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第四章 王子様と結婚します
4-2 私、殿下と結婚します!
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ディアルムドがグロー家を訪ねてきたのは、求婚を承諾してから三日後。
その日、王子の先触れを受けて屋敷は上を下への大騒ぎになっていた。
「何をうろちょろしているのかしら? 今日は大事なお客様がいらっしゃる日よ。お姉様は屋根裏部屋から出ないでちょうだい」
そんな中ブリギットがバーベナを見るなり苛立たしげに眉を吊り上げるのはいつものこと。
――また始まったわ……。
バーベナは胸の内でこっそりと溜息をついた。
厨房の隅で遅めの昼食を済ませて廊下に出ると、ちょうど階段のあたりでブリギットと鉢合わせしてしまったのだ。
今日は数名の侍女たちも一緒で、あっという間に取り囲まれる。
「ブリギットお嬢様、ご心配なさらないでください。この娘は殿下の御前に出ても恥ずかしくないようなドレスも宝石も持っていないはずですから。とはいえ、美しく着飾ろうとしたところでブリギットお嬢様の足元にも及びませんがね」
「それもそうね。痛んだ髪に日焼けし放題の肌、赤切れだらけ手のお姉様と違って、私のほうは毎日欠かさずお手入れをしているもの」
「どうしても気になるようでしたら、部屋の外側から鍵をかけてしまえばいいのですよ」
「う~ん、でもよくよく考えてみたら、そんなことをしなくてもいいかもしれないわ。殿下ならお姉様を見かけても下級使用人の一人だと思うはずだもの。出られるものなら出てみればいいわ、そのみっともない姿でね」
ブリギットがクスリと笑えば、つられるように侍女たちもクスクスと笑い出す。
「私のことは気にしないでいいから、あなたは自分の支度に専念すればいいわ」
こんなことは日常茶飯事である。
バーベナは頬が引き攣りそうになるのを堪えて、できるだけ平然と答えた。
ここで怒ったり悲しんだりしたら相手の思う壺だということはよくわかっている。
認められたいとか愛されたいとか感情的な態度を見せてはいけない。
心の中は冷たい風が吹き荒んでいたのに、いつもなんでもないふうを装っていた。
ディアルムドに出会うまでは。
『ギャフンと言うところを見たくありませんか?』
ふとディアルムドの言葉が蘇り、バーベナはほんの少しだけ緊張が解れるのを感じた。
味方といったら、いつだってミアンが一番だったはず。
それなのにどうして彼の言葉が真っ先に思い浮かんだのか。
一瞬口元を緩めれば、どうやらそれが思いがけない反応だったらしくブリギットが顔を顰めた。
「何よ、急にニヤけちゃって……気持ち悪いわね」
ブリギットは鼻白んだような顔を向けて、「そろそろ殿下がいらっしゃるわ」と気を取り直したように衣装部屋へと向かっていった。
「お嬢様」と取り巻きたちもブリギットのあとを追う。
――そうね、ブリギットの言う通り、そろそろ殿下がいらっしゃる時間ね。
バーベナはハッとすると、湧き上がった疑問を脇へ押しやって自室へと急いだ。
――私は、私のやるべきことに集中するのよ。
ディアルムドが応接間に通されたころには、すでにティータイムの時間に差しかかっていた。
父は喜色満面の笑みを浮かべている。
いつもは部屋に引きこもりがちの母を珍しく連れだっていたほど。
少し離れたところにはどこか気取った感じのブリギットも立っている。
バーベナはその様子を物陰からそっと窺う。
ちなみに母親との思い出は少ない。
もともと病気がちというのもあるが、たまに顔を合わせても冷たい目を向けられるだけ。
こっそり話しかけようものなら、毎回妹に告げ口されて父にぶたれる始末だった。
母に甘えようとするよりも、どちらかというと父に泣いて縋ることのほうが多かったかもしれない。
バーベナの心臓は痛いほどに鼓動している。
よく叩かれていたせいだろう。とりわけ父の顔を見ると、否が応でも緊張してしまう。
今、ポケットの中にミアンはいない。
バーベナが初めに危惧した通り、ミアンは屋敷の外で朝からディアルムドの使い魔と追いかけっこをしているからだ。
「殿下、わざわざご足労いただきありがとうございます。それで……大事なお話というのは?」
父が両手を擦り合わせながら尋ねれば、上座に座って紅茶を飲んでいたディアルムドが鷹揚に頷いた。
ディアルムドは人当たりのいい笑みを浮かべている。
「貴殿の娘と私の結婚の話です」
「そうでしたか!」
やはりといった具合に父の顔が明るくなる。
父が振り向いてブリギットを手招きしたところで、カップをソーサーに置いたディアルムドと目が合った。
大丈夫、とアクアブルーの目が雄弁に語っている。
――よし、今だわ!
それを合図にバーベナは足を繰り出す。
ブリギットを早足で追い越して、何食わぬ顔でディアルムドの隣に座ってやったのだ。
「お姉様!?」
「……バ、バーベナ、なぜおまえが殿下の隣に座るんだ!? 殿下の御前で無礼な振る舞いだぞ!!」
「私、殿下と結婚します!」
そしてすかさず言った。
ディアルムドと結婚するのはブリギットではない、自分なのだと。
まっすぐに父を見据えて言い切った。
「なっ、なんですって……!?」
ブリギットは口をぽかんと開けて驚きを隠せないようだった。
それもそのはず。さっきまで馬鹿にしていた姉が、見たこともないような品のあるデイドレスを身に纏って現れたのだから。
その横で母も言葉を失っている。
この際多少の粗は目を瞑るしかない。ブリギットの言う通り、髪も肌も日ごろから手入れが行き届いているとは言えない。行儀作法にも不安が残る。
だがドレスの送り主であるディアルムドは、胸躍らせるような魅力的な笑顔をバーベナに向けている。
「そんなことは決して許さない!!」
一方で「部屋へ戻れ」とバーベナの摑みかかろうとした父の激昂ぶりは、いつものこととはいえ異常だった。
父が怒るのは想定内だったが、それでも人前では猫を被るくらいはするかと思っていたのに。
とっさにディアルムドがバーベナの肩を抱き寄せてくれていなければ、今ごろ髪を摑まれていたかもしれない。
空振りした父の拳が震えている。
「お父様、私は――」
「ええい、おまえの与太話など聞きたくない! この無礼者め! そうだ、おまえは具合が悪い! でなければこんなことをするはずがない!! ついに頭がおかしくなったんだ!!」
反論しようと口を開いたバーベナに、父が容赦なく怒声を被せてくる。
傲慢な口振りではあるものの、礼を欠いているという点では父も同じだろう。「公爵、落ち着きなさい」というディアルムドの言葉が聞こえていないようだ。そもそもこの場に王子がいることすら忘れているのかもしれない。
そしてよほど腹に据えかねたのか、頑として座り込んだままのバーベナを見て父が腕を振り上げた。
――もう一度結婚するって言わなきゃ。お父様を驚かせてやるのよ……!
頭ではそう思うのに、体が動いてくれない。
――駄目、今度こそぶたれる!!
目を瞑って顔を背けたのは、ほぼ条件反射だった。
ミアンに『公爵をぶち殺していい?』『屋敷を消し炭にしていい?』と尋ねられるたびに、バーベナはいつも『駄目』だと答えてきた。
実際問題、目の前の父親をねじ伏せるのは難しくない。バーベナにはそれだけの力がある。
けれどもそうしなかったのは……。
『高等魔法が使えない? 上流貴族の人間なら五歳児でもできるというのに、おまえはとんでもない愚図だな』
『本当にグロー家の人間なのか? 私の娘だとは到底思えないな。いいや、思いたくない』
『私に触れるな! 話しかけるな! この屋敷では息を殺していろ、この出来損ないめ!』
これまで浴びせられた罵倒の数々が頭を掠める。
――嫌!!
植えつけられた恐怖心はなかなか消えてくれない。
むしろよくディアルムドの提案を受け入れられたものだ。
「バーベナ、大丈夫です」
すると、肩に置かれた手にグッと力が込められた。
どうやら自分でも気づかぬうちに震えていたらしい。ディアルムドがそっと耳打ちしてくる。
「あなたはじゅうぶんすぎるくらいに頑張っています」
その手の大きさに、手のひらの温かさに、そして労るような静かな言葉に、体ではなく心のほうが震えた。
しばし感じ入ったようにじっとする。
「この手はなんですか? 動物を調教しているつもりか知りませんが、無礼なのは公爵のほうでしょう」
座席が浮くのを感じて目を開ければ、ディアルムドが席を立って父の手首を締め上げていた。
頭にきているのは父だけではなかったようだ。ディアルムドは笑みを消し、低い声で、しかしハッキリと言う。
「我が妃に対する言動、目に余ります」
その日、王子の先触れを受けて屋敷は上を下への大騒ぎになっていた。
「何をうろちょろしているのかしら? 今日は大事なお客様がいらっしゃる日よ。お姉様は屋根裏部屋から出ないでちょうだい」
そんな中ブリギットがバーベナを見るなり苛立たしげに眉を吊り上げるのはいつものこと。
――また始まったわ……。
バーベナは胸の内でこっそりと溜息をついた。
厨房の隅で遅めの昼食を済ませて廊下に出ると、ちょうど階段のあたりでブリギットと鉢合わせしてしまったのだ。
今日は数名の侍女たちも一緒で、あっという間に取り囲まれる。
「ブリギットお嬢様、ご心配なさらないでください。この娘は殿下の御前に出ても恥ずかしくないようなドレスも宝石も持っていないはずですから。とはいえ、美しく着飾ろうとしたところでブリギットお嬢様の足元にも及びませんがね」
「それもそうね。痛んだ髪に日焼けし放題の肌、赤切れだらけ手のお姉様と違って、私のほうは毎日欠かさずお手入れをしているもの」
「どうしても気になるようでしたら、部屋の外側から鍵をかけてしまえばいいのですよ」
「う~ん、でもよくよく考えてみたら、そんなことをしなくてもいいかもしれないわ。殿下ならお姉様を見かけても下級使用人の一人だと思うはずだもの。出られるものなら出てみればいいわ、そのみっともない姿でね」
ブリギットがクスリと笑えば、つられるように侍女たちもクスクスと笑い出す。
「私のことは気にしないでいいから、あなたは自分の支度に専念すればいいわ」
こんなことは日常茶飯事である。
バーベナは頬が引き攣りそうになるのを堪えて、できるだけ平然と答えた。
ここで怒ったり悲しんだりしたら相手の思う壺だということはよくわかっている。
認められたいとか愛されたいとか感情的な態度を見せてはいけない。
心の中は冷たい風が吹き荒んでいたのに、いつもなんでもないふうを装っていた。
ディアルムドに出会うまでは。
『ギャフンと言うところを見たくありませんか?』
ふとディアルムドの言葉が蘇り、バーベナはほんの少しだけ緊張が解れるのを感じた。
味方といったら、いつだってミアンが一番だったはず。
それなのにどうして彼の言葉が真っ先に思い浮かんだのか。
一瞬口元を緩めれば、どうやらそれが思いがけない反応だったらしくブリギットが顔を顰めた。
「何よ、急にニヤけちゃって……気持ち悪いわね」
ブリギットは鼻白んだような顔を向けて、「そろそろ殿下がいらっしゃるわ」と気を取り直したように衣装部屋へと向かっていった。
「お嬢様」と取り巻きたちもブリギットのあとを追う。
――そうね、ブリギットの言う通り、そろそろ殿下がいらっしゃる時間ね。
バーベナはハッとすると、湧き上がった疑問を脇へ押しやって自室へと急いだ。
――私は、私のやるべきことに集中するのよ。
ディアルムドが応接間に通されたころには、すでにティータイムの時間に差しかかっていた。
父は喜色満面の笑みを浮かべている。
いつもは部屋に引きこもりがちの母を珍しく連れだっていたほど。
少し離れたところにはどこか気取った感じのブリギットも立っている。
バーベナはその様子を物陰からそっと窺う。
ちなみに母親との思い出は少ない。
もともと病気がちというのもあるが、たまに顔を合わせても冷たい目を向けられるだけ。
こっそり話しかけようものなら、毎回妹に告げ口されて父にぶたれる始末だった。
母に甘えようとするよりも、どちらかというと父に泣いて縋ることのほうが多かったかもしれない。
バーベナの心臓は痛いほどに鼓動している。
よく叩かれていたせいだろう。とりわけ父の顔を見ると、否が応でも緊張してしまう。
今、ポケットの中にミアンはいない。
バーベナが初めに危惧した通り、ミアンは屋敷の外で朝からディアルムドの使い魔と追いかけっこをしているからだ。
「殿下、わざわざご足労いただきありがとうございます。それで……大事なお話というのは?」
父が両手を擦り合わせながら尋ねれば、上座に座って紅茶を飲んでいたディアルムドが鷹揚に頷いた。
ディアルムドは人当たりのいい笑みを浮かべている。
「貴殿の娘と私の結婚の話です」
「そうでしたか!」
やはりといった具合に父の顔が明るくなる。
父が振り向いてブリギットを手招きしたところで、カップをソーサーに置いたディアルムドと目が合った。
大丈夫、とアクアブルーの目が雄弁に語っている。
――よし、今だわ!
それを合図にバーベナは足を繰り出す。
ブリギットを早足で追い越して、何食わぬ顔でディアルムドの隣に座ってやったのだ。
「お姉様!?」
「……バ、バーベナ、なぜおまえが殿下の隣に座るんだ!? 殿下の御前で無礼な振る舞いだぞ!!」
「私、殿下と結婚します!」
そしてすかさず言った。
ディアルムドと結婚するのはブリギットではない、自分なのだと。
まっすぐに父を見据えて言い切った。
「なっ、なんですって……!?」
ブリギットは口をぽかんと開けて驚きを隠せないようだった。
それもそのはず。さっきまで馬鹿にしていた姉が、見たこともないような品のあるデイドレスを身に纏って現れたのだから。
その横で母も言葉を失っている。
この際多少の粗は目を瞑るしかない。ブリギットの言う通り、髪も肌も日ごろから手入れが行き届いているとは言えない。行儀作法にも不安が残る。
だがドレスの送り主であるディアルムドは、胸躍らせるような魅力的な笑顔をバーベナに向けている。
「そんなことは決して許さない!!」
一方で「部屋へ戻れ」とバーベナの摑みかかろうとした父の激昂ぶりは、いつものこととはいえ異常だった。
父が怒るのは想定内だったが、それでも人前では猫を被るくらいはするかと思っていたのに。
とっさにディアルムドがバーベナの肩を抱き寄せてくれていなければ、今ごろ髪を摑まれていたかもしれない。
空振りした父の拳が震えている。
「お父様、私は――」
「ええい、おまえの与太話など聞きたくない! この無礼者め! そうだ、おまえは具合が悪い! でなければこんなことをするはずがない!! ついに頭がおかしくなったんだ!!」
反論しようと口を開いたバーベナに、父が容赦なく怒声を被せてくる。
傲慢な口振りではあるものの、礼を欠いているという点では父も同じだろう。「公爵、落ち着きなさい」というディアルムドの言葉が聞こえていないようだ。そもそもこの場に王子がいることすら忘れているのかもしれない。
そしてよほど腹に据えかねたのか、頑として座り込んだままのバーベナを見て父が腕を振り上げた。
――もう一度結婚するって言わなきゃ。お父様を驚かせてやるのよ……!
頭ではそう思うのに、体が動いてくれない。
――駄目、今度こそぶたれる!!
目を瞑って顔を背けたのは、ほぼ条件反射だった。
ミアンに『公爵をぶち殺していい?』『屋敷を消し炭にしていい?』と尋ねられるたびに、バーベナはいつも『駄目』だと答えてきた。
実際問題、目の前の父親をねじ伏せるのは難しくない。バーベナにはそれだけの力がある。
けれどもそうしなかったのは……。
『高等魔法が使えない? 上流貴族の人間なら五歳児でもできるというのに、おまえはとんでもない愚図だな』
『本当にグロー家の人間なのか? 私の娘だとは到底思えないな。いいや、思いたくない』
『私に触れるな! 話しかけるな! この屋敷では息を殺していろ、この出来損ないめ!』
これまで浴びせられた罵倒の数々が頭を掠める。
――嫌!!
植えつけられた恐怖心はなかなか消えてくれない。
むしろよくディアルムドの提案を受け入れられたものだ。
「バーベナ、大丈夫です」
すると、肩に置かれた手にグッと力が込められた。
どうやら自分でも気づかぬうちに震えていたらしい。ディアルムドがそっと耳打ちしてくる。
「あなたはじゅうぶんすぎるくらいに頑張っています」
その手の大きさに、手のひらの温かさに、そして労るような静かな言葉に、体ではなく心のほうが震えた。
しばし感じ入ったようにじっとする。
「この手はなんですか? 動物を調教しているつもりか知りませんが、無礼なのは公爵のほうでしょう」
座席が浮くのを感じて目を開ければ、ディアルムドが席を立って父の手首を締め上げていた。
頭にきているのは父だけではなかったようだ。ディアルムドは笑みを消し、低い声で、しかしハッキリと言う。
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