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天つ通い路

新しく、懐かしい回帰 Ⅰ

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 石造りの構造物は、堅牢で、威厳を体現しているように見えるのだが、一歩踏み入れば、外気とは異なってふんわり、と足元から温かい。

 朝夕の冷え込みが強くなってきた昨今、どうやら床下に煙を回してその熱で温める仕組みが活躍しているようである。

 懐かしさのなかに新鮮さを噛み締めて、時折去来する過去の光景を現実の景色の中に幻影として見ながら、本棟を歩いて巡り、それでは弓射の鍛錬場は__と思ったところで、見知らぬ女学生に呼び止められた。

「__復学された方ですよね?」

「はい」

 答えると女学生は、ホッ、とした表情になった。

「あの、ビルネンベルク先生がお呼びです。私室へ、と」

「そうですか。ありがとうございます」

 お互いに礼を交わして別れ、西の棟へと足を向けた。

 先程渡ってきた渡り廊下を進み、西の棟へと踏み入って階段を上り、担当教官であるビルネンベルクの私室へと至る。

「ビルネンベルク先生、参りました」

 扉をノックして声をかければ、入りなさい、と柔らかい口調の許可を得、扉を押し開けた。

 壁一面書棚の圧迫感。

 落ち着いた香の香り。

 久しく見ることも、嗅いでもいないそれらは、ひどく懐かしく、この部屋での多くの思い出が鮮明に想起された。

「どうしたのだい?」

 くすくす、と喉の奥で笑いながら言われ、我に返って部屋を見る。

 琥珀色の重厚な大きな机に部屋の主はいなかった。

「こちらだよ」

 さらに声がした方へ顔を向ければ、右手奥の暖炉前に置かれたソファーに、部屋の主が座っているのを確認できた。

 天を突くような、ぴん、と立った兎の耳__真紅の瞳を柔和に細め、手招きをしているビルネンベルクである。

 扉を静かに閉めてそちらへ歩み寄ると、テーブルを挟んでこちらに背を向ける形で置かれた三人掛けのソファーにすっく、と立ち上がる人があって、思わず足を止めてしまった。

「ぁ……」

 それは一般的な人よりも大きく、厚みがある体躯だった。

 榛色の髪の毛は額にかかることなく撫で付けるように整えられていて、遮られることのない双眸は、力強い眼差しの穏やかな蒼は紫みを帯びている。

 武人然として姿勢正しく立つ彼は、昨日夕食後に大学へ復帰した自分におくれること半日__今日から大学へ入ることになっていた。

 視線が、かちり、と交わった彼は、苦笑して肩を竦める。

「そう構えず、こちらへ」

 笑いを含んだ声でビルネンベルクに促され、示された三人掛けのソファーへと歩み寄り腰を下ろせば、それに合わせてお茶が新しいカップに注がれて前に配された。

 立ち上る湯気__香りは、以前ビルネンベルクが淹れよう、と宣言いていたお茶の香りで、それに気づいたのを悟った彼は笑みを深めて頷く。

「すまないね、朝食をとろうとしていただろうに」

「いえ、散策をしていて……」

「そうだったのだね。懐かしいだろう。__ほら、君も掛けなさい」

 はい、と歯切れよく答えた武人然とした彼は、もともと腰掛けていた隣へ腰を下ろした。

 彼の重さは、ソファーの座面がとても良く物語っていて、くすり、と笑ってしまった。

「__彼のことは、よく知っているね」

「はい」

「私が担当することになった学生なんだけど、これがまた不名誉なことに落第をした男なんだよ」

「くどいですよ、先生。落第はしておりません」

 いくらか渋い顔で言う隣の彼が面白くて、笑いを堪えてしまう。

「卒業取り消しだって、落第と変わらないさ」

「先生……」

 咎める声に、くつり、とビルネンベルクは笑う。

「__まあ、とにかく……君に来てもらったのは、彼の弓射の指南役になってもらいたいという打診なんだ」

「……え」

「それからもうひとつ。__彼とともに、冬至の矢馳せ馬の候補になってもらう」

 さらに続いた打診には、もはや決定事項の通達のような響きになっていて言葉を逸してしまう。

「まぁ、彼の場合は、矢馳せ馬をすることは確定事項なんだがね」

 ビルネンベルクは、優美な長い指先の手をひらひら、と振って笑う。

「なに、人数合わせで、それからただの体裁だよ。君は特異な立場から開放されたとは言え、帝国にとっては貴人に違いないのだから、最低限の警護はつけなければならないのはわかるね?」

「……はい……」

「天への示しでもあるのだから。そんな君の警護をする者を、どうして君から外してしまうのだい? 本末転倒というものだろう」

「それは……確かに」

 実感は本当にない。

 半日遅れて彼が合流することについて、大学側と警護を担う中央とで色々と意見がかわされた。

 準備にしばらく待てと言う中央だったが、新年でどうにか卒業したい当人と、それを叶えて卒業させたい大学側という思惑が関わっていることがあり、ビルネンベルクが全部の責任を負うから、ということで担当教官である彼とともに先駆けて大学へ復帰し、なるべくともに過ごすようにする、ということでまとめたのだ。

 __そういえば、クリストフが警護の中継ぎをしていたけれど……今朝はとんと見ていないわね……。

 彼はビルネンベルクの小間使いということらしいから、任務を終えて去ったのだろうか。

 挨拶もなし、というのは何となく寂しい気がするが、しょうがないのだろう。

「君を指南役随行という理由だけで、彼とともに向かわせるのは説得力に欠ける。だから、矢馳せ馬の候補という中央に行く口実があれば、十分だろう?」

 なるほど、と小さく納得した。

 すると、ふいにビルネンベルクが穏やかな笑みをたたえて、背もたれに身を預け、お茶を手にとった。

「……そうすれば、リュディガーがそばにいても、何の違和感もないし、なにより、君たちには一番よいだろう」

「よい?」

 小首をかしげて尋ねれば、ビルネンベルクはお茶を一口飲んだ。

「君たち、3年間を失っているだろう」

 ゆったり、とテーブルにカップを戻しながら、腹の上で手を組み、すい、と真紅の瞳が隣に座る彼へと向けられる。

「__3年前、ちゃっかり求婚していたような仲なのに」

 ぼっ、と顔が朱に染まったのがわかり、両手で頬を抑える。

「な、何故、そのことを……」

 心臓が早鐘を打つ中、絞り出すようにして問いかけると、ビルネンベルクは、くつり、と笑い、天を突く耳を指さした。

「いやぁ、この耳はレナーテル学長ほどではないが、地獄耳でねぇ。__北側の敷地だったかね、そんな会話がうっすらと、空耳かな、と思う程度に」

「ま、まさか……」

 動揺して隣りを見れば、隣りの彼は腕を組んで、不自然に視線を逸した。

 何故そんな動じないでいられるのか。表情に乏しい弊害故か__と怪訝にしていれば、ビルネンベルクが声を上げて笑うので、弾かれるように彼を見た。

「いやいや、すまない。冗談だよ、冗談」

「じょ、じょうだん……?」

 それにしても、具体的すぎやしないか。

「どうして、そこまで……求婚のこと、どうして、ご存知なのです……?」

「ああ、それはね、彼から聞いたからね」

 ビルネンベルクは視線で隣の彼を示す。

 再び見た彼は、腕を組んで渋い顔をして、どこか視線は睨めつけるようにビルネンベルクを見つめていた。

「お耳に入れた……の?」

「いやいや、イェソドからこっちへ来たとき、私が色々と吐かせたから」

「は、吐かせ……?」

「そうだなぁ……褒められない飲み方、というやつだよ」

 イェソドから帝都に移ったのは1週間前だ。その間、ビルネンベルクの邸宅で過ごしていて、彼もまたそこへ数度訪れていた。

「先生……酒豪でな……」

 心底うんざり、とするため息を吐く彼に、くつくつ、と人の悪い笑みを浮かべるビルネンベルク。

「君は、たしかに強いが……まぁ、私に酒で逃げられる訳がないんだよ。空上戸そらじょうごだとは、イェルクにもクリストフにも聞いていなかったらしいね」

「……ええ。お陰様で、適度さを見失いました……」

「だろうだろう。お陰で、色々聞き出せて、笑わせてもらえたよ」

 __色々……って……。

 何を聞かれたのだろう。

 どぎまぎ、していれば、ビルネンベルクは再びお茶を啜るので、喉の乾きを覚え始めた自分もまた手に取って口に運ぶ。

 そして、ほぼ空にする勢いで飲み、カップを戻そうとしたとき、ビルネンベルクがじぃっとカップの中を覗いて居ることに気づいた。

「リュディガーは日常を……ありきたりな日々を思い出す必要がある。常に緊張した非常時だったのは言うまでもないし……現に、表情も減っている。__そんな彼には、間違いなく君がなるべくそばに居るほうがよい。それは、空白の時間を埋めるのにも、ちょうどよいだろう?」

 ビルネンベルクは言って、穏やかな笑みを向けてくる。

「__もう少し、こう彼の反応がないと……。今の彼を可愛がるのは物足りないのだよ」

「またそのような物言いを……」

 リュディガーが渋い顔で抗議すれば、くつくつ、と人の悪い笑みを浮かべるビルネンベルク。

「話は以上だ。__承知してくれたかい?」

「はい、承知しました」

 よかった、と破顔するような笑みを浮かべ、ビルネンベルクが席を立つ。それに倣って2人も立ち上がった。

「では、改めて、自己紹介を」

 きょとん、とすれば、隣で咳払いが聞こえ顔を向ける。

「リュディガー・ナハトリンデンです」

 覇気のある歯切れのよい自己紹介をする彼の表情。いくらか口元が笑みを湛えているように見えた。

「マイャリス=キルシェ・コンバラリアです」

 それが自分で選んだ名前。

 その名に決めたことを、彼はこのとき初めて知っただろう。一瞬、面食らったのがその証左。

「先生には、キルシェと呼んでいただいているのですが……お好きなように」

 くすり、と笑って手を差し出すと、リュディガーは手をとって握った。

 大きく、分厚く、無骨な手。

 節くれだった、胼胝がある武人らしい手。

 いつかの__初対面のときそうしたように、握手を交わす。

「__よろしく、キルシェ」

 やはり、彼の口でそう呼ばれると、しっくりするから不思議だ。

 畏まった様子であるが表情は明るく穏やかで、キルシェは自然と笑みがこぼれるのだった。
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