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本編

12.雪遊びの勇者

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 アパートのドアをあけると湿った空気が顔にまとわりついた。窓を開けると真っ暗な池で魚がぽちゃんと跳ねている。
 僕はビールを冷蔵庫に入れて熱いシャワーを浴びた。脱いだ服をユニットバスの扉の前にほったらかしにして(翌朝皺だらけの服を拾って後悔するのはわかっている、だとしても後でするから後悔なのだ)ボクサーの上に乾いたTシャツをかぶり、ビールのプルタブを引く。雨続きの日にコインランドリーで乾かしたTシャツは夜中でも陽の匂いがした。

 結局峡さんは――脈なしなんだろうか。

 僕はタブレットをいじりながらぼんやり考えた。テーブルの下で膝が触れたときの彼の表情を思い出す。あの眼つきは単なる飲んだ勢いの悪ふざけのお返しなんかじゃないはずだ。
 だいたい、今日は全部真壁が悪い。あいつが無理矢理割りこんでこなければ違った感じになったはずだ。

 峡さんが転職したのは、ボスと佐枝さんを中心とした藤野谷家の騒動にも原因があるようだと僕は佐枝さんとの会話からうっすらと察していた。佐枝さんは峡さんのことを医者だといったが、少なくとも今は、医師免許はあっても患者をみているわけではないようだ。医療にもさまざまな仕事がある。エンジニアも僕のような下っ端の中途半端なのから、上級の管理職までいるように。

 二本目の缶ビールを開けながら、僕は途中まで見ていたアニメの続きを再生してみたが、画面を追っていることができなかった。ともかく峡さんは僕が嫌いなわけではない。ベータの拒絶は匂いですぐにわかる。とはいえ拒絶していなくても、感じるわけではない――だろう。真壁がさっそくコナをかけて来たのとは対照的だ。

 でも今日の峡さんはすごくお洒落だったな、と僕は思った。蒸し暑い季節に入ったせいでネクタイを省略するスタイルが増えているのに(僕も真壁もそうだった)彼はきちんと締めていたし、お酒を飲んだ後に少しゆるめたところもよかった。チャットのおかげで距離感も感じなかったし、もっと二人で話せたらよかった。話したいことはいろいろ――あったのだ。たべるんぽのレビューだけじゃない。お酒や料理の話や、(僕が最近調理に再チャレンジしていることも含めて)佐枝さんのことや……年下の男についてどう思うのか、なども……。

 ああ、ぜんぶ真壁が悪い。でも本当にそうなんだろうか? 峡さんは結局僕に興味なんかほとんどなくて、せいぜいチャットで話す相手として面白い友達程度でしかなくて、真壁がいたのはむしろ彼にとって都合がよかった、なんてこともあるだろうか? むしろこれがビンゴだったとか?
 そういえばモバイルはどうしただろう。

 あわてて僕は脱ぎっぱなしの服を拾いにいった。ポケットからモバイルを引っ張り出すと着信ランプが点滅している。表示された名前をみるなり指が勝手に動いていた。

『はい。――三波君?』
 峡さんの声を聞いたとたん、きゅうっと胸の中がつまるような感じがした。
「すみません、……着信に気づかなくて」
『いや』
 僕はモバイルを耳に押しあて、声を聞き洩らさないようにする。

『その……今日はありがとう。それと……ごめん』
「えっいや」僕は焦った。
「すごく美味しくていい店でした。よかったです。……その、面白いレビューを書きますから!」
『そう? それなら良かった』

 間があいた。僕の動悸だけが速くなった。何か喋らなくてはと思ったのに言葉が出てこない。すると峡さんがいった。

『俺が気にしているだけなら別にいいんだ。真壁さんが一緒に来たがったのは想定外だったから』
「あ、それは――その」
 僕はテーブルの方へ引き返した。どうしよう。どう話そう。
「僕は今日は峡さんとふたりだけのデートだと思っていたんですよ。だからそこは……ちょっと残念でした」
『だったらやはり申し訳なかった』
「あ、いや、峡さんが良ければ僕は――」
『真壁さんは仕事はできるが強引でね。断れなくて』
「仕方がないですよね。会社の方なんだし……」
『いや、プライベートだから仕事は関係ない。なのに三波君の話はすごく楽しくて――助かったよ。ありがとう。お礼のつもりだったのに逆に気をつかわせてしまった』
「そんなこと気にしないでください」
『真壁さんはすごく……三波君が気に入ったみたいでね』

 耳に響いてくるのは苦笑だろうか。モバイルをきつくつかみすぎて僕の指はしびれたように動かない。ふっとため息のような音が聞こえた。

『当たり前だな。それに彼はアルファだ』
「いえ、僕は……」
 僕は意味もなく唾をのみこんだ。
「アルファなんてどうでもいいんです。僕は峡さんと話せて嬉しかったので。次に機会があったら――次は峡さんとふたりがいいな」

 また間があった。僕はモバイルを握る手を変えた。こわばった指を一本一本曲げ伸ばす。親指、人差し指、中指。薬指の番のとき、かすれた峡さんの声が耳に響いた。

『俺もそうだと嬉しいね』

 おやすみ、と小さな声が続き、僕が答える間もなく通話は切れた。




 これはまだ望みがあるということだろうか。

 僕はぬるくなったビールを飲み干した。新しい缶を開けてパソコンを起動する。ダイレクトメールやメルマガがほとんどの受信トレイを整理する。

 以前うっかり返事を書いてしまった昌行からまたメールが来ていた。僕は読まずにゴミ箱へ捨てた。その間にまた着信が来て、うんざりしながら差出人を確認すると秀哉だった。こちらは一応中身を読む。
 そして意味もなくため息をついた。

 今日は長い一日だった。もうたくさんという気分なのに、他の連中は元気なものだ。また外の池で魚が跳ねる。部屋の中がますます湿っぽく感じられて、僕は立ち上がると窓を閉め、エアコンのスイッチを入れた。ピピっと電子音が鳴った。

(暑いなあ、この部屋)

 唐突に頭の中に記憶がよみがえった。昌行がミニキッチンにもたれて手で顔を仰いでいる。あれはこのアパートの前に住んでいた部屋だった。やはりオメガ専用のアパートだったが、無味乾燥な箱が並んだようなつくりで、住んでいたのは学生ばかりだ。僕はちらかった部屋の中でエアコンのリモコンを探しているところ。レポート用紙に埋もれているはずが、みつからない。

(だったら来るなよ昌行。もともとここはオメガ以外は出禁なんだ)
(バレやしないさ。それに俺はアルファじゃない。友達のベータが久しぶりにたずねただけだ)
(バレたら困るとかいってるんじゃない。おまえ飲みすぎだろう)
(なんだよ? トモも好きなくせに――あ、そうか。飲んだり騒いだりはハウスで十分か。トモはオメガだもんな。もうベータの友達なんかいらないってか)
(そういう問題じゃないよ、この酔っぱらい)
(はいはい、俺は酔っぱらいですよー。おい、秀哉はほんとにここに来てないの? ほんとにここで秀哉とやってないの? なあ)
(昌行。いい加減にしろって)

 僕は眉をひそめてエアコンの温度を下げた。
 嫌なことを思い出してしまった。この部屋には誰も来たことがないから、あいつらは関係ないのに。これも蒸し暑いせいだろう。凍りつくくらい冷やしてやる。

 僕は適応力の高い方だと思っている。夏のさなかに体を動かして汗をかくのも楽しいし、冬の寒さも嫌いじゃない。
 昔は地球はもっと寒かった――そんなことはたぶんない。けれど僕が中学生の頃まではこのあたりでも年に二度は三十センチ以上の雪がつもった。秀哉と昌行と僕の三人でつるんでいた頃だ。

 いつもはほとんど雪がない土地で雪が積もれば、子供のすることはただひとつだ。雪だるまを作り、雪玉を作り、雪だるまを作り、雪玉を固め、雪だるまを作り、雪玉を強化し、要塞をつくり、落とし穴を作り、雪玉を投げ、雪だるまの頭を大砲のように飛ばし、胴体を盾にして戦うのだ。

 僕は雪合戦には強かった。体格がいちばんよかった秀哉はこの手の戦いでは逆に的になりやすく、昌行は僕ほど小回りがきかなかった。僕の家族には兄弟みたいだねといわれていたものだ。勝利するのはいつも僕だった。小さくてボサボサの頭をしたオメガの末っ子。それが……。

 その晩はよく眠れなかった。
 寝る前にチャットで峡さんに挨拶を送ってみたものの、そもそも、今回の日程もなかなか決まらなかったのに、ジャマーな真壁抜きでの再デート(今度こそ!)設定が簡単にできるとも思えない。峡さんには、僕の予定はいつでもOKです、とやや冗談めいた調子で連絡はした。シリアスになって引かれるのも嫌だったから、僕にできる精いっぱいだったと思いたい。とはいえ今の僕のスケジュールは楽で、仕事の都合をつけるのは簡単だから、嘘ではない。

 翌朝になっても峡さんからの返事はなかった。
 しかしまだ火曜日だ。そうだ。まだ火曜日なのだ。
 昨日の浮足立つような気分と今日の僕は正反対である。そのくせ世間はもう夏モードらしかった。
 梅雨は明けているのかいないのかよくわからないが、よく晴れて日射しは強く、暑く、電車の中はビヤガーデンやサマーセールの予告でいっぱいだ。それなのに僕は朝から凡ミスを連発していた。

 くさくさしていると昼前に社内チャットで鷹尾からメッセージが来て、昼を外で食べないかという。お目当ては近くのカフェのリニューアルランチらしい。リニューアル記念でスムージー又はデザートが半額。僕は一も二もなく承知した。

「三波、元気?」
 デザートについてきたのはミニサイズのプリンだった。うつわの底に溜まったカラメルソースを未練たらしくすくっている僕に鷹尾がゆっくり、おっとりした口調でいう。
「ん? 元気だよ。カラメルソースは無駄にできないたちなんだ」
「そう?」
「なんで」
「それならいいけど」
 鷹尾はすっと紅茶のカップを持ち上げた。彼女はこんな仕草がいつもぴしりと決まっている。ふわっとやわらかいのに優雅なのだ。
「聞きたい?」
 たずねると鷹尾はカップの向こうから眼だけでうなずいた。僕は慎重に言葉を選ぶ。

「昨日は人に会う約束をしていたんだけど、うまくなかった」
「ハウス?」
「ううん。外の店」
 鷹尾の目尻がくいっとあがる。
「なんてめずらしい。あ、でもうまくいかなかったのね?」
「予想外のジャマーが登場して撃退できなかった」
「あらあら。強い敵なの?」
「小ボスですらないよ。また再挑戦する」
「がんばって。次はうまくいくから」
「だといいけどね……」

 鷹尾はソーサーに置いたカップをくるりと回した。淡いピンクに塗られた爪がカップのふちで揃えたように並んで見える。
「大丈夫よ。どれだけ障害があらわれても、勇者は最後かならず勝つの」

 その言葉はすこし予言じみていて、すがりたい気持ちになった僕は思わず「鷹尾大明神様」と手を合わせて拝んでしまい「やめてよ」と怒られた。
 しかし大明神の御利益はあったようだ。というのも――午後三時、休憩がてらコーヒーを買いに行ったとき、モバイルに連絡が入ったのである。


 Saedakai:
 突然ごめん。急だし、昨日の今日だけど、今晩会えないかな?


 僕は画面を見て文字通り固まり、カウンター越しに店員に声をかけられて我にかえる始末だった。コーヒーのカップを社のデスクに持って帰ると、指がもつれそうな勢いでモバイルをタップした。


 Haru3WAVE:
 大丈夫です! 何時でしょう?

 Saedakai:
 二十時をたぶん過ぎてしまうから、三波君の都合のいいところまで迎えに行きます。今度こそ二人で食事しましょう。


 僕はあわてて頭の中で計算した。大丈夫と即答したはいいが、二十時なら(午前の凡ミスの穴埋め残業をして)出社するくらいの見当になる。


 Haru3WAVE:
 TEN‐ZEROの近くでもいいですか?

 Saedakai:
 もちろん。


 僕は会社付近のカフェを数軒思い浮かべ、交差点に面した店の名前を送った。その日はもう会社で鷹尾大明神に会わなかったが、それでよかった。顔をみたら最後僕はまた拝んでしまったにちがいないし、そうすると変な眼つきで見られるだけでなく、余計なことまで白状してしまったかもしれない。だから心の中で拝むだけにしておいた。

 社を出たのは二十時五分前だ。僕は走って交差点を渡った。



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