【R18】Life Like a Ring

深山瀬怜

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第5話 トラロープ・2

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 暫くそのまま眠ってしまっていたが、誰かの足音で目を覚ました。もしかして宅配便の類だろうか。もしそうだとしたら私が受け取っていいものか。悩んでいるうちに足音が止まり、鍵穴に鍵が差し込まれる音が聞こえた。もしかして遼が帰ってきたのだろうか。でも今は午後二時。仕事が終わったにしては早すぎる時間だ。でも忘れ物を取りに帰ってきたとかそういうことはあるかもしれない。
 そのまま待っているとドアが開く。現れたのは見知らぬ女性だった。胸あたりまでの長い髪。オーバーサイズのフーディーに黒のスキニーというシンプルな服装。その人は私を見つけて、当然の疑問を口にした。
「誰?」
 沈黙の時間が流れる。誰、と言われても、説明して理解してもらえるとは思えない。そもそも彼女が誰なのかもわからない。どうしようかと考えていると、彼女は不機嫌そうに荷物を下ろしながら続けた。
「私はここに住んでる人の――妹だけど」
 ああ、そういえば遼が以前妹がいると言っていた。今は大学生だとも言っていた。大学生なら、講義がなければこのくらいの時間に現れても不思議ではないのかもしれない。けれど遼が言っていた日とは違う。私が何も答えずにいると、彼女――笹森詩乃は、大きく溜息を吐いた。
「事と次第によっては、兄かあなたのどっちかを通報しなきゃいけなくなるんだけど」
「あ、あの……私は、今井絵美です。お兄さんとは――」
 どう説明すべきか。猫のことを言うわけにもいかない。私が言い淀んでいると、詩乃は返事を聞く気があるのかないのか部屋の中を見回していた。
「どういう事情があるかは知らないけど……誘拐されたとかそういうのではないよね?」
「それは違います!」
「ならよかった。いや、未成年を部屋に入れている段階でちょっと思うところはあるけど」
「あ、それは……今日は私の意思でここにいるので」
 さすがに誘拐犯だとして通報されてしまっては困る。そこだけは否定しなければならなかった。
「自分の意思、ね。まあ色々気になるけど……今日は物を取りに来ただけだから」
「物、ですか」
「そう。表紙が水色のノートなんだけど……知らないよね?」
 水色のノート。詩乃が言っていたノートがそれなのかはわからないけれど、見たことはある。私は足許にあるマガジンラックからそれを取り出した。
「これのこと、ですか……?」
「ああ、それ。何でか知らないけど勝手に持ち出されてて」
 つまりこのノートは遼のものではなく詩乃の物だったということだ。そして私はノートの中身を知っている。ノートを鞄にしまおうとしている詩乃を私は思わず呼び止めた。
「……少年事件について、調べてるんですか?」
 詩乃の動きが固まる。しかしその数秒後に、詩乃はどこか諦めたように笑った。
「見たんだ、これ」
「あの……すいません。遼さんのものかと思って」
「まあこんな堂々と出してたんじゃ見られても仕方ないか。でも、お兄ちゃんの物だと思って見たってことは……これ見て何も思わなかったの? 例えばその――この人と関わって、何かされるんじゃないかとか」
 私は首を横に振った。むしろそのノートがあったから、私は遼を信用することが出来た。少なくとも私を頭ごなしに否定したりはしないと思ったから。でもノートの所有者が詩乃なら、話は少し違ってくる。
「今から話すのは全部私の推測だから、違ったらすぐに否定して欲しいんだけど」
 私は詩乃の言葉に首を傾げた。一体何を話そうというのだろうか。
「ここに来る途中、猫の死体を見つけた。頭の上に白詰草の花冠が乗せられていて……死体を飾るような人間がこの近くにいるのかと少し驚いた」
「……はい」
「あなたがやったの?」
 単刀直入に聞いてくる。けれど証拠は何もないのだろう。本人が全部推測だと前置きしているのだから。けれど気になった。初めて会うはずの私が犯人だとどうしてわかったのか。何故、そんな推測が出来たのか。
「どうしてそう思ったんですか?」
「兄がどうしてあなたを家に入れたのか考えたのと、あなたがどうしてこのノートを見ても兄を信用したのかを考えた。証拠はないけどね。あなたが兄を信用したのは、こんなノートを作るような人が自分をいきなり警察に突き出すようなことはしないと思ったからじゃないかと思って」
 私は頷いた。ここで誤魔化しても意味がないだろう。詩乃はノートをテーブルの上に置く。
「こんなものを作ってるから……私はあなたがどういう状態にあるのか、少しはわかってる。あなたもこれを見たってことは……いや、中身を熟読したかどうかはわからないけど」
「全部読みましたよ。五年前くらいに起きた少年事件。――少年は、通りすがりの子供を殺してしまう前に、度々動物を殺していた」
 今の私と同じ状態だ。だからこそ詩乃は、おそらく遼も、私の未来がどうなるか予想できている。きっと私はいつか人を殺す。今はまだ動物で抑えられているだけで、それでは足りなくなってしまったら――自分でもその未来は容易に想像がつく。
「だから、もしかしたら遼さんは、私がそうなる前に止めようとしてくれてるんじゃないかって」
「……そんな人じゃないよ」
 暗い声に、私は驚いた。私からすれば遼は本当に優しい人だった。この家を自由に使わせてくれることもそうだし、私のことを否定しないでいてくれた。何より私を問い詰めないでいてくれたのだ。
「少なくとも親切心ではないと思う」
「どうしてそう思うんですか?」
「……お兄ちゃんは、あなたが思っているよりずっと、どうしようもない人だよ」
 蔑んでいるようで、何故か温かさも感じる、不思議な言い方だった。詩乃はキッチンの扉を開けて、まるで自分の家にいるかのような態度で紅茶を淹れ始める。電気ケトルのスイッチが入る音を、私は緊張しながら聞いていた。
「今の段階では何も起こってないんだろうけど……このあとのあなたの安全を私は保証できない」
「私の、安全……?」
「お兄ちゃんがあなたに何もしないとは言ってあげられない」
 詩乃は遼の何を知っているのだろう。私が知らない彼を沢山知っているのは間違いない。けれどそれがどんなものなのかはわからなかった。
「でも、今のあなたがこの場所を失ってしまうのが危険だということも……何となくわかる。あなたの意思でここにいるとしても、兄がやったことを糾弾して通報することは出来る。だけどそうすれば、あなたの唯一の居場所が奪われることもわかる。それが予想できるくらいの知識はある」
「私は……ここにいたいです。家にも学校にもいたくない。遼さんだけが……私を私のままで受け入れてくれた。どんな目的があったとしても、それは事実です」
「わかってるよ。だから……どうすればいいのか、正直わからない。このまま放っておくわけにはいかないけれど、自分の後ろ暗いところを知っていて否定しない人がいる安心感も知ってるから」
 詩乃は二つのマグカップに紅茶を注ぎ、そのうち一つを私の前に置いた。柔らかい笑顔は私を安心させるためのものだろうか。改めて遼と詩乃は兄妹なのだと思った。どことなく雰囲気が似ている。
「紅茶、ちょっと多めに淹れちゃったから」
「ありがとうございます。いただきます」
「まあ全部私のじゃないけど」
 華やかな香りがする。それを飲むと少しだけ顔が熱くなったような気がした。
「……私は、最初は単なる興味本位だったんだ。私も人を殺したいと思うことはあって、異常だと言われている犯人と私は、実際に人を殺しているかいないか以外にはあんまり違いがないように思って。調べていくうちに、本当に対した違いはないって確信が強くなっていった」
 詩乃が落ち着いた声で話し始める。低くて、少しだけ掠れていて、耳に残るのに優しい声だと思った。
「人を殺す人間とそうでない人間の差なんて、世間の人が思っているほどにはないんだよ。私も……誰だってそうなる可能性がある」
 けれど、この人は猫を殺したりはしていないのだ。私は紅茶の表面に映る自分の顔を見つめながら言った。
「時々、赤い靄みたいなものが目の前に広がってしまうときがあって……そうなると、自分でも自分を止められないんです。このままだと私は、きっと人を殺してしまう」
 人殺しになりたいとは思っていない。いや、本当は動物を殺すのだってやめたい。けれど大人にそれを相談したら、軽蔑されたり怒られたり、異常者として扱われるのではないかと思っていた。少なくとも私の親はそうするだろう。でも、遼と詩乃は違う。だからこそ本当のことを話すことが出来る。
「私は記事を集めてるだけで、専門家でも何でもないから……どうすればいいとか、そういうことは言えないんだけど……でも、あなたが今の状況から抜け出したいと思うなら、私はできる限りのことはしたい」
「でも、どうして……詩乃さんは私とは何にも関係ない人なのに」
「お兄ちゃんが関わった段階で完全に無関係とは言えなくなってるでしょ。それに……ずっと考えていたことの答えも、あなたを見ていたら見つかるかもしれない」
「ずっと考えていたことって?」
「人を殺す人間とそうでない人間は何が違うのか……私が知りたいのはそれだけ」
 私と詩乃はきっと少し似ているのだろう。知りたいという根底にある気持ちが何なのか、言われなくても理解してしまう。その透明な水に一滴だけ落とされた黒い雫のような感情は私にも覚えがあるものだ。
 これは希望的観測かもしれない。けれどもしかしたら、遼は詩乃を救いたいと思っているのではないか。そんな気もした。でも詩乃に言わせればそれは違うのだろう。そう断言するだけの何かがあるのだろうが、それは私にはまだわからなかった。

 詩乃と話をしているうちに時が過ぎて、家に帰らなければならない時間になった。立ち上がって帰ろうとすると、詩乃が私を呼び止める。
「……家に帰りたくないなら、ここにいてもいいけど。いや、まあ私の部屋ではないんだけど」
「大丈夫です。ここにいられるだけで、少しは楽になるので」
 詩乃は一瞬何かを言おうとして迷っているようだった。私のことを気遣っているのだろうか。本音を言えば、ここにはあまり来てほしくないのだろう。でも私が私でいられる場所がここしかないこともわかっている。
「……良ければだけど、連絡先交換しない?」
「え?」
「お兄ちゃんのことで何かあったときとか……いや、それ以外にも、何か私に言いたいことがあったら、いつでも連絡してくれていいから。スタ爆とかしてくれても」
「私、スタンプあんまり持ってないんですよね」
 それを使ってやりとりができるような相手がいない。でも詩乃が不器用ながらも冗談を言っていることは何となく理解できた。
「何もなければそれでいいんだけど……このまま何もないとは思えないから」
「詩乃さん……」
「私に何が出来るんだって自分でも思うけど、でも、話を聞くことくらいは出来ると思うから」
 私は詩乃の言葉に頷き、遼の部屋を出た。アパートの階段を降りるとき、何故か後ろ髪を引かれるような思いがして、私は何度も振り返った。

 私はいつか人を殺してしまうかもしれない。
 心の中に広がっていくその不安が、私たちを繋いでいるような気がした。
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