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第三章 恋文と怪文書

21 貴明の後悔

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(断ち切れ。受け入れろ。六朗はいい男だ。おそらく、みゆきのことを愛してもいる。少なくとも、今の俺よりも、みゆきにふさわしい……)

 貴明は、強くまぶたを閉じた。
 まぶたの裏に、先ほど見た白髪の人影がちらつく。
 考えれば考えるほど、自分の周りの空気が冷えていく。
 まるであの白い大地に逆戻りしたかのようだ。

 ――寒い。

 あそこでは、どこまでも続く真っ白な雪の上で、振りまかれた血が湯気を立てていた。
 刀を握った自分の手は、手袋の中で酷い痛みを発していた。

 心は……心は、どうだっただろう?
 心は、いつまで痛んだ?

 今、自分の指は痛まない。
 心も、目の前にいる六朗ほど真剣に痛めることができているかどうか。

(取り返しがつかない。そう、もう、何も)

 息を吸って――。
 吐く。
 そのとき。

「うう……」

 障子の向こうで、みゆきのうめき声があがった。

「お嬢」

「みゆき」

 六朗と貴明は、それぞれに振り返ってみゆきを呼んだ。
 しばしの間を置いて、みゆきのかすれ声が聞こえてくる。

「たかあき、さん……?」

 呼ばれたのは、貴明の名前だった。
 それを聞いた途端、貴明の体にはわずかな熱が戻る。
 現金なくらいに緊張が抜けていく。

「ちっ」

 六朗は舌打ちをしてそっぽを向く。
 貴明は六朗のほうは見ず、軍靴を脱ぎ捨てて縁側に上がった。

「みゆき。無事かい」

 障子を開け、なるべく優しく声をかける。
 真昼の離れには、掛け布団だけを抱えたみゆきが座りこんでいる。

「貴明さん……」

 みゆきは囁いて振り返った。
 その顔にいつもの生気は無く、目元にも、肌つやにも、姿勢にも、明らかに疲弊の色がにじんでいる。
 初めて見たみゆきの姿に、貴明は頭を殴られたような衝撃を受ける。

「……みゆき」

 すぐに傍らに膝をつき、腕を回してみゆきの体を支えた。
 普段なら照れたり驚いたりしそうなところだが、みゆきにはその余裕もなさそうだ。
 ほっとしたようにため息を吐き、貴明に体重を預ける。

「すみません……こんな、みっともない……」

 かさついたまぶたを閉じて、みゆきは浅い息を吐いている。
 貴明はとっさにみゆきの体を抱き寄せて、自分に寄りかからせた。
 肩にかかった体重は、切なくなるほどに軽くてはかない。

「ちょっとした不調だと思うのです。ただ、どうにも目が回って……。貴明さんが戻ってきてくださって、よかった」

「……あなたのためなら、いつでも帰ってくる」

 我知らず答えてしまってから、貴明は愕然とする。

(いつでも帰れるわけがあるか。一年も戦地から帰れなかったというのに)

 こんなもの、子供だましの甘い言葉だ。
 本心だったが、そんな約束ができないのは自分が一番よくわかっている。
 帰ってきたあとでさえ、四六時中みゆきと共にいることは避けているのだ。
 六朗が気付いているくらいだから、みゆきも勘づいてはいるだろう。
 勘づいていても、貴明を問いただしたりはしない。

「ふふ。うれしい」

 今も青白い顔で微笑みながら、それ以上は何も言わない。
 貴明は自分の空っぽの胸の奥が、ぐしゃりと歪むような気がした。

(苦しい)

 戦場でも、こんなふうに苦しんだことはなかった。
 こんな、耐えようもない苦痛で目の前が暗くなっていくことは初めてだった。

 貴明は浅い呼吸を繰り返す。
 みゆきは、みゆきだけは、どうにかして守る。
 ずっと心に誓っていたことだった。
 それが達成できないのではないか、と、自分の心が悲鳴を上げている。

 幼いころからの警戒心が作った鉄面皮は、こんなときでも健在だ。
 表向きは涼しい顔をしながら、胸には絶望が吹き荒れている。
 その落差で頭がおかしくなりそうだ。

(落ち着け。呼吸をしろ。こんなときに俺がおかしくなっていて、なんになる。俺はみゆきを守るのだろう?)

 貴明は一度だけ強く目を閉じ、もう一度開ける。

 金属的な暗い眼光を取り戻し、先ほど遭遇した相手に思いをはせる。
 何者ともわからない、白髪の人物。
 あれが誰なのか――いや、なんなのか、貴明は知っている。

(みゆきの不調は、あれのせいだ。おそらく何かを渡されたはず。万が一、みゆきがあれと約束などしていたら……)

 ひっそりと冷や汗がこめかみににじむ。
 どうしても事実を確認しなくてはならない。
 貴明はみゆきの背をそっと撫でて言う。

「……みゆき。さっき買い物をしていたときに、誰かと話していたね」

「だれかと……六朗?」

「いや。白い髪の」

「ああ…………そう、ですね」

(躊躇った)

 貴明は注意深く腕の中のみゆきを見つめる。
 みゆきは驚いたように顔を上げ、どうにか気丈に笑った。

「たしか……道を聞かれて、お話をしました。不思議な方だな、とは思いましたけれど……あの方が、何か? もしかして、貴明さんのお知り合いでしたか?」

 問いの鋭さに、貴明はひやりとする。
 ここで頷くわけにはいかない。
 あれについて説明することは、戦場で何があったかを説明することと同じだ。
 そしてそれは、貴明がもっとも隠し通したいことなのだ。

「知り合いではないけれど……あなたが何か、渡されていたように見えて」

「渡された? 私が、あの方にですか? 見間違いなのでは……」

 やけにはっきりとした否定が帰ってきて、貴明は眉根を寄せる。

(そんなはずはない。これだけ不調が出ているのに)

 真実を語って問いただせないのが、こうももどかしいとは。
 何度か唇を開いてみても、そこからは上手い嘘が生まれてくれなかった。

「……そうか。ならば、いい。あなたはもう、休んだほうがいいね」

 絞り出せたのは、せいぜいが虚ろな労りの台詞だけ。

「……はい」

 貴明はか細く囁いたみゆきの体を支え、帯を緩めて布団に横たえる。
 掛け布団を整えていると、みゆきが控えめに声をかけてきた。

「あの」

「どうした」

 貴明はすぐに手を止め、彼女の顔をのぞきこむ。
 みゆきは貴明の顔をまぶしそうに見つめると、右手を布団から出してきた。

「眠るまで……少しここにいていただいても、いいですか」

 ずきりと心臓の位置が痛み、貴明は絶句する。
 もはや何か上手い言葉をひねっている余裕はなくて、とにかく手を伸ばした。

 細い指を握りしめると、みゆきの顔がふわりとほころぶ。
 愛らしく、邪気のない、どこまでも愛しい顔。
 その顔を見て、貴明は確信する。

(やはり、俺は、間違った)

 自分は、帰ってくるべきではなかったのだ。
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