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第二章 祝言と黒い猫

15 貴明という男

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 天涯孤独になる前から、貴明の人生は順風満帆とは言えなかった。
 気付けば家に父親の姿はなく、母親のもとには様々な男が通ってきていた。

『子供は外で遊んできな!』

 そのたびに外に追い出されたが、貴明には友人がいない。
 近所の子供たちは、あの家の子供とは遊ぶなと言い聞かせられていたのだろう。
 下手に町中をふらふらしていると、寄ってくるのは妙にぎらついた目をした男や女ばかり。

『あっちで遊ぼう、お菓子をあげる』

 そう言ってニヤつく彼ら、彼女らが、自分と何をしたいのかはぼんやりわかった。
 着いていったら、自分は母と同じ存在になる。
 その代わり、小銭は手に入るだろう。
 それも悪くないのかな、と思ったとき、傍らの柳が囁いた。

『やめておきなさい。そいつは、わたしのそばで女の首を絞めたことがある』

 にやにや笑いの男とたおやかに生える柳を見比べて、貴明はきびすを返した。

 植物と話ができるのは、物心ついてからずっとだった。
 植物は基本的に無口だが、嘘を吐かない。
 たまにはひとの歌を歌ったり、風と囁き会ったりもしている。

 貴明は家から追い出されて暇なとき、植物たちの間で過ごすようになった。
 植物たちのほうも、自分たちの言葉を解する貴明を愛してくれたと思う。

『わたしの蜜を吸って』

『葉をちぎって食べてもいいよ』

 そうやって囁いてくれるおかげで、ほんの少しだけ飢えを満たすこともできた。

 母が死んだ日も、馴染みの柳は親身に声をかけてくれた。

『今は家に帰らないほうがいい。お前の母が、客に殺されたばかりだ』

『……そう』

 貴明は静かに答えた。
 多少の衝撃はあったが、やっとか、という気持ちのほうが大きかった。
 いずれこんな日が来ることはわかっていた気がする。

 母の男たちは母に暴力を振るい、母は貴明に暴力を振るう。
 暴力は水の流れのように、高いところから低いところへ流れていく。
 いずれ母か自分が死ぬのが道理だろう。

 母の死体をひとりで見るのも気が引ける。
 交番に行くのがよかろうと思った。
 が、柳は意外なことを言う。

『あっちへお行き。ひとが死ぬのに慣れた人間たちがいる。悪くはされないよ』

 柳がさわさわと揺れて示したのは、交番ではなく、忍宮組の屋敷であった。

 貴明は忍宮組がどういう組織か、はっきりは知らなかった。
 どうせ乱暴者の集まりだろう。
 もうどうなってもいい、と門扉を叩き、出てきた屈強な男に頭を下げた。

『この近くで商売をさせてもらってます、たえの子供です。今さっき、母ちゃんが、客に殺されて……』

『なんだとぉ!? この忍宮組のシマで、なんてことしやがる!! おい、場所は!』

『え……あ、案内、します』

 呆気にとられて、貴明は組員たちを家に案内した。
 家の中はひどい有様で、やっぱり母親は死んでいた。
 悲しかったし、苦しかったが、忍宮組は医者を呼んで死亡確認をするところから、警察の対処から、何もかもをやってくれたあげく、あっという間に犯人もとっ捕まえて警察に突き出した。

『すみません。あの、母ちゃんは、金をちゃんと払ってましたか?』

 上納金、という名前は知らなくても、金を払わなければ他人が商売女を守らないことくらいは知っていた。
 なのに、忍宮組の組長だという壮年の男は『ケッ』と変な声を出して、貴明の両肩に手を置いた。

『てめえみてぇなガキが気にすることじゃねえ。行くとこがねえなら、しばらくうちで面倒みる。てめえの仕事は、とっとと落ち着いて、母ちゃんが死んだことを充分悲しんで、そのあとてめえの身の振り方を決めることよ』

 組長の言うことは、当時の貴明にはよくわからなかった。
 今まで周りにまともな大人がいなかったせいで、組長がいかに情に篤いか、ぴんとこなかったのだ。

 ぴんときたのは、そのあと。
 中庭で出会った子供に、こう言われたことだった。

『家族になろう』

 真っ直ぐに自分を見上げて、幼いみゆきはそう言った。
 小動物を思わせる、小さくて愛らしい子供だった。
 なのに、自分を見上げる目は、強かった。

 どこまでも澄んだ黒い瞳に、疲れ果て、呆気にとられた自分が映っていた。

『信じなさい』

 背後の桜の木が囁いた。

『ゆだねてもいい』

 少し遠くの柿の木も、力強く保障した。

『みゆき』

『みゆきだ』

 足下で咲く、桃色のユキゲショウが楽しそうに子供の名を呼んだ。
 庭中が彼女を愛しているのがわかった。
 その彼女が、自分を受け入れてくれたのもわかった。
 夏の庭は、静かな祝祭の雰囲気に満ちていた。

 今ならわかる。
 あんなにも植物たちが彼女を愛していたのは、彼女があらゆるものを受け入れるからだ。
 植物と話す自分も、青々と茂る木々も、夏に落ちる濃い影も、彼女にとってはすべて同じで、自然なものなのだ。

 その日、貴明は生まれて初めて、独りではなくなった。
 みゆきの、家族になった。

 そして今、みゆきの夫となった自分は……みゆきにふさわしいだろうか?
 さきほどまで貴明に翻弄されていたみゆきの肌は、まだところどころうっすらと赤い。
 まるで食べ頃の桃のようなみずみずしさだ。

(正気でなければ、最後までむさぼった)

 今も心の奥底、本能に近い場所には熾火が熱を持っていて、眠る少女にのしかかってしまいたいと囁いている。
 もっと乱暴に全てを暴いて、夢にまでみた柔らかな肢体を両手に抱きしめたい。

 みゆきの体はどこもかしこも柔らかい。
 触れるたびに、このまま溶けてしまうのではないかと心配になるくらい、まろやかな感触が指に伝わる。
 その感触を一杯に感じて、彼女の体の中に分け入りたい。
 泣こうがわめこうが気にせず、残酷に引き裂いてしまいたい。
 そんな魔物が、貴明の中にうずくまっている。

(戦場で変わったわけじゃない。元々の俺がそうなのだ)

 六朗の警戒は正しい。
 自分は、この温かな家に紛れ込んだ魔物だ。

 貴明は長い指を折り曲げて、ぐっと拳を作る。
 自分に罰を与えるように、手のひらに指先を食いこませる。

 ――貴明さん。

 耳の奥で、泣き笑いしながら自分を呼ぶ、みゆきの声が木霊している。

「大丈夫――あなたを、守る」

 貴明は誓うように囁く。

 帰ってきたこと自体が、間違いだったのかも知れない。
 それでもここまで来てしまったからには、守り通す。
 いかなる脅威からも、そして、自分自身からも――みゆきを、守るのだ。

 貴明は自分の枕の下を探り、ぼろぼろの手帳を取り出す。
 開かれた手帳には、茶色く変色した液体のシミがある。
 そして、見開きにびっしりと書かれていたのは、何かを数える正の字であった。
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