも覚えていたのだ。
「然様…、意次が申す通り、5月のそれも10日に亡くなったのだ…」
家治は意次の記憶を首肯した上で、
「なれど亡くなったは桃源院一人に非ず…、されば元策も亡くなったのだ。父・桃源院と共に、同じ日にの…」
意次も知らないことを補足し、それゆえ意次をして思わず、「えっ」と言わしめた。
今度は意知が尋ねた。
「されば石寺伊織は盛朝が期待せし通り、実父たる吉田桃源院にも毒の鑑定を頼んだのだが…、それが間違いの因であったと…、盛朝曰く、石寺伊織は大いに嘆いたそうな…」
「と仰せられますと?」
意知はその先を促した。
「されば石寺伊織の頼みを実父たる吉田桃源院は快諾したそうで…、吉田桃源院も家基が死については大いに悔やんでおり…、何しろ家基に仕えし奥医であったゆえにの…、それゆえにその家基が毒殺された可能性がある、となればその毒の鑑定には吝かではないと申すものにて…、それどころか奥医として家基を守れなかった身として、せめてもの罪滅ぼしから積極的に事に…、毒の鑑定に当たる姿勢を覗かせたらしいのだが、その際、桃源院は息である元策善之とその弟に当たる元長…、その当時は桃庵であったか…、桃庵臻の二人に手伝いを命じたそうな…」
意知はそれを聞いて、元策善之なる者が石寺伊織に代わる嫡子であり、元長こと桃庵臻はその弟であろうと推察したが、違った。
「されば嫡子は元策ではのうて、元長こと桃庵臻の方なのだ…」
「弟が兄を差し置いて嫡子に?」
本来なれば考えられないことであり、にもかかわらず、弟が嫡子になるとはやはりその元策善之なる者も石寺伊織と同様、
「医業熟せざる…」
医者としての資質に欠けたからであろうかと、意知はそう思うと、その旨、家治に尋ねたものの、しかしまたしても違った。
「いや、医師として元策は優れていた…、何しろ本草学に関する書籍も執筆せしゆえに…」
「それなれば何ゆえに元策が嫡子ではないのでござりまするか?」
いよいよもって意知には訳が分からなかった。
「実はな、桃庵は桃源院が実子ではないのだ…、されば石寺伊織が実子にて…」
これには意知も驚かされた。
「元策なる嫡子が、それも医業に優れし嫡子がいるにもかかわらず、でござりまするか?」
意知には元策という立派な跡継ぎがいるにもかかわらず、態々、石寺伊織の実子を養嗣子として…、己の跡継ぎとして迎え入れた桃源院のその行動原理が理解出来なかった。
「されば桃源院は廃嫡せし伊織に対してかねがね、申し訳なく思うており…」
家治がそう切り出したので、意知は思わず、「それは致し方のなきことではござりませぬか」と言葉を被せ、
「されば石寺伊織には医業熟せざる由にて、家を継ぎしことあたわず…」
意知は石寺伊織を廃嫡した吉田桃源院に理解を示した。
そんな意知の割り切りの良さに家治は苦笑させられた。
「如何にも意知らしい割り切りの良さだが…、なれど皆が皆、意知のように割り切れるものではないのでな…」
「吉田桃源院もまた、皆と同様に、それがしのように割り切れず、と?」
意知がそう尋ねると、家治も「然様」と応じた。
「されば桃源院はせめて伊織が子、つまりは己が孫を嫡子に据えることで、伊織に対する罪滅ぼしとしたらしい…」
「成程…、それではその桃庵なる者、元策の義理の弟というわけでござりまするか…、なれど元策はそれを…、父・桃源院が判断を素直に受け容れましたので?」
元策としては上の兄である石寺伊織が廃嫡された以上は伊織に代わって己が嫡子になれるとそう信じたに違いなく、そうであれば父・桃源院の判断たるや、その元策にしてみれば嫡子の座を奪われるも同然であり、元策は果たして父・桃源院の判断を素直に受け容れたのかと、それが意知には疑問であった。
「されば元策にしても父・桃源院と同じく、兄・伊織に対してはかねがね申し訳なく思うていたそうで、それゆえ元策は伊織が子の桃庵を己に代えて嫡子に据えし父・桃源院がその判断を素直に受け容れたそうな…、何しろそれこそが嫡流を守ることにもなるゆえに…」
武士、それも武官である番士系の者が嫡流を気にするのなら頷けもしようが、しかし、そうではない医師たる者がそのような嫡流を気にするとは、意知は内心呆れたものの、しかし口にはしなかった。
「ともあれ、桃源院には奥医としての仕事があるゆえに…、家基亡き後はここ本丸にて余に仕えし奥医として登城しなければならず…、いや、事情を把握せし余としてはやはり、桃源院には登城を…、余の奥医としての仕事を免じてやっても良かったのだが、それではやはり、周囲には奇異に思われるであろうゆえ、それで…」
家治は話を本筋に戻したので、意知もそれに応ずる格好で、
「成程…、それゆえに吉田桃源院は元策と桃庵に手伝わせますことに致しましたので…」
意知は理解を示すようにそう言った。
「然様…、なれど今にして思えばそれが間違いの因であったと…」
将軍・家治の奥医師という本業があるために、そこで二人の倅に毒物の鑑定を手伝わせることにした吉田桃源院のその判断は意知には頷けるものであり、にもかかわらずそれがどうして間違いの因になるのか…、石寺伊織は何ゆえにそのように評するのかと、意知にはそれが分からずに首を傾げたものである。
「されば桃庵には妻女がいるのだが…、その妻女は稲守三左衛門榮正なる者の娘なのだが、その稲守三左衛門、その当時…、今もそうだが、一橋館にて郡奉行として仕えているのだ…」
家治がそう打ち明けると、それで意知も合点がいった。
「まさかに…、毒の鑑定につきて…、吉田桃源院が二人の息・元策と桃庵に命じて、畏れ多くも大納言様がお命を奪いし毒の鑑定に当たらせしこと、それなる桃庵が妻女の口より実父へと…、一橋殿に郡奉行として仕えし稲守三左衛門へと伝わり、そして一橋殿へと…」
治済の耳にまでそのことが届いてしまったのだとしたら、石寺伊織がそう評するのも頷けた。
「されば確か、吉田桃源院は畏れ多くも大納言様が失せ給いし安永8(1779)年の5月頃に卒しましたのでは…」
意次はそのことを思い出した。奥医師は若年寄支配であるものの、それでも将軍・家治に近似する奥医師であるので、意次も支配違いとは言え、奥医師の動静には普段より気にかけており、それゆえ吉田桃源院が亡くなったことを、それもいつ亡くなったかも覚えていたのだ。
「然様…、意次が申す通り、5月のそれも10日に亡くなったのだ…」
家治は意次の記憶を首肯した上で、
「なれど亡くなったは桃源院一人に非ず…、されば元策も亡くなったのだ。父・桃源院と共に、同じ日にの…」
意次も知らないことを補足し、それゆえ意次をして思わず、「えっ」と言わしめた。
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