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天つ通い路

遠い記憶 Ⅴ

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 かつての彼とは違って、そんなことだとは知らない自分は、ロンフォールに絆されてしまったのだと、思ってしまった。

 彼こそまさしく龍騎士、という印象だっただけに、衝撃的な再会だった。

 尊敬し、遂には心を通わせる仲になった彼だったから、なおのこと__。

 __……あの出来事が、耳飾りを失くしたあとでよかった……。

 遣らずの雨の中のこと。

 どうして得られるとおもってしまったのか、と後に詰った出来事。

 ロンフォールが、何をどう利用したことか。あるいは、彼が追ってきて、真実にたどりつくことを危惧して、何か手を回していたかもしれない。

 考え過ぎ、と思われる以上のことをしてくる__していたのがロンフォールだ。

 リュディガーの意見具申に対して、龍帝の手前、体よくおさめ、かつ忠誠具合を図るために婚姻を強いたような男。

 婚姻について、リュディガーも固辞しすぎることは間諜任務続行の弊害になりうると判断し、受けたのだろう。

 __常に、腹のさぐりあい……猜疑心の固まりが相手なのだから……。それに、結婚後だって……。

「__ぁ」

「ん?」

 マイャリスははた、と思い出し、仕舞っていた布製の小物入れを取り出して机に置くと、リュディガーの方へ示すように軽く押す。

「お返しします。すっかり機会を逃してしまって……」

 今度はリュディガーが怪訝にする番だった。

 小物入れを手に取り、中身を確認すると、リュディガーはわずかに目を見開いた。

 そして、小物入れを傾けて掌に中身を落とす。

 それは、金色の輝きの輪__婚姻の指輪である。

 州侯の施行した法や叙した勲位等は、吟味され直し、ほとんどが無効。そこには、この婚姻も含まれる。

 彼の任務の中で、やむを得ず負わなければならなかったのが、自分との婚姻だ。なまじ、不遇ということを知ってしまったから、意見具申をしてしまったが為に、かえって彼の自由を奪い、重荷になってしまった。

 どのような沙汰が下るにしろ、自分と彼との婚姻は、白紙にされて然るべき。

 彼には選ぶ権利がある__そう思いながら、馴染みつつ合った右手の薬指の、ない指輪の感触を確かめるように、彼の死角で擦った。

 __正直に言えば、少しばかり寂しい気もするけれど……。

 完全に浮かれていなかったと言えば、嘘になる婚姻だった。

 自分の中では、彼にはやはり幾ばくかの慕う心はあった__そう自覚させられた婚姻。

 しかも、彼はロンフォールに傾倒していたわけではなく、任務に徹していたと知った今では、昔の彼の部分を見られるようになって、奥底においやったはずの昔の想いが浮上してきている。

 __それは、私だけ。私の問題。

 彼には、間違いなく不本意な結婚でしかないのだ。

 現に目の前の彼は、手甲と手袋を外した手__指に、金色の指輪は嵌められていない。

 __自分の中で留め、終わらせるべきことだわ。

 指輪を見つめる彼の様子を、苦笑を浮かべて見守っていれば、彼が顔を上げる。

 そして、口を開くのだが、言葉は切れて出て来ず、さらに彼の視線も断たれてよそへと流れていった。

「__どうした、フルゴル」

 リュディガーが言葉を紡ぎ直して見つめたそこには、柔和に笑んで佇むフルゴルがいた。

「そろそろ、お夕食のお支度を。__リュディガーも」

「……私はそうしたのじゃなくていい、と言ったんだが……。クラインたちと一緒でかまわない、と。ホルトハウスさんも、それを承知のはずだが」

「あら、クリストフ・クラインたちと一緒でかまわない、と仰せでしたから、そのようになさってくれたのですよ」

「どういうことだ?」

 リュディガーが眉間に皺を深くすると、くすくす、とフルゴルは笑う。

「知らなかったのでしょうが、マイャリス様のご意向で、彼らはご相伴に預かっていたのです」

 なに、と驚いたリュディガーはマイャリスを見る。

「はい、そうしていました。不都合がないのであれば、と」

「ホルトハウスさんも、なかなかの策士ですね。__リュディガーの負けですよ」

 やれやれ、とリュディガーは天を仰いでため息をこぼす。

「さぁ、マイャリス様」

 はい、と促すフルゴルに答えて、マイャリスは席を立つ。その際、耳飾りを箱に収め直して、しっかりと手に持った。

「久しぶりに、これをつけてみます。__ありがとう、リュディガー」

「ああ。__では、後で」

 笑顔でうなずき、フルゴルに付き添われてその場を離れる。

 日は屋敷に入ったところで、山の影に隠れてしまった。

 このあたりの日没は、山の影もあってかなり早い。日が入れば、途端に寒さが襲ってくる。

 夕食の為の着替えの為、私室へ下がり、私室の窓から、木々の合間に辛うじて見える東屋を見た。

 あの後すぐに彼も離れたのだろう。そこには、リュディガーの姿も茶器もなかった。



 そして、いつものようにフルゴルによって髪を結い、化粧をして衣服を改める。

「__耳飾りは、そちらをお召でしたら、こちらを合わせましょう」

 言って、フルゴルは耳飾りに合わせた首飾りと腕輪を用意し、机に置く。そして、首飾りを取り出して首元の鎖骨に乗せて、静かに後ろで留め具をする。

 どうぞ、と腕輪を示されて、マイャリスはそれを腕に嵌めた。

 どちらも色味が耳飾りに使われている石の、最も薄い水色の石に近い色で、組み合わせても違和感がなさそうである。

「__こちらでよさそうですね」

「ありがとう、フルゴル」

 耳飾りの収まった箱を取り出して置いていると、鏡越しにフルゴルが一礼をした。

「それでは、私はこれで」

 マイャリスは箱に伸ばしていた手をおろし、椅子に座ったまま振り返る。

「後ほどお声がけをいたします」

「はい。__いつもありがとうございます」

 この挨拶の後、彼女は一旦下がる。

 そしてある程度、食事の支度が整うと、談話室へ移動を促すために呼びに来てくれるのだ。

 彼女が出ていった扉が締まってから、マイャリスは姿勢を戻して箱を開けて耳飾りを眺める。

 そして、宝飾品が収められたその机の引き出しから、別の箱を取り出した。

 その中身は、手元に残っていた耳飾りである。

 どちらも開けて、2つ並べて見比べる。

「……すごい……」

 思わず声が溢れるほど、直してもらった方の修繕に驚かされた。

 石の並びはもちろん、直されたことがわからないほど、手元のそれと見た目は綺麗__否、汚れを取っているから、寧ろ手元の見た目のほうが劣っている。

「……今度、どうやれば綺麗にできるか、フルゴルに相談してみようかしら」

 苦笑を浮かべ、まずは手元に残った方を耳にする。この耳飾りには、左右の決まりはない。

 そしてもう一方。

 その重さ__懐かしい。

 何度か鏡の前で首を左右に揺らして、重さに翻弄される耳の感覚を楽しんだ。

 童心にかえったように、心が躍る。

 フルゴルがいたら、笑われていただろう。

「本当に、嬉しい……。果報者だわ……こんな……こんなこと……」

 嬉々としているはずなのに、声が震えてくる。

 視界も滲んでくるから、慌ててハンカチをとって目元を軽く押さえた。

 嬉しいのに、嬉しいことには違いないのに、悲しい。

 悲しいのは、何故__。

 落ち着くまで深く呼吸を繰り返し、突然訪れた感情の波をやり過ごす。そうして、落ち着いたところで、はぁ、とため息をこぼして鏡を見た。

「何をしているの……泣く要素がどこにあるというの……」

 表情を引き締めてから、笑顔を作って自らを鼓舞した。

 マイャリスは席を立った。

 そして、窓辺へ歩み寄り、夜の帳が落ちて夜空を見る。

 先日の月蝕など、何事もなかったかのような星空。標高が高く空気が澄んでいるから、星の数がとても多い。

 あの夜とは違い、今夜はまだ月が顔をだしてはいなかった。

 冴え冴えとした空を見、鋭く寒い怜悧な空気を窓越しに感じて、マイャリスは踵をかえした__刹那、ぞくり、と全身に悪寒が走った。

 え、と驚くのもつかの間、脳天を突き抜けるような痛みに襲われ、膝から砕けて床に崩れる。

 力が入らない。

 何が、と思っていれば、身体の芯から末端に向け全身が熱くなった。その熱さ、まるで血が沸騰しているのではないか、と思えるほど。

 心臓がこれ以上ないぐらい拍動している。

 あの夜、ひたすら城を駆け抜けた時に匹敵するほどの拍動。あの強姦未遂のとき、暴漢から逃げようと駆け抜けた時に匹敵するほどの拍動。

 このまま破れてしまうのでは、と思えるほどのそれ。

 やがて、震えるほどの悪寒が襲う。__否、寒いのか、熱いのか。

 呼吸が浅くなる。

 苦しい。

 声も上げることができない。

 声を上げるよりも、呼吸を優先したいのだ。

 虚脱が進む。

 異常事態を知らせたいが、崩れたまま、床に張り付いてしまって動けない。

 四肢五体__身体はこれほど重いものだったのか。

 唯一動かせる目。

 しかし、その目が捉える景色も、ずるり、と滑って、いよいよ気持ち悪くなり、開けていられなくなる。

 __影身。

 脳裏にその言葉が浮かんだ途端、何かが弾けるような音がして、そこでマイャリスは意識が途切れた。
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