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第四章 百日限りの旦那様

27 最前線

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(蜘蛛の動きを封じたい。この辺りで、適切な土地はあるか)

 貴明が問うと、木は優しく囁く。

『私たちの住処の先に、深い崖がある。蜘蛛の足をへし折って、落としなさい』

(ありがとう)

 貴明は手袋をした手で木の幹を撫でて、鋭く言う。

「森の先に、崖があります! 自分が囮になりますので、追い込んでいただけますか!」

「いや、もう、やめよう!」

 少佐は、にっこり笑って答えた。

「は?」

 何を言われたのかわからず、無様な聞き返しをしてしまう。
 少佐はそんな貴明を見つめ、きゅっと口を三日月の形にして笑った。

「もうやめよう、瀬禅。俺はさっき、あいつの目をしみじみ見てみたんだが、思ったよりきれいじゃあないか?」

「少佐……」

 貴明はうめくように囁く。
 少佐はうっとりと頭上を見上げると、歌うように続けた。

「きらきら、ちかちか、まるでビー玉みたいで、俺は好きだなあ。好きだ……好きだ。俺はお前が、好きだよ?」

 少佐は立ち上がり、頭上の巨大な蜘蛛に向かって両手を広げる。
 貴明はぎょっとして彼を伏せさせようとしたが、少佐は低くうなって抵抗した。
 次の瞬間、とととっと少佐の顔面に無数の針が刺さった。

「少佐ッ!!」

 貴明は血を吐くように叫び、少佐を地面に引きずり倒す。
 少佐はびくびくっと痙攣したのを最後に、すっかり動かなくなった。
 顔面を刺した針は、後頭部まで突き抜けている。
 即死だろう。

『逃げて』

『逃げるんだ』

『走れ』

 周囲の木々が貴明に叫ぶ。
 貴明は少佐を放り出し、木の陰から走り出した。

 めきめき、ばきばきと凄まじい音を立てて、巨大な蜘蛛が木々の間から貴明の目の前に落ちてくる。
 透明な針がびっしりと生えた、真っ黒な蜘蛛だ。
 間近に見ると、小山のようにも思える。
 貴明は立ち止まる。すぐに木陰に逃げなくては、と思う。
 頭部にずらりと並んだ赤い目が、貴明をじっと見つめている。

(これが、少佐を魅了した、魔物の目)

 とっさに目を逸らそうとするが、数秒だけ視界に入ってしまった。
 それだけで、貴明の視界はぐんにゃりと歪む。

「っ……く……!」

 天と地が混じり合って境目をなくし、蜘蛛の姿もぐにゃぐにゃになって別の形を取り始める。
 柔らかな体を持った、人間の女のように見えてくる。
 長い透明なまつげの下から、蠱惑的な目が貴明を見つめてくる。

(これは、違う)

 貴明は、もうろうとしながらも足を踏ん張った。
 目の前にあるものは、幻覚だ。
 こんな女を自分は知らないし、美しいとも思わない。
 自分の心にいるのは、ずっとただひとり。

(みゆきだけだ)

 そう思った瞬間、体に力が戻る。
 貴明は一歩踏み出し、横薙ぎに剣を振るう。

「ぐ、ぎぃ○、※■×△ーーーぁ〓〓○△ゥゥ……!!」

 獣のようでもあり、人間のようでもある悲鳴が上がり、幻覚は蜘蛛に戻った。
 貴明の刃で二本の足をいっぺんに断ち切られ、蜘蛛はのたうち回る。

(今なら、仕留められる)

 貴明は剣を握り直す。
 傍らの木が、心持ち枝を下げてくれたような気がする。
 貴明はその枝を掴んでよじ登り、のたうつ蜘蛛の真上へ飛び下りた。
 刀を蜘蛛の頭に突き立てる。
 ぱきりと堅いものが砕ける感触があり、そのあとはずぶずぶと刃が押しこまれていった。

「ぎ……■ぎぎ、※〓ぅ……!!」

 蜘蛛はびくっと全身を硬直させ、唐突に残ったすべての足から力を無くす。
 壊れたおもちゃのように、巨大な蜘蛛が地面に沈んだ。

「っ……」

 貴明は蜘蛛に刺さった刀にすがってこらえ、蜘蛛の動きが止まるのを待って滑り降りた。
 全速力で蜘蛛と距離を取り、森を出て、小さな丘を越えて、やっと荒い息を吐きながら振り返る。
 ぴくりともしない蜘蛛の周囲に、仲間の蜘蛛たちが静かに集まり始めているのが見えた。
 蜘蛛たちはしばし死んだ仲間を見つめたのち、一斉に襲いかかる。
 めきめき、ばきばきと音を立てて、蜘蛛たちは仲間を食らい始める……。

「うっ」

 せり上がってくる吐き気を抑えながら、貴明はきびすを返して逃げた。
 逃げて、逃げて、逃げて、生き残った。

 その日、基地は貴明を残して空になり、貴明の階級はとんとん、と、二つ上がった。
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