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第六章 死神を斬る
58 百日目【5】
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貴明は、はっとしてみゆきを見る。
みゆきは貴明の袖につかまりながらも、必死に死神を見つめていた。
幾人もの兵士が、見つめるだけで正気を失って戦闘不能に陥っていた相手だった。
一瞬、みゆきを案じて、貴明から血の気が引く。
が、みゆきは、死神の姿などには揺らがなかった。
むしろ、声を強くして続ける。
「あなたの狙いは終始、貴明さんだった。北で仕留めそこなった貴明さんを、ずっとずっと追ってきた。追ってきたのに、殺せなかった。おそらくは、私のせいで……」
「……みゆき?」
ぎょっとして貴明はみゆきの名を呼ぶ。
(この人は、すべて気付いている)
みゆきは続ける。
「あなたは死神なんかじゃない。北から来た魔物です。貴明さんにも、私たちにも呪いをかけ、幻を見せただけ。だから、貴明さんは、まだ死んでなんかいない!!」
心がぽかんと空白になる。
まさか、という思いが先に来る。まさか。
自分は確かに、北の地で死んだ。
死んだはずだが――本当に?
この魔物が幻を見せることは、何度も体験してきたではないか。
それにこの魔物は、いまだに貴明を殺したがっている。
それは、つまり……
貴明がまだ、生きているということだ。
あんまりな結論に、心に満ちていた感情が暴風に持ち去られたようになってしまった。
空になった場所に、じわりと沁みてくるものがある。
ほんのりと温かく、心地よい香りを放つ、何かの感情。
その感情の名を知る前に、死神がじゃりじゃりと牙をすりあわせた。
「そうだ、そう……そのとおり。お前はほんとうに、邪魔な女だなあ……。お前と繋がった、この男も!!」
死神は凶暴なうなりを上げて頭を振りたくる。
その顔が徐々に、徐々に変わっていく。
最初は男とも女ともつかない顔だったものが、はっきり男の顔になっていく。
両目が深く落ちくぼみ、秀でた鷲鼻が目立ち始める。
そり上げた頭。野性的な髭。異様に光る目つきで周囲を見渡す、その顔。
貴明は士官学校で、みゆきは新聞で見たことのある、その顔。
初穂の北方を攻めている光国の実権を握る、怪僧の顔だ。
「返せ……返せ、返せ……貴様が砕いた、我が呪具の欠片を!! それがなくては、我の北方支配が完遂されぬ!!」
死神、いや、怪僧に取り憑かれた魔物は、絶叫と共に針を吐く。
が、貴明とみゆきには当たらない。
「貴明さん!」
みゆきが強く囁き、たおやかな両手が頬に触れた。
次に、みゆきの唇と貴明の唇がふれあう。
甘やかな柔らかさのあとに、貴明の口内にはぶわりと血の臭いが広がった。
(みゆきの、血だ)
唇をかみ切ったのだろう。
彼女の舌が、彼女の血を貴明の口内に押しこんでくる。
躊躇いがちに受け入れると、途端に視界が鮮明になった気がした。
(見える。何もかもが、見える……!)
愕然とこちらを見ている船員たち。
船室の窓に鈴なりになった客たち。
祈るように、必死の瞳でこちらを見ている六朗。
甲板上のすべてが見える。
いや、そればかりではない。
真っ黒な波の下から、船を見上げている巨大な魔物たちの姿も見える。
完全な白目を剥いた魔物と――それを操っているであろ者の姿――遠く、はるか遠く、北方のさらに北、光国の邪悪なる祭壇の前で怒りに震えている怪僧の姿まで、見える!
どんな仕組みかはわからない。
まるで自分の目が千にも増えたかのようだ。
(これも、みゆきの神通力か)
貴明とみゆきは唇を離し、まるで初対面のような気持ちでお互いを見つめる。
みゆきの目がきらめいている。
その奥にも、何かが見える。
ああ、これは、貴明を思って百度、社に通っていたみゆきの姿だ。
そして……次に見えたのは、誰だ?
みゆきによく似た女が、巫女の姿で山中の社にお百度参りをしている。
険しい山道の途中で、巫女は遭難した男を見つける。
その男は、どことなく忍宮組の組長に似ている。
若き組長らしき男は崖から落ちたのか、瀕死の重傷である。
みゆきによく似た女は自分の手のひらを切って、組長に血を分ける……。
(みゆきの母上……?)
貴明が幻に向かって目をこらすと、幻の中から巫女が貴明を見上げた気がした。
みゆきとよく似た目で、巫女は微笑んでみせる……。
「……っ!」
そのとき、ぐらり、と、足下が傾いた。
幻に心奪われていた貴明は、とっさに足を踏ん張る。
船が、傾いている。
甲板に固定されていなかったものが、するすると滑り出す。
海が荒れているわけでもないのに、なぜだ?
みゆきは貴明の袖につかまりながらも、必死に死神を見つめていた。
幾人もの兵士が、見つめるだけで正気を失って戦闘不能に陥っていた相手だった。
一瞬、みゆきを案じて、貴明から血の気が引く。
が、みゆきは、死神の姿などには揺らがなかった。
むしろ、声を強くして続ける。
「あなたの狙いは終始、貴明さんだった。北で仕留めそこなった貴明さんを、ずっとずっと追ってきた。追ってきたのに、殺せなかった。おそらくは、私のせいで……」
「……みゆき?」
ぎょっとして貴明はみゆきの名を呼ぶ。
(この人は、すべて気付いている)
みゆきは続ける。
「あなたは死神なんかじゃない。北から来た魔物です。貴明さんにも、私たちにも呪いをかけ、幻を見せただけ。だから、貴明さんは、まだ死んでなんかいない!!」
心がぽかんと空白になる。
まさか、という思いが先に来る。まさか。
自分は確かに、北の地で死んだ。
死んだはずだが――本当に?
この魔物が幻を見せることは、何度も体験してきたではないか。
それにこの魔物は、いまだに貴明を殺したがっている。
それは、つまり……
貴明がまだ、生きているということだ。
あんまりな結論に、心に満ちていた感情が暴風に持ち去られたようになってしまった。
空になった場所に、じわりと沁みてくるものがある。
ほんのりと温かく、心地よい香りを放つ、何かの感情。
その感情の名を知る前に、死神がじゃりじゃりと牙をすりあわせた。
「そうだ、そう……そのとおり。お前はほんとうに、邪魔な女だなあ……。お前と繋がった、この男も!!」
死神は凶暴なうなりを上げて頭を振りたくる。
その顔が徐々に、徐々に変わっていく。
最初は男とも女ともつかない顔だったものが、はっきり男の顔になっていく。
両目が深く落ちくぼみ、秀でた鷲鼻が目立ち始める。
そり上げた頭。野性的な髭。異様に光る目つきで周囲を見渡す、その顔。
貴明は士官学校で、みゆきは新聞で見たことのある、その顔。
初穂の北方を攻めている光国の実権を握る、怪僧の顔だ。
「返せ……返せ、返せ……貴様が砕いた、我が呪具の欠片を!! それがなくては、我の北方支配が完遂されぬ!!」
死神、いや、怪僧に取り憑かれた魔物は、絶叫と共に針を吐く。
が、貴明とみゆきには当たらない。
「貴明さん!」
みゆきが強く囁き、たおやかな両手が頬に触れた。
次に、みゆきの唇と貴明の唇がふれあう。
甘やかな柔らかさのあとに、貴明の口内にはぶわりと血の臭いが広がった。
(みゆきの、血だ)
唇をかみ切ったのだろう。
彼女の舌が、彼女の血を貴明の口内に押しこんでくる。
躊躇いがちに受け入れると、途端に視界が鮮明になった気がした。
(見える。何もかもが、見える……!)
愕然とこちらを見ている船員たち。
船室の窓に鈴なりになった客たち。
祈るように、必死の瞳でこちらを見ている六朗。
甲板上のすべてが見える。
いや、そればかりではない。
真っ黒な波の下から、船を見上げている巨大な魔物たちの姿も見える。
完全な白目を剥いた魔物と――それを操っているであろ者の姿――遠く、はるか遠く、北方のさらに北、光国の邪悪なる祭壇の前で怒りに震えている怪僧の姿まで、見える!
どんな仕組みかはわからない。
まるで自分の目が千にも増えたかのようだ。
(これも、みゆきの神通力か)
貴明とみゆきは唇を離し、まるで初対面のような気持ちでお互いを見つめる。
みゆきの目がきらめいている。
その奥にも、何かが見える。
ああ、これは、貴明を思って百度、社に通っていたみゆきの姿だ。
そして……次に見えたのは、誰だ?
みゆきによく似た女が、巫女の姿で山中の社にお百度参りをしている。
険しい山道の途中で、巫女は遭難した男を見つける。
その男は、どことなく忍宮組の組長に似ている。
若き組長らしき男は崖から落ちたのか、瀕死の重傷である。
みゆきによく似た女は自分の手のひらを切って、組長に血を分ける……。
(みゆきの母上……?)
貴明が幻に向かって目をこらすと、幻の中から巫女が貴明を見上げた気がした。
みゆきとよく似た目で、巫女は微笑んでみせる……。
「……っ!」
そのとき、ぐらり、と、足下が傾いた。
幻に心奪われていた貴明は、とっさに足を踏ん張る。
船が、傾いている。
甲板に固定されていなかったものが、するすると滑り出す。
海が荒れているわけでもないのに、なぜだ?
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