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第四章 百日限りの旦那様

26 北方前線基地・冬

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 訓練を終えたのち、北方で貴明が何を見たのか。
 正確に言葉で説明するのは難しい。

 覚えているのは、足下に雪を踏みしめる音。
 冷えすぎて、火傷のように痛む指先とつま先。
 荒い息。
 手袋ごしに、ぎりぎりと握りしめた剣の柄。

 そして、血の臭い。

『――起きて。早く、起きて』

 どこかでみゆきの声がする。

 息が苦しいのは、なぜだろう。重い布団でもかぶっているのだろうか。
 それにしても、あまりに重い。手足すらまともに動かない。
 貴明は浅い呼吸をし、身じろごうとする。

『起きて。早く。早く起きないと――お前の死が、来る』

「…………!!」

 みゆきでは、ない。
 そのことに気付いた瞬間、貴明は覚醒した。

「くっ……」

 重い。何かが自分にのしかかっている。
 思い切って蹴り上げ、はねのけた。

 ごろり、と横に転がったのは、人間だ。
 砂袋のように力なく、ぐったりとした、人間の体だった。
 白目を剥いた顔には見覚えがある。自分の部下だ。
 貴明は男の肩に手をかけ、強く揺さぶった。

「阿良々木……おい、阿良々木! 返事をしろ、阿良々木!」

 相手の反応は、ない。

(――死んでいる)

 受け入れがたい事実が、ひょいと心に入ってくる。
 貴明は浅い呼吸を繰り返しながら、周囲を見渡す。

 そこには地獄があった。
 雪をかぶった針葉樹林帯だが、自分の周囲には、ぽつぽつと黒っぽいものが目立つ。
 それらは残らず、軍服をまとった死骸だ。
 カーキ色の軍服を血で染めた、死体の山だ。

(俺は、死体の山に埋まっていた)

『上だ』

 呆然とする貴明の頭に、また、あの声が響いた。
 周囲の針葉樹が、貴明にだけ囁きかけてくる声だった。
 反射的に地面へ体を投げ出し、一回転してから飛び起きた。
 ととととっ、と軽快な音がして、さきほどまで貴明がいたところに何かが刺さる。

 あれは透明な針だ。
 四十センチほどの長さがあり、薄い鉄板なら悠々と貫く凶悪な針なのだ。
 転がった仲間の死体を軽々と貫き、凍った地面に縫い止める。

 貴明は白い息を吐き、腰に手をやる。
 まだ腰に軍刀がある。
 抜刀して頭上を見る。

 針葉樹がざわめいている。
 あの上に、敵がいる。

 木の枝に交じって、黒い毛むくじゃらの棒がさわさわ動く。
 あれは巨大な蜘蛛なのだ。
 邪法で生まれた機関車並みに大きな蜘蛛が、木々の上から自分たちを見張っている。
 神通力持ちにしか倒せない、戦艦の主砲並みの戦力を持った蜘蛛。

(生存者は……俺だけか)

 北方に着任して数ヶ月。
 最初にこの蜘蛛と小競り合いをしたときは、貴明も腰を抜かしかけた。
 親しく話し合った相手に針が突き立ったときは、目の前が真っ暗になりもした。

 だが、人の心は摩耗する。
 周囲の人員が瞬く間に入れ替わるのを見ているうちに、貴明の心は堅くなっていき、目は暗い光を帯びるようになった。

(みゆきは、今の俺を見て、俺だとわかるだろうか)

「瀬禅っ! よかった、生きてたかあ!!」

 木々の間から、聞き覚えのある上官の声が届く。
 貴明は、はっとして顔を上げた。

「坂巻少佐!! ご無事で!」

 足早に歩み寄ってくるのは、前線基地の指揮官だ。
 こんなときでも頼もしい笑みを浮かべて寄ってくる壮年の軍人に、貴明は胸をなで下ろす。

(少佐がご無事なら、大丈夫だ。神通力も、戦闘能力も、指揮能力もずばぬけている。この方さえ生かせば、何度でもやり直せる)

 貴明は頭上を警戒しながら、少佐のところへ駆け寄った。
 ぱらぱらと降ってくる針を刀で払い、少佐がいる木々の陰に身を潜める。

『そこにいれば、大丈夫だよ。しばらくは、大丈夫』

 目の前の木が囁きかけてくる。
 さっき貴明を起こしてくれたのも、木々の声だ。
 軍に入ったあとの訓練で、貴明の神通力は格段に研ぎ澄まされた。
 木々との感応による探索全般と天候予測、さらに、夜でもまったく迷うことなく森を行ける力。敵を討つために特化された感覚の鋭さはしばしば貴明の神経を傷めたが、そんなときに穏やかに声をかけてくれるのもまた、植物たちなのだった。
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