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第一章 おかえりなさい、旦那様
4 おかえりなさい、貴明さん
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「……貴明さん?」
「では、門をくぐるまで、手を引いてくれないか」
「手、ですか」
みゆきは少し驚いた。
屋敷門まではほんの数歩の距離だし、他に人気はないし、貴明は大の大人だし、もちろん迷子になる心配はない。
怪我でもしているのだろうか、と不安になって、みゆきは貴明の全身を見る。
痩せ型の長身は昔よりもずいぶんと鍛えられたのだろう、背筋はぴんと伸びているし、しなやかな力強さを秘めている。なんの不自由もなさそうだ。
みゆきが不思議そうにしていると、貴明の唇がかすかに弧を描く。
(あ……、笑った)
能面のようだった顔に幼いころの面影を取り戻し、貴明は囁く。
「……甘えているんだ、みゆきに」
「あっ! あ、な、なるほど、そういうことですね!」
みゆきは、はっとして答え、すぐにぎゅうっと貴明の手を握った。
軍用の白手袋をした貴明の手は、外気と同じくらい冷えている。
「私でよろしければ、それはもう、全力で甘えてください」
早く温まりますように、と祈りながら貴明の手をさすり、みゆきはふと気が付いた。
「……そういえば貴明さん。さっきの提灯は?」
「提灯? そんなものは持っていない。あなたの見間違いだろう」
貴明はなんのためらいもなく答える。
みゆきは少し首をひねったけれど、すぐに考えるのをやめてしまった。
「きっとそうですね。私の不運のせいで、人魂が見えたのかもしれないし。とにかく家に入りましょ、貴明さん」
「ああ」
みゆきはきゅっと貴明の手を握り直し、数歩の距離を屋敷門まで歩く。
(まるで昔に戻ったみたい。貴明さんも、私も、子供のころに)
しみじみと思いながら、みゆきは頭を低くして通用口をくぐった。
そのまま玄関に貴明を引っ張っていき、粋な洗い出しの三和土へ押しこむ。
玄関戸を閉めて、みゆきは改めて貴明と向き合った。
「……おかえりなさい、貴明さん」
「ただいま、みゆき」
貴明も穏やかに返し、みゆきを見てうっすらと微笑む。
その様子は、みゆきのよく知る優しい貴明だ。
みゆきはほっとして、貴明から軍用マントをひっぺがした。
「本当にご無事でよかった! どこから歩いてらしたんですか? まさか、駅からじゃないでしょう? ああ、待って、詳しいお話はみんながいるところで! 何度もさせてしまったら申し訳ありませんもの。みんなも表向きは平気な顔して、裏では今か、今かと待っていたはず。お父さまも、もちろん六朗もね」
「六朗か」
怒濤のようなみゆきの話から、貴明はその名を拾い上げた。
兄弟同然の相手だから、気にかかるのは当然と言えば当然だ。
(でも、なんだか不思議そうな言い方だったような……?)
みゆきは、雪で濡れた鳶合羽を脱ぎながら首をかしげる。
「ええ、あの六朗ですよ。呼んできましょうか?」
「ああ――」
貴明は何かを呼び覚ますように、自分のこめかみに指を当てた。
ちょっぴり妙な所作だな、と思うものの、みゆきは貴明の長い指に見とれてしまう。
少年のころの貴明はこの指でもって器用に絵笛を操り、信じられないほど繊細な植物画を描いていたものだ。
「――お嬢? 正面から帰っていらしたんですか? そろそろ捜索隊を出すとこで……」
と、そこへ六朗の声が響き、奥からばたばたと本人がやってくる。
彼はいかにも心配そうな顔だったが、玄関までやってくると、ぽかんと口を開いた。
「おま……」
「……六。元気そうだな」
貴明が、こめかみから指を離して淡々と言う。
昔と同じ呼び方だ、と、みゆきは和んだが、六朗はそれどころではないようだ。
口を開いたまま、ずかずかと三和土まで降りてくる。
そうして貴明の襟を引っつかみ、ものすごい声量で怒鳴りつけた。
「このバカ野郎が! 元気そうだな、じゃねえよ! てめえ、どれだけお嬢に心配かけたのかわかってだろうなあ!? 帰ってくんのが遅えんだよ、軍人になるならバケモンみてーに強くなって、とっとと全員倒して帰ってこいっつったろーがよお!」
「六は、いつも無理を言うな」
貴明は静かに言い、六朗の頭を撫でる。
背丈で貴明に負けている六朗は、ぎりりと歯ぎしりした貴明の手をはたき落とした。
「子供扱いすんな!! 一年も北方に留め置かれたあげく、戦死電報打たれるような下手うちやがって! ほんっとふざけるんじゃねえぞ!」
「ふざけてはいない。俺はいつでも大真面目だ」
「だから、そういう話はしてねえよ!! あーーーー、ほんと暖簾に腕押し! そういうとこだけ変わってねえ!!」
土間でわちゃわちゃとじゃれあい始めた二人を見て、みゆきは心底安堵した。
「ふふ、相変わらずね、二人とも」
自分は合羽類を抱えて玄関に上がり、二人に声をかける。
「六朗、私はお風呂とお夜食を用意してきますから、貴明さんを温かいところに連れていってね。頼んだわよ」
「あっ、お嬢! 風呂は俺がやりますよ」
六朗は慌てて貴明の襟を離し、どたばたと玄関に上がってきた。
そのままみゆきを追いかけようとして、ふと、貴明を振り返る。
「貴! 腰の物騒なもんはそのへんに置いとけ! 一応お前、今は組のもんじゃねえからよ!」
「……ああ」
眉間に皺を寄せて言われ、貴明は自分の腰を見下ろした。
戦地からそのまま帰ってきたのだろう。貴明は重い拳銃と、軍刀に仕立て直された刀を装備したままだ。
貴明は素直に銃帯を解いて玄関に置き、続いて刀帯も取り外した。
軍刀を玄関に置こうとすると、刀帯についていた不格好なお守り袋が揺れる。
「…………」
貴明はどこか愛しそうにお守りを見てから、改めて玄関を見渡した。
質実剛健といった玄関には、大きく『忍宮組』と墨で書かれた看板がかかっている。
みゆきの生家は、帝都下町を取り仕切る極道の家なのだ。
初穂帝国に名をとどろかす忍宮組だが、派手な飾り物などひとつもない。
こっくりとした色の壁にかかっているのは、これまた古い神棚のみである。
青々とした榊と御神酒が捧げられた神棚を見つめながら、貴明は慎重に玄関に上がった。
同時に、ぱきん、と乾いた音が響く。
「……だろうな」
貴明はつぶやき、足音を立てずに神棚に歩み寄る。
のぞきこんでみれば、御神酒を入れていた白い杯が真っ二つに割れていた。
まるで、刀ででも断ち切ったかのように……。
貴明は一瞬だけ、ぎゅっと目を閉じる。
何かを悼むように、後悔するように。
「すまない、みゆき。あなたを、諦められなくて」
自分にだけ聞こえる声で囁いて、貴明は顔を上げる。
そのときにはもう、貴明の顔には苦悶も、後悔も、迷いもない。
ただただ美しい青年に戻って、貴明はみゆきたちの声がするほうへ歩いて行った。
「では、門をくぐるまで、手を引いてくれないか」
「手、ですか」
みゆきは少し驚いた。
屋敷門まではほんの数歩の距離だし、他に人気はないし、貴明は大の大人だし、もちろん迷子になる心配はない。
怪我でもしているのだろうか、と不安になって、みゆきは貴明の全身を見る。
痩せ型の長身は昔よりもずいぶんと鍛えられたのだろう、背筋はぴんと伸びているし、しなやかな力強さを秘めている。なんの不自由もなさそうだ。
みゆきが不思議そうにしていると、貴明の唇がかすかに弧を描く。
(あ……、笑った)
能面のようだった顔に幼いころの面影を取り戻し、貴明は囁く。
「……甘えているんだ、みゆきに」
「あっ! あ、な、なるほど、そういうことですね!」
みゆきは、はっとして答え、すぐにぎゅうっと貴明の手を握った。
軍用の白手袋をした貴明の手は、外気と同じくらい冷えている。
「私でよろしければ、それはもう、全力で甘えてください」
早く温まりますように、と祈りながら貴明の手をさすり、みゆきはふと気が付いた。
「……そういえば貴明さん。さっきの提灯は?」
「提灯? そんなものは持っていない。あなたの見間違いだろう」
貴明はなんのためらいもなく答える。
みゆきは少し首をひねったけれど、すぐに考えるのをやめてしまった。
「きっとそうですね。私の不運のせいで、人魂が見えたのかもしれないし。とにかく家に入りましょ、貴明さん」
「ああ」
みゆきはきゅっと貴明の手を握り直し、数歩の距離を屋敷門まで歩く。
(まるで昔に戻ったみたい。貴明さんも、私も、子供のころに)
しみじみと思いながら、みゆきは頭を低くして通用口をくぐった。
そのまま玄関に貴明を引っ張っていき、粋な洗い出しの三和土へ押しこむ。
玄関戸を閉めて、みゆきは改めて貴明と向き合った。
「……おかえりなさい、貴明さん」
「ただいま、みゆき」
貴明も穏やかに返し、みゆきを見てうっすらと微笑む。
その様子は、みゆきのよく知る優しい貴明だ。
みゆきはほっとして、貴明から軍用マントをひっぺがした。
「本当にご無事でよかった! どこから歩いてらしたんですか? まさか、駅からじゃないでしょう? ああ、待って、詳しいお話はみんながいるところで! 何度もさせてしまったら申し訳ありませんもの。みんなも表向きは平気な顔して、裏では今か、今かと待っていたはず。お父さまも、もちろん六朗もね」
「六朗か」
怒濤のようなみゆきの話から、貴明はその名を拾い上げた。
兄弟同然の相手だから、気にかかるのは当然と言えば当然だ。
(でも、なんだか不思議そうな言い方だったような……?)
みゆきは、雪で濡れた鳶合羽を脱ぎながら首をかしげる。
「ええ、あの六朗ですよ。呼んできましょうか?」
「ああ――」
貴明は何かを呼び覚ますように、自分のこめかみに指を当てた。
ちょっぴり妙な所作だな、と思うものの、みゆきは貴明の長い指に見とれてしまう。
少年のころの貴明はこの指でもって器用に絵笛を操り、信じられないほど繊細な植物画を描いていたものだ。
「――お嬢? 正面から帰っていらしたんですか? そろそろ捜索隊を出すとこで……」
と、そこへ六朗の声が響き、奥からばたばたと本人がやってくる。
彼はいかにも心配そうな顔だったが、玄関までやってくると、ぽかんと口を開いた。
「おま……」
「……六。元気そうだな」
貴明が、こめかみから指を離して淡々と言う。
昔と同じ呼び方だ、と、みゆきは和んだが、六朗はそれどころではないようだ。
口を開いたまま、ずかずかと三和土まで降りてくる。
そうして貴明の襟を引っつかみ、ものすごい声量で怒鳴りつけた。
「このバカ野郎が! 元気そうだな、じゃねえよ! てめえ、どれだけお嬢に心配かけたのかわかってだろうなあ!? 帰ってくんのが遅えんだよ、軍人になるならバケモンみてーに強くなって、とっとと全員倒して帰ってこいっつったろーがよお!」
「六は、いつも無理を言うな」
貴明は静かに言い、六朗の頭を撫でる。
背丈で貴明に負けている六朗は、ぎりりと歯ぎしりした貴明の手をはたき落とした。
「子供扱いすんな!! 一年も北方に留め置かれたあげく、戦死電報打たれるような下手うちやがって! ほんっとふざけるんじゃねえぞ!」
「ふざけてはいない。俺はいつでも大真面目だ」
「だから、そういう話はしてねえよ!! あーーーー、ほんと暖簾に腕押し! そういうとこだけ変わってねえ!!」
土間でわちゃわちゃとじゃれあい始めた二人を見て、みゆきは心底安堵した。
「ふふ、相変わらずね、二人とも」
自分は合羽類を抱えて玄関に上がり、二人に声をかける。
「六朗、私はお風呂とお夜食を用意してきますから、貴明さんを温かいところに連れていってね。頼んだわよ」
「あっ、お嬢! 風呂は俺がやりますよ」
六朗は慌てて貴明の襟を離し、どたばたと玄関に上がってきた。
そのままみゆきを追いかけようとして、ふと、貴明を振り返る。
「貴! 腰の物騒なもんはそのへんに置いとけ! 一応お前、今は組のもんじゃねえからよ!」
「……ああ」
眉間に皺を寄せて言われ、貴明は自分の腰を見下ろした。
戦地からそのまま帰ってきたのだろう。貴明は重い拳銃と、軍刀に仕立て直された刀を装備したままだ。
貴明は素直に銃帯を解いて玄関に置き、続いて刀帯も取り外した。
軍刀を玄関に置こうとすると、刀帯についていた不格好なお守り袋が揺れる。
「…………」
貴明はどこか愛しそうにお守りを見てから、改めて玄関を見渡した。
質実剛健といった玄関には、大きく『忍宮組』と墨で書かれた看板がかかっている。
みゆきの生家は、帝都下町を取り仕切る極道の家なのだ。
初穂帝国に名をとどろかす忍宮組だが、派手な飾り物などひとつもない。
こっくりとした色の壁にかかっているのは、これまた古い神棚のみである。
青々とした榊と御神酒が捧げられた神棚を見つめながら、貴明は慎重に玄関に上がった。
同時に、ぱきん、と乾いた音が響く。
「……だろうな」
貴明はつぶやき、足音を立てずに神棚に歩み寄る。
のぞきこんでみれば、御神酒を入れていた白い杯が真っ二つに割れていた。
まるで、刀ででも断ち切ったかのように……。
貴明は一瞬だけ、ぎゅっと目を閉じる。
何かを悼むように、後悔するように。
「すまない、みゆき。あなたを、諦められなくて」
自分にだけ聞こえる声で囁いて、貴明は顔を上げる。
そのときにはもう、貴明の顔には苦悶も、後悔も、迷いもない。
ただただ美しい青年に戻って、貴明はみゆきたちの声がするほうへ歩いて行った。
応援ありがとうございます!
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