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彼女

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 ディルはモテないわけじゃない。むしろモテる。だが、今までずっとその気になれなかった。初恋の女性が傍にいて毎日厨房で輝いているのに他の女性に心惹かれるなんてあるわけがなかった。だから客として来た若い女性に誘われてもやんわりと断り続けていたのだが、それも考え直す日がやってきた。

「いいよ」

 そんな返事をする日が来るとは想像もしていなかったし、目の前で喜ぶ自分よりほんの少し年上の女性を見ながら本当にこれでいいのかと自分に問いかけてみるも答えは出ない。
 いいわけないだろと怒る自分がいるし、これでいいんだと甘やかす自分もいる。だから今回は甘やかしてくれる悪魔に気を許すことにした。

「今までずっと声かけ続けたのに断られるんだもん。地味に辛かったんだから」
「ごめんね」

 自分より小さな女性を隣に置くのは妹以外は初。甘ったるい猫撫で声で腕を組んでくる相手にどうしようと焦ることはなかった。ディルの客の中には少ないが女性もいる。エスコートの仕方はその人たちに教えてもらった。だから回された腕に手を添えてポンポンと軽く叩く。それだけで女性は嬉しそうに笑う。

「私のことはルーチェって呼んでね。ルーチェさんはダメ」
「わかったよ、ルーチェ」
「ふふふっ、よろしい」

 好きになった相手が答えてくれることほど嬉しいことはない。付き合ってと言い、それに「いいよ」と返されるだけで舞い上がるほど嬉しい。それはディルも何度も妄想の中で経験した。だからルーチェが浮かれているその感情がよくわかる。
 腕にしがみつくように抱きついてくるルーチェの胸が当たり、その柔らかさに思い出すのはジルヴァに抱きしめられた子供時代のこと。鍛えすぎているせいで柔らかい部分など一つもない、ムダのない身体をしたジルヴァに女性らしい柔らかさはなかったが抱きしめられているというだけで幸せだった。
 ジルヴァが女性らしくなかろうとジルヴァは人を惹きつける。風に揺れる長い髪も柔らかな身体も甘い声も愛らしい笑顔もないが、ジルヴァは誰よりも輝いているからジンもアルフィオも惹きつけられた。そしてディルもそう。
 首に腕を回してくる女性の積極さに驚くこともなく、ディルは客を取ることで色々なことに慣れすぎてしまった。ジルヴァにはバレたくないから教えこまれた技は何も披露できないが、ルーチェなら大丈夫。バレたくないのは同じでも気付きはしないだろう。そんな風に考えていた。

「明日はランチから出るの?」
「明日はディナーからだよ」
「じゃあデートしよ!」
「いいよ」

 休みの日はジンに把握されているため休みの日は朝から客の予約を入れられてしまうためデートはできない。
 彼女ができたことをジンに報告すべきだろうかと考えるが、きっとこれもすぐに把握される。そしてあの気味の悪い笑みを浮かべて「こっちが優先だからな」と念を押す。店、恋人、男娼。店と男娼だけでも身体は根を上げることもあったのに、恋人を作ってそこに今まで休んでいた時間を割いてやっていけるのだろうかと不安もあるが、ジルヴァへの恋心をなくすためには仕方ない。
 好きだと言い合えばきっと暗示がかかってルーチェのことを好きになる。好きになったらそのうち結婚だって考えるはず。だが、もしこのまま結婚したとして、ジンはそれを理由に解放したりはしないだろう。
 ディルは男娼として稼ぎが良い。客があとでゴネないように前払い制を取っているジンは売り上げのいくらかを持っていく。いつもディルに『お前のおかげで今月も潤った』と笑う。それを結婚を理由に手放しはしないだろう。彼が純粋な笑顔でおめでとうを口にして拍手と共に見送るなんて想像できない。結婚したことでジルヴァへの気持ちはもうないと判断して諦めてくれればいいが、ルーチェを好きになったからといってジルヴァを解放するとは思えない。それどころか更に脅しは強くなるはず。母親を見殺しにしたことをルーチェにバラされたいのかと。
 この街で倒れている人間を助けず見殺しにする話など珍しくもないことで、開き直ってしまえばいい話なのだが、やっぱり誰にも知られたくない。だからなんだよとジルヴァのように誰にでも強く言えるほどの勇気がディルにはないのだ。
 どんなに汚れても今の場所だけは失いたくない。あそこがなくなればディルは心の支えを失う。客を取るだけの毎日に足を踏み入れれば妹たちに笑顔を浮かべられなくなってしまう気がする。それが容易に想像できてしまうのだからディルは恐ろしい。

「どこか行きたい場所決めておいて」
「いっぱいあるの。だからいーっぱい付き合ってもらうからね」
「仰せのままに」

 デートなんてしたことがない。客とはすぐに宿に入ってしまうため街をぶらつくこともない。ぶらつく目的がないし、ぶらついてディルがねだれば客はそれを買わなければならない。ただでさえ安い金は払っていないのだ。そこにプラスの出費はアルフィオのように余裕がありすぎる人間でなければ街をぶらつくことにメリットはない。
 真昼間から女性と街を歩くのは店の買い出しに付き合ったとき以来。ジルヴァに『これってデートだよね』と言うと『買い出しをデートに思えるとは幸せな脳してんなぁ』と笑われた。

「あ、笑ったー! ディルって笑うと可愛いよね」
「え、そう?」
「お店でもよく笑うけど愛想笑いって感じだったから、そういう笑顔が見れて嬉しい」

 思い出して笑っただけなのだが、ルーチェにとっては嬉しかったらしい。ジルヴァとの思い出にほんの少し浸るだけで笑顔になれるほど幸せなものだかり。そんな状態で本当に忘れられるのかという不安はあれど、ディルは結婚するジルヴァの後ろを幼子のように追いかけ続けるのはやめると決めた。ルーチェには悪いと思いながらも試みることにした。


「まだ買うの?」
「こんなのまだまだ! あっちも行くよ!」

 ディナーの時間までデートすることにしたのはいいが、今のところ、デートというよりは荷物持ちのような役割にしか感じていない。名家のお嬢様というわけではないのに好き放題買い物ができるだけの潤沢な資産があることに驚いている。
 妹たちにもこんな風に買い物ができるだけの金を渡してやりたい。「もう欲しい物ない。全部買ったもん」と生意気なことが言えるだけの金を。
 引っ越しの資金とは別に衣食住の心配なく過ごせるだけの資金を手元に置いておきたい。そのためにはもっと稼がなければならない。
 ジンが言う『若さはそれだけで価値になる。これだけ稼げるのも今だけだぞ』がずっと頭に残っている。十五歳。来年には十六歳になって成人を迎える。客を取るようになってわかったことは客たちにとってディルは「未成年だから意味がある」ということ。来年、ディルは未成年ではなくなる。それは妹たちと暮らしていく上では最高だが、客を取る上では最低になる。来年からどれだけ稼げるかはディルの力量次第。今ほど楽ではないことだけは想像に難くない。

「ディル!」

 溜息が出そうになったとき、愛らしい声に名前を呼ばれてハッとする。

「もー! 私の話ちゃんと聞いてた?」
「聞いてたよ。向こうの通りに美味しいドーナツ屋さんができたんだよね」
「聞いてたならちゃんと相槌打ってよ。ムシされてるみたいで悲しいよ」
「ごめんね。ルーチェが可愛い声で楽しそうに話すから自分の声で邪魔したくなかったんだ」
「もー……上手いんだからぁ。でもそれなら許してあげる」
「ありがと」

 風が吹くとふわりと揺れるウェーブのかかった髪。そこから香る良い匂い。切り傷も火傷もない綺麗な手の指は細く小さい。施された淡いネイルがよく似合っている。青空の下を歩くのによく映える白のワンピースとリボンがついたローヒールの靴。煙草の匂いもしないし、足を擦って歩くこともしない。小さな鞄の中に財布を入れて、ポケットに直接お金を入れることもない。自分から話を振らなくても話題が切れることもない。何を考えているのかわからない表情から読み取る必要もない。楽なものだ。
 ジルヴァもこんな風に考えていたのだろうか? 自分が話さなくても勝手に話す男を相手にするのは楽だと。
 相手の考えていることなんてわかりもしないのに勝手に想像して気分が落ちる。
 目の前で大きな目を瞬かせて長いまつ毛を揺らす彼女に微笑みながら無意味な相槌を何度も打つ。穏やかな時間が流れる中、ディルの心の中までは穏やかにはならなかった。

「ん? あれって……」

 一人の男が向かいのカフェのテラスにディルを見つけた。向かいには愛らしい女性。まさか、と道路を渡って近付いていく。

「あら、やっぱりディルじゃな~い。だと思った。アンタ、可愛い顔してるから向かいにいてもわかったわ」
「デイヴ!? あ、今日休みか!」

 普段は力持ちで頼りになるデイヴだが、プライベートでは女性っぽくなる。あまりプライベートに遭遇することはないため久しぶりだが、違和感はない。筋骨隆々なのにと面白くもある。

「……彼女?」

 聞くまでに間があったのは先日の話のせいか。怪訝そうな顔はしていないものの、何か思うところはあるのだろう。

「そうだよ。昨日、付き合うことになったんだ」
「ジルヴァには言ったの?」
「まだ言ってない」
「そう。ま、アンタのペースでいいわよね」
「うん。ちゃんと言うから」
「待ってるわ」

 昨日付き合ったばかりの彼女を皆に紹介しなければという意識はなかった。それなりの日数付き合って上手くいってると確信してから言うつもりだったのだが、まさか初デートで見つかるとは思っていなかった。
 でもデイヴはオージとは違う。自分のペースでいいと言ってくれたことに感謝した。
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