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第一章 おかえりなさい、旦那様

3 帰ってきた婚約者

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(赤……見間違い? 道に椿でも落ちたのかしら)

 みゆきは何度か瞬き、目をこすった。
 目が疲れているのかとも思ったが、赤い点は消えない。
 それどころかその赤は、ふうわりと動き、光の尾を引く。

「…………!」

(明かり? それとも、人魂?)

 みゆきは息を呑む。
 不思議と恐怖は感じなかった。

 ふわり、ふわり。
 明かりはゆらめき、少しずつ大きくなってくる。

(提灯だ)

 みゆきは、はっとする。
 明かりはいつしか提灯の姿を取り、提灯を持つ手も見えてきた。
 真っ白な軍用の手袋をつけた、男の手だった。
 ぞわ、と、鳥肌が立つ。

「た……」

 叫ぼうとしたが、興奮のあまり喉が詰まってしまった。
 鼓動がうるさいほどに打ち始める。
 みゆきは必死に身を乗り出し、目をこらした。

 ふわり、ふわり。
 近づいてくる明かりは、確かなようでもあり、風が吹けば消えてしまいそうでもある。

「っ……!」

 もう我慢などできなくて、みゆきはついに通用口から飛び出した。
 雪を踏みしめ、道の真ん中に立つ。

「貴明さん!!」

 全力で声を絞り出した。
 本当はもっと大きな声を出したかったのに、みゆきの声は震えてしまった。

 寒かったせいではない。
 恐ろしかったわけでもない。
 喜びに震えていたのだ。

 みゆきの叫びに答えるように、提灯の明かりは、ぱっと強くなる。

「……!」

 まぶしさのあまり、みゆきは一度目を閉じる。
 そして、もう一度目を開けたとき。

「みゆき」

 深みのある錆びた美声が、すぐそこで響いた。

 彼だった。
 ぞっとするほどに美しい白い顔が、目の前にあった。
 みゆきは呆然と唇を開く。

 貴明だ。
 間違いなく、貴明だ。

 すんなりとした白い輪郭に、凜々しく整った眉。
 若武者、とでも言いたくなるようなきりりとした造作なのに、薄い鼻梁と紅色に染まった唇は、どこか繊細で甘い。
 それだけでも危うい美しさに満ちているのに、もっとも印象的なのは、目であった。

 まつげの下で静かに青光りする、磨き上げられた刀身みたいな瞳……。

(なんて……きれい)

 腹の底からぞくぞくっとする感覚が這い上がってきて、みゆきは言葉を失った。

 貴明は、こんな目をした青年だっただろうか?
 確かに光を受けると青っぽく光る目だったけれど、もっと穏やかな笑みを浮かべているひとだった。
 今はまるで、薄い刃を首筋に這わされているような気分だ。

 でも、それが、けして嫌ではない。
 大好きな貴明に冷たく見つめられるのは、恐ろしくも、どこか甘美だ……。

「たか、あき、さん……」

 どうにか、それだけ囁いた。
 次の瞬間、みゆきは貴明の軍用マントに包みこまれていた。

(え?)

 強い力が、みゆきを抱きすくめている。

 みゆきの柔らかな頬は、無骨な軍服の胸に触れて軽くつぶれた。
 布地の向こうに、張りのある体があるのがわかった。
 自分とは全く違う、どっしりとした質量の感覚。

 そして、嗅ぎ慣れない、不思議な、薬草みたいな匂い。雪の匂い。
 その奥からかすかに香る、懐かしい匂い。
 貴明の匂いだ。

 脳の芯がじわっと喜びに痺れた。
 嬉しい、と思った。
 嬉しい。嬉しい。嬉しい。
 それしか考えられないくらい、嬉しい……。

 どれだけそうしていただろう。
 不意に貴明の体が少し離れる。

「あ……」

 貴明との間に距離ができるのが寂しい。切ない
 みゆきは何かを言おうとして顔を上げた。

 その唇に、貴明の唇が重なる。

「!」

 つめたい。
 けれど、信じられないほどやわらかい。

(接吻……して、いる……?)

 みゆきは半ば呆然としたまま、彼の唇を受け入れていた。
 唇と唇が触れあって、やわやわとつぶれていく。
 ひとの唇というのは、こうも柔らかなものなのか。

 その柔らかさが、やがてどこか甘く思えるようになる。
 わずかな距離を置いては、また口づけられる。
 繰り返えされる口づけが緊張を拭い去り、みゆきはうっとりと目を閉じた。

 が、その後のことは少々予想外だった。
 貴明は、性急にみゆきの口内へ舌をねじ込んできたのだ。

 濡れた舌がみゆきの舌に強引に絡み、引きずりだそうとする。
 ぞわり、と背筋に嫌なものを感じて、みゆきは身じろいだ。

(貴明さん……?)

 問いたくても口が塞がれている。
 彼の舌は生き物のようにみゆきの口内を這い回り、むさぼっていく。
 歯列の裏を舌でくすぐられた瞬間、みゆきは思わず喉奥で声をあげた。

「ん、うぅ……っ!」

 口内に淡い電流のようなものが生まれ、背筋のぞわぞわ感が深くなる。
 これはなんだろう。わからない。
 わからないが、こわい。
 貴明は、唐突にこんなことをするひとではなかった。

 ――何かが、おかしい。

 そう思ったとき。
 貴明の舌はぴたりと動きを止め、みゆきから離れていった。

「あ……た、か、あき、さん……」

 まだ慣れない感覚の残る口で、どうにか名を呼ぶ。
 貴明は、闇夜に浮かぶ、美しい面のような顔でみゆきを見ている。
 しっとりと濡れた唇が、みゆきに囁く。

「会いたかった。あなたに。――あなたにだけ、ずっと」

「そ、それは、もう、私も、同じで……」

 貴明から言われてしまうと、みゆきの顔は真っ赤になった。
 口づけの動揺など、もはやどうでもいい。
 恥ずかしいやら嬉しいやらで目尻には涙がにじむし、顔は勝手ににこにこ笑うし、もはやめちゃくちゃだ。

「あ……あの! 貴明さん、早く中に入りましょう。私、ずっと、あなたが独りで寂しくないか、寒くはないか心配だったんです。今も、もちろん心配です。だから、早く行きましょう……?」

 めちゃくちゃなまま言うと、貴明は長いまつげを伏せて、少し沈黙する。
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