【R18】Life Like a Ring

深山瀬怜

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第6話 コーヒーメーカー・1

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 部屋の明かりが点いていた。絵美が俺の部屋にいるのは大体俺が家にいない時間が多かった。仕事が終わって家に戻ると、誰かがいた気配だけが残っていて、でも部屋は綺麗に片付いている状態になっていることがほとんどだった。家に帰りたくはないのだろうが、親に怪しまれないような時間には家に戻っているらしい。
 だからこの時間まで部屋に明かりが点いているのは珍しいことだった。何かあったのだろうか。それがもし俺以外の人間を殺したという最悪の結末だったら嫌だ。絵美からしてみれば身勝手なことを考えながらアパートの階段を昇る。
 郵便受けに隠している鍵を使って鍵を開ける。玄関には普段絵美が履いている運動靴とは違う靴があった。靴を変えたのだろうか。でもその靴にも見覚えがある。俺の疑問の答えは、その次の瞬間にあっさり明らかになった。
「――何でここに」
「うちに合鍵置いてあったんだから、やろうと思えば入り放題でしょ」
 でも、詩乃がここに来ると言っていたのは土曜日の予定だったはずだ。今日は木曜日だ。たまたま今日は仕事が早めに終わったからこの時間に帰ってきたのだが、そうでなかったら俺が戻るまで待つつもりだったのだろうか。
「ていうか、人のノートをパクっといて『何でここに』も何もないと思うんだけど」
「……土曜日に取りに来るつもりかと思ってたんだけど」
「本当は、お兄ちゃんがいない間にノートだけ取り返して帰ろうと思ってた。あとこれ、借りパクしてるのもどうかと思ったから」
 その折り畳み式定規には見覚えがあったが、おそらく詩乃に貸したまま二人とも忘れてしまったのだろう。普段の生活であまり使わないから、それがないことにも気付かなかった。
「帰ろうと思ってたのに、何で帰らなかったんだ?」
 それは、期待してもいいのだろうか。
 詩乃にとって自分は特別なのだと、どうでもいい誰かではないと、思ってもいいのだろうか。しかし帰ってきたのは明らかに苛ついていることがわかる低い声だった。
「――ここに中学生の女の子連れ込んで、一体何を考えてるの?」
「絵美に会ったのか」
 土曜日は避けてほしいと言ったが、詩乃が別の日に予告なしで現れることは予想できなかった。鉢合わせてしまったのだろう。俺は仕事用の鞄を片付け、着替えをしながら答える。
「他に行くところがないみたいだったから、だったらここに来ればいいって言っただけだよ」
「……お兄ちゃん、私のノート見たんでしょ?」
 着替えを終えた俺は、机の上のアクセサリースタンドから指輪を取り、それを右手の人差し指につけた。いつも通りの俺の動きを注視している詩乃の鋭い視線を感じる。
「そんなに熟読はしてないけど」
「人を殺すような事件を起こす前に動物で同じことをしていた人は少なくない。わかっててやったんでしょ?」
 絵美が何をしていたかも、既に知っているのか。絵美が話したのか、それとも詩乃が勘付いたのか。詩乃には隠す必要もないことだが、絵美を引き込んだ本当の目的を詩乃に知られると良くないかもしれない。
「家にも学校にも居場所がないらしいから。だったら昼間は誰もいないわけだし、いいかなって思っただけだよ」
「いや、だとしても男の一人暮らしの部屋に女子中学生を入れないでしょ。状況だけ見たら完全に犯罪だよ」
 それはわかっていた。絵美に接する理由が全て善意だったとしても、俺がやったことは正しくはない。本当なら然るべき機関に相談すべきなのだ。何よりも絵美は既に動物を殺すという罪を犯しているのだから。
「でも、あの子を通報したとして、あの子が救われるわけじゃない」
「少なくとも専門家の手には渡るよ」
「その専門家がどれだけ役に立つんだ?」
「それは……」
「あの子がやっていることがあの子の親に知られれば、おそらくはもっと悪いことになるだろう。そういうときにその専門家はあの子を守れるのか?」
 詩乃は口を噤んだ。詩乃も一般的に正しいとされる方法をそこまで信じ切れてはいないのだ。
「現状を少しだけ良くする方法で、俺が出来ることはそれだけだったってだけだよ」
「本当にそんな、善意だけでやったことなの?」
 詩乃の疑いは正しい。俺を疑うに足る十分な根拠があることはわかっている。俺は詩乃の視線を躱しながらコーヒーメーカーに水を入れた。
「何が言いたいんだ?」
「別に……ただ、お兄ちゃんがあの子を助けたいからやっているとはどうしても思えなくて」
 善意ではないとわかっているけれど、本当の目的が何なのかも掴めてはいないといったところだろうか。フィルターをセットし、分量通りのコーヒーの粉を入れ、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。張り詰めた静かな空間に、機械の大きな音が響き始めた。
「――それは詩乃の方なんじゃないのか?」
「え?」
 いや、まだわからない。
 詩乃はこの状況での正しい対応を知っている。でも正しい方法がわかっていながら、間違った方を選ぶことだってあるだろう。少なくとも今の段階で絵美のことも俺のことも通報していない時点で、詩乃のやっていることが正しいとも言えない。
「俺のことを見てるんじゃなくて、鏡越しの自分を見てるんじゃないのか?」
「どういう意味?」
「どこかで、『このまま絵美が人を殺せばいい』って思ってるから、そんなことを言うんじゃないのか?」
 コーヒーの黒い雫が落ちていく。溜まっていく液体は、俺の心に蓄積していった何かにも似ている気がした。
「それとも、自分の知識で他人を助けてみたいと思ってるとか?」
「……そんなこと」
「本当に? 今までニュースや新聞記事だけで見てきた、興味を持って集めてきた人たちに一番近い人間が目の前に現れて、嬉しいとは思わなかったのか?」
「違う、私は」
 コーヒーが完全に落ちきって、電源が自動的に切れた。出来上がったコーヒーをマグカップに入れて、ソファーの前のテーブルに置く。
「このまま絵美を見ていたら、もしかしたらどうすれば動物を殺すところから人間を殺すところに到達するのか、その過程を見られるかもしれないもんな」
「そんなこと、私は考えてない」
 詩乃の瞳に怒りの色が滲む。俺を睨む視線は紫電のような烈しさをもっていた。そう、そのまま俺に対してもっと怒ればいい。凶器ならこの家にも沢山ある。テーブルの上に置いてある筆立てにはカッターナイフが刺さっているし、絵美が好みそうな鋏も置いてある。そもそも詩乃が俺のことを殺してくれるのなら、保険である絵美は解放されるのだ。絵美を俺の手から助けたいと思うなら、さっさと俺を排除すればいい。
「……お兄ちゃんこそ、鏡越しの自分の見てるんじゃないの?」
「そうかもしれないな。少なくとも善意だけじゃないってのは当たってるよ」
「だったら変なこと言わないで、さっさと認めればよかったのに」
 この回り道は必要なものだった。詩乃を苛立たせることには成功しているのだから。俺は表情の変化を悟られないようにコーヒーを一口だけ飲んだ。
「で、何が目的なの?」
「何だと思う?」
「答える気がないならもういい」
 茶化すように言うと、舌打ちとともに低い声が返ってくる。苛立ちを滲ませる詩乃の横顔を俺は横目で見た。普通にしていれば、作り物めいた、と形容できるほどに整っているその顔は、今はとても人間的な物に見える。このまま俺を殺してくれたら、どれだけ幸せなことだろうか。
「――詩乃」
 詩乃が俺の方を向いた瞬間に、その顎を捕らえる。無理矢理その唇を奪いながらソファーの上に押し倒すと、詩乃が俺の腕に爪を立てた。綺麗にマニキュアを塗った爪と、手の甲に浮かび上がる骨の形。この手に首を絞められる瞬間は、どんなに甘美な時間だろう。早くここまで堕ちてくればいい。指輪を外してから、俺は汚れを知らないような詩乃の白い肌を指でなぞる。
「一人でここに来て、こういうことになるとは思わなかったのか?」
「……あの子がいなければ、お兄ちゃんが戻ってくる前に帰るつもりだったよ」
 つまり、今日たまたま絵美が来てくれたおかげで詩乃はここにいるということだ。想定外の事態ではあったが、絵美はいい働きをしてくれたと言える。
「そんなに絵美のことが気になったのか?」
「当たり前でしょ。あれをスルーして帰るとか無理だから」
「それで、このあとはどうするつもり?」
 服の上から胸の膨らみに触れ、指に軽く力を入れる。相変わらず詩乃は俺を睨んではいるが、抵抗する力はそれほど強くはなかった。詩乃は一瞬乱れた呼吸を隠すように、自分の口を自分で塞いだ。
「どうするって、何」
「他の人に言ったりするのかなって」
「それは……っ」
 服の下から手を入れ、片手で下着の金具を外す。詩乃の漏れる吐息に熱が宿り始めた。
「言ったら、間違いなく俺は破滅するんだろうなぁ」
「お兄ちゃん?」
「それはそれでいいのかもしれないけど、やっぱり」
 欲望の炎に頭を炙られて、口が滑りやすくなる。俺は言葉を途中で切って、詩乃の服を捲り上げて、露わになった乳首を唇で挟んだ。
「っ……なに、考えてんの」
「聞くだけじゃなくて、少しは自分で考えてみろよ」
 そして答えが出たなら、それを実行してほしい。俺が望んでいるのはそれだけなのだ。
 刺激に反応して存在を主張し始めた胸の先を舐めながら、黒いスキニーのボタンを外す。飾りの少ない淡い緑色の下着の中に手を入れると、詩乃が左手で俺の手首を掴んで首を横に振った。けれどそれには構わずに、敏感な部分に指を伸ばす。
「嫌がってるわりには、反応してるみたいだけど?」
「最低……っ」
 その場所は熱を持って、俺の指をするりと迎え入れた。少し動かすだけで濡れた音が響く。誤魔化しようのない事実だ。小さく笑ってやると、詩乃は歯噛みして顔を背けた。
「俺がいない間、どうしてたんだ?」
「……別にどうだっていいでしょ」
「俺はずっとこうしたかったけど」
 絵美に対しても同じことをするかどうか、考えたことはあった。けれど積極的にはなれなかった。絵美はあくまで保険だったし、殺されるところが上手く想像できなかったからだ。けれど詩乃に対してなら、まるで現実に起きている出来事のように鮮明に想像することが出来る。
「っ……ほんとに、やめ……!」
「それだけ感じておいて、何言ってんだよ」
 嘲るように言う。詩乃の右手がそれに反応して動くのがわかった。詩乃自身の意思でも完全に制御は出来ないその手。俺にとっては何よりも美しい指が、俺の首筋に伸ばされる。
 時間が止まる。その指先は少し冷えていた。やっと待ち望んでいた瞬間が訪れた喜びで、心臓がうるさいほど鳴り響いている。
 けれど、詩乃はその指に力を込めることはなかった。
 詩乃の大きな目が見開かれている。一体何にそれほど驚いているのだろうか。力が抜けていく詩乃の手を掴むと、詩乃が口を開いた。
「……何で、笑ってるの」
 ああ、失敗してしまったか――そう思った。
 自分の表情のことまで考えていなかった。そして詩乃がこの状況でそれに気付いてしまうことも想定していなかった。人を殺す瞬間はもっと高揚していて、細かいことは見えないだろうと思っていたから。詩乃が抱えているものは、とても衝動的なものだと思っていたのだ。
 詩乃は一度何かを言おうとして、思い直したように口を噤んだ。けれど意を決したように俺を真っ直ぐに見て、頭の芯に響くような少し低い声で尋ねる。
「――死にたいの?」
 俺は首を横に振った。その言葉は正確ではない。死ぬだけなら、自分自身で命を絶つ方が簡単だ。自分では死にきれないという人は確かにいるけれど、誰かが自分を確実に殺すように仕向けるのはかなりの労力を必要とするのだ。
「ずっと、誰かに殺してほしいって思ってたんだよ」
 本心は隠し通すつもりだった。けれどもう誤魔化すことは出来ないだろう。俺は詩乃の手を掴み、自分の首に触れさせたままで言葉を続けた。
「誰かが殺されたニュースを見る度に、殺されるのが自分だったらいいのにと思ってた。『誰でもよかった』なら俺だっていいわけだろ? けれど誰かを殺したいと思う人間が俺の前に現れることはなかった」
 これまで殺されてきた人たちも、一本遅い電車に乗っていれば、違う道を通っていれば、寄り道でもしていれば、その運命は変わったかもしれない。偶然の巡り合わせで、彼らは望まない死を迎えてしまった。そして俺は偶然の巡り合わせで、誰かに殺してほしいという願いを叶えられなかった。祈っているだけでは何も変わらないのだ。
「これは奇跡なんだよ、詩乃。殺したいと思っている人間と、殺されたいと思っている人間が出会うことなんてほとんどない」
 ましてその二人が兄妹だったなんて、運命と呼ぶしかないだろう。
 だから、出来るなら今ここで、全てを終わらせてほしい。
 しかし詩乃は静かに口を開いた。
「……私は少年事件の記事を集めていた。絵美は動物を殺していた。都合のいい人が二人も現れたのは、確かにお兄ちゃんにとっては奇跡かもね」
 詩乃の目に怒りの色が宿る。掴んだいた詩乃の手がするりと抜けていったと思った瞬間、頬に鋭い痛みが走った。
 叩かれたのだと認識するのに、少し時間がかかった。それは予想していた痛みではなかったからだ。詩乃は右手の掌をさすりながら言う。
「私も絵美も、お兄ちゃんのための殺人装置じゃないんだよ」
「詩乃」
「――気持ち悪い」
 吐き捨てるように言い、詩乃は立ち上がって乱れた服を整えた。そのまま部屋を出て行こうとする詩乃の腕を慌てて掴んで引き寄せる。このまま詩乃を家に帰すわけにはいかない。今、詩乃はここで俺を殺す必要があるのだ。殺意を持った人間と、殺されたいと望む人間がここにいるのだから。運命の輪は今こそ閉じられるべきだ。ひとつひとつの駒が完全に対応したチェスのように、俺たちは殺されたい人間と殺したい人間で、男と女で――血を分けた兄と妹なのだから。
「俺を殺してくれ、詩乃」
 けれど詩乃は何も答えない。殺すこともしなければ、殺さないと宣言することもしなかった。ただ、精一杯の力で俺の腕を振りほどいて部屋を出て行く。
 ドアが閉まって、階段を降りていく足音が聞こえた。待っていても戻ってくる気配はない。俺はその場に座り込んだ。
 あのとき、詩乃が俺が笑っていることに気付かなければ、俺の願いは叶ったのだろうか。それなら間違えたのは俺自身だ。最後まで気付かれないように振る舞わなければならなかったのに、あの瞬間に気を抜いてしまった。そう思うと、乾いた笑いが勝手に溢れ出てきてしまう。
 ずっと待ち望んでいたことなのに、自分自身でそれを潰してしまったのか。もう知られてしまった以上、詩乃に殺してもらうということはできないのか。いや、それは違う。俺の気持ちを知ったからといって、詩乃自身の殺意が消えてしまったわけではないだろう。ただこれからはやり方を変えなければいけないというだけだ。
 詩乃の手が首に触れた瞬間の歓喜。それだけはどうやっても忘れられそうになかった。部屋に戻って、冷めたコーヒーを一気に煽る。淹れ立てのときとは違う酸味が、奇妙に口の中にいつまでも残っていた。
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