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帝都の大学

沈黙の文字

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 寮の部屋に戻ったのは、辛うじて日付が変わる前だった。

 暖炉には熾さえも姿を消し、部屋は冷え切っている。

 寒さなどどうでもよかったと言えばよかったが、手持ち無沙汰でもあるし、この時間では湯殿は使えないので、暖炉の火を熾す作業にとりかかった。

 そうして熾した暖炉の炎で、悴んでいた手を翳して温める。

 薪を覆う炎。蠢くそれは、薪の表面を舐めていく。これよりも苛烈な炎に、キルシェは呑まれたのだ。

 苦いものがこみ上げてきて、リュディガーは暖炉から離れて椅子に腰掛ける。

 足を投げ出して深く座り、背もたれに身を預けるようにして、ずりずり、と身体が沈ませて腹の上で手を組んだ。

 ぱちん、と爆ぜた音に引かれて見やるのは、やはり暖炉の炎だった。

 最初は何だったか__とリュディガーはふと追想する。

 すれ違いに見かけて、振り向くつもりもなく振り返って、視線があって、お互い会釈したのが最初だったか。

 その後、弓射で落第しかける事態をどうにかしようと、朝の鍛錬を思い立って__そこで彼女を見かけた。

 あの横顔。

 見目麗しいだけでなく、悲しみと怒りを孕み、その更に奥底に別の何かが潜んでいるように見え、目が離せなかった。

 声をかけることさえ憚られる雰囲気は、荘厳の極みの如く。

 只の令嬢ではない、と思った。

 凛とした立ち居振る舞いは、武官さながらで__ある種の一目惚れだったのだろう。

 そんな彼女が、まさか自分の指南役を二つ返事で受けてくれるとは思いもしなかった。

 __あの……入院したときの夢……。

 指南役という立場もあって見舞いに来てくれたキルシェ。彼女にははぐらかしたが、鮮明に見た夢がある。

 先日の淫夢のような夢ではないものの、昏倒している間に見た夢では、何故か彼女がいた。昏倒している間の夢は覚えているからこそ、自分でも馬鹿らしいと思えたから、彼女には明かさないでいた。

 悪くない夢__穢れや瘴気に侵されたときに見る夢は、大抵が悪夢になるというのに、そうではなかったから不思議だった。

 毎日見舞いに来てくれる彼女は、父のことも気にかけてくれて、しかも彼女が見つけた影身玉かげみのたまという石のお陰で、自分は帰り着くことができたのだ。

 感謝してもしきれないのは当然。

 お礼で、蛍を観に行きたい、と言う彼女を連れて行った際のこと。

 彼女が飛んでいく蛍に手を伸ばしたとき、その先にある天空の月に吸い込まれて行きそうで、肝を冷やして無意識にその手を掴んでいた。

 月が零したような白銀の髪。

 冬の早朝の朝焼けのような、澄んだ空気の紫の瞳。

 白磁のような肌。

 どれをとっても、触れることさえ憚られるように見えていたのに、それに触れてしまった自分。

 その場は取り繕って、その観蛍の帰り。足を取られた彼女に腕を貸して距離が近くなったから、心臓が早鐘を打っていることをさとられないだろうか、と気を揉んだ。

「……彼女の導きで、弓射を無事に通過できた……」

 彼女がいなければ、弓射でひっかかった伝説の学生として、自分こそが自主退学を選んでいただろう。

 弓射を通過できた頃には、一緒にいることが当たり前だった。

 自分が懸想しているのだと、はっきり、と自覚したのは、強姦未遂があった日。消えそうなほど弱り果てた彼女を、腕に抱いたとき。

 穢されてはならない、掛け替えのないものなのだ、と痛感した。

 だが、事件の傷は早々に癒えるものではないから、気遣いこそすれ、彼女が気にしない程度になるべく普段どおりに努めていた。

 そうしていると、彼女は少しばかり自分を避ける態度に出たから、弱りものだった。

 そんな最中に遣らずの雨に見舞われた。

 水気を拭う彼女の、そこはかとなく漂う色香に目眩を覚えたものの、なけなしの理性で気持ちを抑え、避けている理由を聞いたが、彼女自身も想ってくれているらしいことに気持ちが春めいたのを覚えている。

 そして華奢な身体を抱き寄せて、彼女に口付けた。

 これまで生きてきて、あれほどの充足感を感じられたことがあっただろうか。

 その充足感に満たされていた部分が、今はぽっかりと何もない。何かが抜け落ちてしまったよう。だが、しこりのような、重みがあるようにも感じられるから不思議だ。

 つぅ、っと目尻から涙が流れ落ちて、リュディガーは無造作に拭った。

「渡せずじまい、だったな……」

 実のところ、耳飾りの片割れは見つけいた。

 偶然にもそれを見つけられたのは幸運としか言いようがなかった。

 腕のいい職人に修理を依頼していたのだが、彼女が去るまでに直せるかどうか、という状況だった。

 驚かせるつもりでいて、それを手渡すのと同時に、戻る必要がないよう求婚する心づもりでいた。

 結局彼女が去る方が早く、修理が間に合わないと知り、求婚だけして__渡せずじまい。

 まだ直ってはいないのだ。

 頼んだ職人は腕のいいことで評判で、他にも依頼物があって、後回し。まだかかる。

 遺族に渡すのが筋だとは思うが、どうにも彼女の養父という存在がリュディガーには信用ならない存在だった。

 渡したところで彼女はいない。

 宝石商であるから、金に替えることは造作ないだろう。躊躇いもないかもしれない。そう思ってしまうから、遺族である養父に届けるのを躊躇してしまう。

 __めぐり合わせが、悪すぎた……。

 とんとん拍子に整うこともあれば、これほど整いにくいこともある。

 はぁ、とため息を零し、姿勢を正して、椅子に座り直す__そこで机に並ぶようにある棚の、置かれた本の山に目が留まった。

 それはキルシェから譲り受けたもの。

 丁寧に使っていたらしく、目立った汚れはそれほどない。

 手を伸ばし、一番上の本を手に取ろうとするのだが、その際ばさり、と紙の束__便箋が床に落ちた。

 本を取ることをやめ、拾い上げるその便箋。

 この便箋を使い、実家の養父と交渉をしていたのだろう。

 それを避けて改めて本を__だが、そこでふとあることに気づいて、便箋を吟味した。

 便箋の表面。かすかに凹凸があるように見受けられた。

「……筆圧のせいか」

 彼女のことを思い出すに、そこまで強い筆圧で記していたように思えない。

「__リュ、デ……」

 暖炉の明かりにかざして凹凸をそこまで読んだリュディガーは思い立ち、暖炉へと歩み寄ると、炭の一欠を手にとって便箋の表面をなでた。

 すると見えてくるのは、鮮明な文字。

 __リュディガー
 __ごめんなさい。
 __私は、貴方に打ち明ける勇気がなかった。
 __私は、

 そこで終わる文字列。

「打ち明ける? 打ち明ける……」

 私は、で切られた文字。その先に何を書こうと__吐露しようとしたのだろう。

 怪訝に便箋を眺めていれば、かなり下の方にまだ凹凸があることに気がついて、さらに表面を炭で撫でていく。

 __私を見つけて

 その文字列を見て、リュディガーの心臓がひとつ大きくはねた。

「見つけて……?」

 その文字列を最後に、文字はない。

 __見つけて、とはどういうことだ。

 ふと、懐に忍ばせていた包みを取り出した。

 包まれている4つの遺髪。そのうちの銀色の髪。未だに見ると、動悸がしてくる。

「見つけて、とはこういうことではない、はず……だよな」

 死ぬことを覚悟していたわけではないだろう。

 彼女の死は、不幸な事故に違いないのだ。

 __貴方は、私の何も知らない。知らないままのほうがいい。

 彼女はそう言っていた。

 何を告げないでいたのだ。

 何も知らない、とは__。

 __言うに言えない事……?

「……故郷に帰っても、探してほしい、と……それが望みだったのか……キルシェ」

 真意の程はわからない。筆圧を見るに、苛烈な無念を感じ取れるだけだ。

 便箋に残された文字は感情を吐き出した際の偶然の産物で、彼女は残していくことさえ考えていなかったのかも知れない。

 手がかりとして残して言ったにしては、気づかれるように、という意図がまるで感じられないのだ。

 だが、どのみち、もう遅い。

「遅すぎ、た……」

 うっ、と喉の奥が引きつって、奥歯を噛み締めて堪える。

 堪えたいのに、堰を切ったように溢れてくる涙。

 __何が、龍帝従騎士団だ……。身近な者さえ守れず……。

 呆気なくヒトはいなくなる。そして、いなくなってしまえば、声はもう届かない。

 __身に染みて、わかりきっていたことじゃないか……。

 伝えるべきだった事。

 愚直すぎて、安っぽい、薄っぺらに感じた、全てを集約した、愛している、という言葉さえも。
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