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第六章 死神を斬る

59 旅路の果て

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「貴明さん……!! 海から……!!」

 みゆきが叫ぶ。
 わずかに遅れて、海面からいっせいに水柱が立つ。

 魔物の蜘蛛とよく似た、しかし、大きさばかりは百倍もあろうかという足が、海面から突き出していた。
 船の真下に、壮絶な大きさの魔物がいるのだ。

 中型の貨客船は、嵐の中の木の葉のように揺れる。
 甲板にはばしゃばしゃと海水が落ちてきた。

「貴、気張れ!! このままじゃ、船ごと沈むぞ!!」

 六朗の声が遠く聞こえる。
 海から出た足は、まだふらふらと空を切っている。
 貴明はいつの間にやら握っていたみゆきの手を、ぎゅっと握り直してから、放した。

 相変わらず船はひどく揺れているが、貴明とみゆきだけはその場に留まるのも、歩くのも、不思議と苦労しない。
 みゆきは自分の両手を強く組み合わせ、貴明を見送る。
 貴明は死神――いや、怪僧の憑依した魔物に歩み寄った。

「返せ……!!」

 怪僧は吠え、残った足で甲板を這いずるようにして貴明のほうへ突進してくる。
 貴明はもはや避けようともせず、軍刀を構えた。

「返せぇぇええええええええ!!」

 鬼気迫る怪僧の顔は、歪みすぎて、もはやひとのものではない。
 それを、斬り下ろす。
 真っ直ぐに――一息に。

 なんの手応えもなく、すとんと剣先が甲板に着いた。

「……天地神明に、逆らうことなかれ」

 何かに操られるように、貴明の唇から言葉がこぼれる。
 怪僧は、貴明の眼前でぴたりと止まっていた。

 歪みきった顔が貴明を睨む。
 飛び出した眼球が震え、分厚い唇が震えて、ぐんにゃりと歪んだ。
 歪み、崩れ、みるみるうちに粘土のような質感になったかと思うと、どしゃっと甲板にわだかまる。

 同時に、海から生えた足も痙攣する。
 痛みを感じてる様子ではあったが、海の魔物はそれでも必死の力で甲板に足の爪を立てた。
 何本もの蜘蛛形の足が、貨客船を抱えこむ。

 またも、船室のほうから悲鳴があがった。

「諦めぬぅ……諦めるわけにはいかぬぞぉ……」

 貴明とみゆきの足下、灰の山となった怪僧から、うめき声が響く。
 貴明は再度刀を構えようとしたが、その手をみゆきがそっと押さえた。
 ほとんど同時に、真っ白な空がごろごろと音を立てる。
 なんの音かは、直感的にわかった。

(――あのときと、同じ)

 帝都に戻った翌日。祝言の夜に、聞いたような音だ。
 そう思った直後、どどん、と重い音が響いて、辺りが閃光に包まれた。

「っ……!」

 貴明はとっさにみゆきをかばう。
 衝撃波が二人を襲い、さすがに立っていられなくなる。
 何度か甲板を転がり、ようやく重いロープの束につかまって止まった。
 腕の中で、みゆきが小さくうめく。

「あいたた……」

「無事か、みゆき」

 はっとして安否を気遣うが、みゆきはかすり傷ひとつないようだ。
 すぐに微笑んでうなずいてくれる。

 二人は互いに互いを支えるようにして、ゆっくりと立ち上がった。
 さきほどの閃光はすでに過ぎ去り、船は海と平行に戻っている。

「……雷、か……?」

 貴明はまだ少し信じられないような心地でつぶやいた。
 音と光の後に残ったものは、すっかり黒く焼け焦げた灰の山。
 もはや何か語ろうとはしない、元は魔物だったものだ。

 雷は神鳴りとも言う。
 初穂を守る結界とやらのおかげか、二人の思いがこの国の古い神に届いたのかはわからないが、雷がすべてを焼き尽くしたとしか思えない光景であった。
 さっきまで船を抱えこんでいた魔物の足も姿を消し、雪空は白く、海は黒く、ただ船だけがいくらかの損傷をとどめて北の海に浮いている。

 しばし呆然としていると、横からみゆきが語りかけてきた。

「信じられない……そんな気持ちですか?」

 まるで幼い頃に戻ったような気分で、貴明はみゆきを見下ろす。
 みゆきは少し心配そうで、それでもまっすぐに貴明を見ていた。
 暗い過去を見過ぎることもなく、不確定の未来を見過ぎることもなく、ただただ今の貴明を見ていた。
 貴明は、ほっとして言う。

「そうだな。そうかもしれない。何もかもが、ひっくり返ってしまったから」

 みゆきはじっと貴明を見上げながら、一言一言を大事に聞いてくれている。
 そんな様子も、幼いころからずっと同じみゆきだ。

(自分は、こういうこの人に、恋をしたのだ)

 貴明は、ふと、そんなことを思う。
 自分には、みゆきでなくてはならなかった。

 生まれたときから恵まれた環境とは言いがたく、その後も様々な、自身だけでは受け止めきれないようなことが山ほど起こったからこそ、みゆきでなくてはならなかった。
 どんなことも受け入れて、強く生きていく。
 そういうこの人でなくてはならなかった。
 自分が生きても、死んでも、きっと強く生きていってくれるこの人と、自分は共にいたいと思ったのだ。

「あなたは、信じられるかい? 俺がここで生きている、と?」

 愚問だな、とわかっていながら、貴明は問うてみる。

「はい」

 みゆきの返事は、思った通りのものだった。
 みゆきの大きな目は、みるみるうちに温かい涙で一杯になる。

「だって貴明さん、さっきの雷でも、透けて見えなかったですもの。それに……」

 そこまで言って、みゆきはぎゅっと貴明のことを抱きしめた。
 貴明もすぐに抱きしめ返す。
 みゆきはさも気持ちよさそうに目を閉じて、貴明の胸に耳を当てた。

 貴明の、心臓の位置に。

 みゆきはしばらくそうしていた。
 閉じた目からはぽろぽろと涙がこぼれ続け、彼女はやがて、震える声で言う。

「ほら、温かい音がしますよ」

「みゆき」

 その人の名を呼ぶ声が、みっともなく震える。
 でも、もう、いいのだ。
 格好よくとも、悪くとも。

 いつしか、貴明の瞳からも涙が落ちていた。
 木の甲板に、ぽとり、ぽとりと涙が落ちていく。
 その音はどこか、鼓動にも似ている。

 貴明はもう一度みゆきを抱き直すと、その頭に何度も頬を擦り付けた。
 そうして、長いこと言いたかったことを言う。

「ただいま」

「おかえりなさい、貴明さん」

 返ってきた言葉は、奇跡の言葉だった。
 死んだはずの心臓も動かしてしまうような、魔術めいた言葉だった。
 同時に、ただの、挨拶だった。
 これからは、何度でも聞ける、ただの挨拶。

 旅路の果てに貴明は、ただの温かい挨拶をしてくれるひとを、やっと手に入れたのだった。
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