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第五章 幸せの刻限

42 冷たい体、温かな刀

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 地獄の辞典には、地獄の住人たちが図入りで解説されている。
 名前、爵位、どのような姿で出現するか。
 どうやって呼び出すかすら、明確に書かれている。

 もちろん呼び出しのために必要な儀式や供物は、そうそう簡単に用意できるようなものではなかったけれど、こういうことは大した秘密ではないのだ、ということが興味深い。
 さらに興味深く思ったのは、地獄の貴族たちは、人間と取引して知識を教えてくれる、という点だ。

(西洋の魔物とは、交渉ができるんだわ。初穂の死神は……どうだろう。やっぱり、死神については資料が少なすぎる。落語の怪談なんかには、ちょっとしたことで騙されたり、寿命のロウソクを入れ替えても気付かない死神も出てくるけれど)

 ――一か八か、やってみるしかないだろうか。

 百日目に貴明を迎えに来た死神の前に出て、交渉を申し込む。
 いや、その方法では、貴明本人に邪魔をされてしまいそうだ。
 貴明はみゆきを巻きこんだ自分を異常に悔いている。

(ならば、どうにかして、貴明さんがいないときに死神と会うしかない)

 何度目かの同じ結論に達し、みゆきはため息を吐いて地獄の辞典を閉じた。
 貴明に隠し事をするなと言われたのに、彼を騙すようにして死神に会うだなんて。
 裏切りも裏切り、とんでもない裏切りだ。

 考えるだけで胸が痛んで心が沈みかけるが、やはり、やるしかないのかもしれない。
 何もせずに待っていたら、時間は過ぎていくだけなのだから……。

「……! そろそろ、時間だわ」

 図書館の大時計を見て、みゆきは思考の海から這い上がる。
 慌てて本を書架に戻し、大学図書館を出た。

 図書館の裏手にある林を抜ければ、すぐに女学校だ。
 貴明は女学校の門で待っているはず、と思って林へ向かったみゆきだが、数歩目でその足は止まってしまった。

(ひとだ。死んでいる)

 薄暗い林の中に、真っ白な骨が見えた。
 おそらくは林の木で首を吊ったのだろう。
 雨ざらしになって、すっかりきれいに現れてしまった真っ白なドクロが、薄闇にぽっかりと浮かんでいて――みゆきのほうを見る。

「みゆき」

「あ……たかあき、さん」

 みゆきは呆然とその名を呼ぶ。
 林の中に立っていたのは、いつもどおりの、軍装の貴明だ。
 もちろん、骨になってなんかいない。

 いや、そうではないのかもしれない。本当は骨が正しい姿なのかもしれない。
 でも、まだ、骨の姿に見えたのは一瞬だから。まだ、みゆきは信じる。

 みゆきは軽く息を吐いて、小走りで貴明に近づいた。

「お待たせしてしまいましたか?」

「いや。あなたがこちらにいるような気がしただけだよ」

 貴明はこともなげに言い、愛しげにみゆきを見下ろしてくる。
 軍帽で半ば隠された顔がなおさら美しく見え、みゆきはほんのりと頬を赤らめた。

「すごい! 気配でしょうか? 匂いだったら、ちょっと困りますが……」

 匂い、と聞くと、貴明は小さく噴き出す。
 優しく笑み崩れてしまう口元を手で覆い、貴明は語尾を震わせて言う。

「かわいいな、みゆきは。普段はしっかりしているのに」

「え……ず、ずっとしっかりしているつもりでした。十八ですもの、もう大人ですし」

「そうだね。しっかりしているとも」

「待ってください、今、子ども扱いしませんでした!? しましたよね!」

 子どもっぽくむきになるみゆきを、貴明は不意に抱きしめる。
 みゆきははっとしたが、林のおかげで周囲の視線は遮られる、と思うと体から力が抜けた。
 自然と二人の体は寄り添い、強い力でつなぎ止められる。

(つめたい体。心臓の音が……ない……)

 みゆきは貴明の胸に頬を押しつけながら、何度も確認したことをもう一度確認した。
 貴明はリボンで飾ったみゆきの髪をそっと撫でながら言う。

「子ども扱いなんか、していないよ。あなたは俺の、生涯ただひとりの妻だから」

「貴明さん……」

 心臓が一気に絞り込まれるような気持ちになる。
 それ以上何を言うこともできなくて、みゆきは貴明を抱き直そうとした。

 その拍子に、指先が何か温かいものに触れる。

(なんだろう? 貴明さんの体ではないけれど、生き物のような)

 みゆきがうっすらと目を開けて見ると、それは、貴明がいつも腰に下げている軍刀であった。
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