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.第4章 高校3年
91 男親の本音
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朝食を終えると、出勤する栄太兄を祖父母と一緒に見送った。
「じゃあ、気をつけて行ってらっしゃい」
「うん、おおきに」
栄太兄は革靴の紐を結びながら祖母に答え、靴を履き終えて立ち上がる。
「じゃ、じいちゃん、ばあちゃん、また」
「今度は敬老の日かしらね」
「どうかな。夏休みにでも来るかもしれへん」
「夏休みは奈良に帰らないと、和歌子が寂しがるでしょう」
警察官である叔父は基本的にお盆休みなどというものがない。栄太兄がいなければ、和歌子さんはひとりで過ごすことになるのだろう。
栄太兄はそれを聞いて苦笑した。
「どうやろなぁ。帰ったら帰ったで、図体デカい男がいても暑苦しいだけやー言うて邪険に扱うねんで」
「それはほら、和歌子の強がりよ」
「せやかて、そんなん言われたら帰る気も失せるわ」
「まあ、それはそうだろうけど」
あまりに和歌子さんらしくて思わず笑いそうになる。栄太兄は私を見下ろして微笑んだ。
「礼奈は? 敬老の日はまた体育祭か?」
私は肩をすくめる。
「さあ、分かんないけど……どちらにしろ、今度会うのは受験終わってからかな」
「あ、せやった、受験生やったな」
栄太兄は完全に忘れていたらしく頷いて、
「それでも花火大会に来るようじゃあ、余裕やなぁ。志望校どこなん」
聞かれてう、と口ごもる。
栄太兄に答えるには気まずくて、そっと目を逸らしたのだけど、
「栄太郎と同じ学校じゃなかったか?」
祖父があっさり暴露してしまった。私は慌ててその袖を掴む。
「もー! おじいちゃん……!」
祖父は言ってはいけないと思っていなかったらしい。ちょっと驚いた顔をして肩をすくめた。
祖母はというと、後ろでくすくす笑っている。
栄太兄は少しも動揺せずに明るい声を出した。
「K大? ほんまに? そりゃええわ。政人も喜んで案内してくれるやろ」
「やぁね。そのときには栄太郎、案内してあげなさいよ。政人が通ってたのなんて何十年も前なんだから」
栄太兄に祖母が口を挟むと、「それもそうやな」と栄太兄は頷く。
「久々にキャンパス散歩するんも悪くないやろな」
もう懐かしいわ、と細めた目が、ちょっとだけ、遠く感じる。
栄太兄はまた笑って「まあ、きばりや」と私の肩を叩いた。
ーーと思うや、「はー」とため息をついてうなだれた。手は私の肩に置いたまま、額を寄せられて戸惑う。
「そうかぁ……礼奈ももう高校卒業かぁ……俺も歳取るわけやなぁ……」
「だからそう言ってるじゃないの」
急にしみじみした栄太兄を、祖母がさもおかしそうに笑った。
「なーんにも考えずにいたら、ほんとにそのままおじさんになっちゃうんだからね。……って、和歌子も言ってるでしょう」
「言うてる言うてる。耳タコや。……まあなー、そりゃそうやねんけどなー」
栄太兄はじっと私を見て、ぽんぽんと頭を撫で、またため息をついて、もう片方の手を腰辺りに下げた。
「俺が大学生のとき、礼奈なんてこんなんやったのになぁ」
「はいはい。おじさん、はやく行かないと遅刻よ遅刻」
「言うなや、おじさんて」
栄太兄は祖母に苦笑して、ようやく私から手を離した。
「じゃあ、行ってきます」
「はいはい、行ってらっしゃい」
「……行ってらっしゃい」
祖父母の声を追って私が言うと、栄太兄はくすぐったそうに笑った。
「うん、行ってきます」
手を挙げて、玄関を出て行く。薄手のダークスーツにビジネスバッグ。黒い革靴もが、夏の日差しを受けてきらめく。その眩しさに目を細める横顔は、すっかり社会人の表情をしていた。
ドアが閉まって、その姿が視界から消えた。
残像のようにまぶたに残ったのは、栄太兄の笑顔と声。
ーーいつか、栄太兄と一緒に住む誰かは、こんな風に毎朝を過ごすんだろうか。
そう思うだけで切なくなった。悔しさ。やるせなさ。そんな風に思うなら、こんな擬似体験めいたことをしなければいいのに。それは分かってるのに、少しでも、恋人みたいな気持ちになってみたい、と思ってしまう。
息が苦しくなって、吐き出した。肩の力が抜けて初めて、自分が息をひそめていたことに気づく。
「今日も暑くなりそうねぇ」
リビングへ戻りながら祖母が言った。「ねえ、礼奈」と微笑まれて、私は頷く。
ぱたぱたとその背を追って、袖を引いた。こつんと肩に額を当てると、笑いながら頭を撫でられる。
栄太兄よりもよほど華奢で、しわのある手。
でも、栄太兄と同じか、それ以上に安心できる人の手。
「礼奈もまだまだ甘えん坊ねぇ」
「ふふふ」
撫でられながら笑うと、細めた祖母の目が優しく私を見つめていた。その目は私の父に似ていて、栄太兄のお母さんである和歌子さんにも似ている。
「いいことよ。甘えられるときに、たくさん甘えなさい。いつかは自分でがんばらなくっちゃいけなくなるんだから」
祖母の言葉に、前を行っていた祖父が苦笑した。
「その点、和歌子は本当に甘えるのが下手だからなぁ。孝次郎くんも手を焼いてるだろう」
「どうかしらねぇ」
祖母は私の頭を撫でながら笑う。
「そういうことは、当人じゃないと分からないものよ。案外、二人きりのときは存分に甘えているかも」
祖父が微妙な表情をした。きょとんとした私の横で祖母が噴き出す。
「いまだに孝次郎くんにヤキモチ妬くのね。お父さんったら」
「別にそういう訳じゃ……」
男親には男親の複雑な感情があるらしい。祖母はちらりと私を見て笑った。
「政人も、礼奈が結婚するとなったら相手にヤキモチ妬くのかしら」
「そりゃ、そうだろう。大事な娘なんだから」
祖父は大きく頷いた。私と祖母は顔を見合わせて笑う。
お父さんがヤキモチなんて、ちょっと想像できないけどーー
「そもそも、そんな日が来るのかだよねぇ」
思わず口をついて出た本音に、祖父母が「お前もか」といわんばかりの苦笑を浮かべた。
「じゃあ、気をつけて行ってらっしゃい」
「うん、おおきに」
栄太兄は革靴の紐を結びながら祖母に答え、靴を履き終えて立ち上がる。
「じゃ、じいちゃん、ばあちゃん、また」
「今度は敬老の日かしらね」
「どうかな。夏休みにでも来るかもしれへん」
「夏休みは奈良に帰らないと、和歌子が寂しがるでしょう」
警察官である叔父は基本的にお盆休みなどというものがない。栄太兄がいなければ、和歌子さんはひとりで過ごすことになるのだろう。
栄太兄はそれを聞いて苦笑した。
「どうやろなぁ。帰ったら帰ったで、図体デカい男がいても暑苦しいだけやー言うて邪険に扱うねんで」
「それはほら、和歌子の強がりよ」
「せやかて、そんなん言われたら帰る気も失せるわ」
「まあ、それはそうだろうけど」
あまりに和歌子さんらしくて思わず笑いそうになる。栄太兄は私を見下ろして微笑んだ。
「礼奈は? 敬老の日はまた体育祭か?」
私は肩をすくめる。
「さあ、分かんないけど……どちらにしろ、今度会うのは受験終わってからかな」
「あ、せやった、受験生やったな」
栄太兄は完全に忘れていたらしく頷いて、
「それでも花火大会に来るようじゃあ、余裕やなぁ。志望校どこなん」
聞かれてう、と口ごもる。
栄太兄に答えるには気まずくて、そっと目を逸らしたのだけど、
「栄太郎と同じ学校じゃなかったか?」
祖父があっさり暴露してしまった。私は慌ててその袖を掴む。
「もー! おじいちゃん……!」
祖父は言ってはいけないと思っていなかったらしい。ちょっと驚いた顔をして肩をすくめた。
祖母はというと、後ろでくすくす笑っている。
栄太兄は少しも動揺せずに明るい声を出した。
「K大? ほんまに? そりゃええわ。政人も喜んで案内してくれるやろ」
「やぁね。そのときには栄太郎、案内してあげなさいよ。政人が通ってたのなんて何十年も前なんだから」
栄太兄に祖母が口を挟むと、「それもそうやな」と栄太兄は頷く。
「久々にキャンパス散歩するんも悪くないやろな」
もう懐かしいわ、と細めた目が、ちょっとだけ、遠く感じる。
栄太兄はまた笑って「まあ、きばりや」と私の肩を叩いた。
ーーと思うや、「はー」とため息をついてうなだれた。手は私の肩に置いたまま、額を寄せられて戸惑う。
「そうかぁ……礼奈ももう高校卒業かぁ……俺も歳取るわけやなぁ……」
「だからそう言ってるじゃないの」
急にしみじみした栄太兄を、祖母がさもおかしそうに笑った。
「なーんにも考えずにいたら、ほんとにそのままおじさんになっちゃうんだからね。……って、和歌子も言ってるでしょう」
「言うてる言うてる。耳タコや。……まあなー、そりゃそうやねんけどなー」
栄太兄はじっと私を見て、ぽんぽんと頭を撫で、またため息をついて、もう片方の手を腰辺りに下げた。
「俺が大学生のとき、礼奈なんてこんなんやったのになぁ」
「はいはい。おじさん、はやく行かないと遅刻よ遅刻」
「言うなや、おじさんて」
栄太兄は祖母に苦笑して、ようやく私から手を離した。
「じゃあ、行ってきます」
「はいはい、行ってらっしゃい」
「……行ってらっしゃい」
祖父母の声を追って私が言うと、栄太兄はくすぐったそうに笑った。
「うん、行ってきます」
手を挙げて、玄関を出て行く。薄手のダークスーツにビジネスバッグ。黒い革靴もが、夏の日差しを受けてきらめく。その眩しさに目を細める横顔は、すっかり社会人の表情をしていた。
ドアが閉まって、その姿が視界から消えた。
残像のようにまぶたに残ったのは、栄太兄の笑顔と声。
ーーいつか、栄太兄と一緒に住む誰かは、こんな風に毎朝を過ごすんだろうか。
そう思うだけで切なくなった。悔しさ。やるせなさ。そんな風に思うなら、こんな擬似体験めいたことをしなければいいのに。それは分かってるのに、少しでも、恋人みたいな気持ちになってみたい、と思ってしまう。
息が苦しくなって、吐き出した。肩の力が抜けて初めて、自分が息をひそめていたことに気づく。
「今日も暑くなりそうねぇ」
リビングへ戻りながら祖母が言った。「ねえ、礼奈」と微笑まれて、私は頷く。
ぱたぱたとその背を追って、袖を引いた。こつんと肩に額を当てると、笑いながら頭を撫でられる。
栄太兄よりもよほど華奢で、しわのある手。
でも、栄太兄と同じか、それ以上に安心できる人の手。
「礼奈もまだまだ甘えん坊ねぇ」
「ふふふ」
撫でられながら笑うと、細めた祖母の目が優しく私を見つめていた。その目は私の父に似ていて、栄太兄のお母さんである和歌子さんにも似ている。
「いいことよ。甘えられるときに、たくさん甘えなさい。いつかは自分でがんばらなくっちゃいけなくなるんだから」
祖母の言葉に、前を行っていた祖父が苦笑した。
「その点、和歌子は本当に甘えるのが下手だからなぁ。孝次郎くんも手を焼いてるだろう」
「どうかしらねぇ」
祖母は私の頭を撫でながら笑う。
「そういうことは、当人じゃないと分からないものよ。案外、二人きりのときは存分に甘えているかも」
祖父が微妙な表情をした。きょとんとした私の横で祖母が噴き出す。
「いまだに孝次郎くんにヤキモチ妬くのね。お父さんったら」
「別にそういう訳じゃ……」
男親には男親の複雑な感情があるらしい。祖母はちらりと私を見て笑った。
「政人も、礼奈が結婚するとなったら相手にヤキモチ妬くのかしら」
「そりゃ、そうだろう。大事な娘なんだから」
祖父は大きく頷いた。私と祖母は顔を見合わせて笑う。
お父さんがヤキモチなんて、ちょっと想像できないけどーー
「そもそも、そんな日が来るのかだよねぇ」
思わず口をついて出た本音に、祖父母が「お前もか」といわんばかりの苦笑を浮かべた。
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