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ローズ男爵令嬢

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 ローズ男爵家令嬢のマリリンは、病気がちな両親の代理で舞踏会に出席していた。
 その帰りの道中、混雑を避けて脇道に逸れ、林の一本道を走らせていたときだ。
 暗がりでふらふらとする女性が、道のど真ん中にいた。
 馬車が急停車する。
 マリリンは急いで扉を開くなり、叫んだ。
「まあ、アークライト夫人。どうなさったの! 」
 正気の沙汰ではない。暗がりで、足元さえ危うい道。土地勘のあるマリリンは危険な場所を避けているが、イザベラも同じとは限らない。いつ野盗に襲われるかも知れない。土手を転がり落ち、川へ転落する可能性も否定出来ない。
「まさか、歩いて帰るおつもり? 」
 彼女の靴もスカートも泥だらけ、ドレスは皺くちゃ、巻いた髪はほつれて、よれよれに腰元で畝っている。
 マリリンの問いかけにも、イザベラは放心したように目の焦点が合わない。
 もしや……ヒヤリとマリリンの心が冷えた。
「春といえど、夜はまだ冷えるわ。さあ、早く馬車に乗って」
 イザベラはぼんやりと頷いた。


「まさかアークライト子爵と喧嘩なさったの? 」
 イザベラが強姦魔にはどうやら遭っていないことを目視で確認したマリリンは、安堵しつつ、新たな疑問を口にした。
 図星をつかれたイザベラは、唇を戦慄かせて俯いた。
「まあまあ。子爵は一体、奥様に何をなさったのかしら」
「全て私が悪いのです」
 感情の起伏はどうにか落ち着きを取り戻したものの、続いてルミナスを襲ったのは激しい後悔だった。
 後ろめたさ全開で、イザベラに触れることを躊躇っている。
 いつも優しく宥める手は、宙空を彷徨い、やがて行き場をなくしズボンのポケットに仕舞われた。
 目線も合わせず、壁に凭れて遠巻きにいる。
 ルミナスはイザベラと距離を置いた。
 今夜は王宮に泊まろう。私は別の部屋で寝る。御者には使用人専用の部屋の手配をする。
 辿々しく告げると、彼は出て行く。
 扉の閉まる音のみが、静かに室内に響いた。
「あのような優しい方を怒らせて」
 愛してるなんて、彼にとっては単なるその場凌ぎだったろうが。そう言わせてしまった経緯が辛い。
 激昂するルミナスの姿が未だに脳にこびりついている。
「仕方がないわ。彼、冷静ではなかったもの」
 マリリンは同情したようにイザベラを窺う。
「だいぶ苛立っておりましたもの」
 キョトン、とイザベラの目が開きっぱなしとなった。
 彼が激怒したのは、イザベラが男と逢引きしていると勘違いしたからであって、大広間での他の貴族の前では、手馴れた紳士っぷりを大いに発揮していた。苛立ちなんて、チラリとも見せていない。
「あら、お気づきにならなかった? 」
 くすくす、とマリリンは鈴を鳴らすように笑う。
「あなた、未婚既婚問わず、狙われておりましたのよ」
 自分に群がってきた男達はいるにはいたが、いつしか姿を見せなくなっていた。
「あなたが気づかないくらい、アークライト卿は睨みで不埒な輩を追い払っておりましたものね。ふふふ、可笑しい」
 思い出したのか、マリリンはさらに鈴を振るように笑う。
「いつもは穏やかなお顔なのに。まるで地獄の番人のようだったわ。あなた、本当にお気づきではなかったの? 」
 イザベラはマリリンが誇張しているのだと、薄く笑う。
「スキャンダルなんてことになれば、家名に傷つきますもの」
「あら? あなた、本気で仰ってるの? 」
 怪訝に眉をひそめるマリリン。
 舞踏会であれほど妻に骨抜きになっていた子爵だが、どうやらイザベラには想いが通じていないらしい。
「アークライト卿の一方通行でもなさそうだし」
 イザベラも、ルミナスに甘えるような視線を向けていた。
 新婚特有の甘い雰囲気。
 ルミナスに懸想する若い娘が反感を持つのも致し方ない。
「お互い道は同じなのに、二人とも遠慮して脇道に逸れようとなさっているのね」
 何者であろうと入り込めない境界が出来上がっていた。
 だからこそ、何故、拗れているのかが見当つかない。
「これは、私が口を挟むと余計に拗れそうだわ」
 マリリンは賢い女性なので、的確に判断し、それ以上余計な話はしなかった。


「ここで結構です」
 林を抜けたところで、分かれ道となる。
 右に折れると、間もなく町に出て、しばらく走ればマリリンの屋敷が見えてくる。さらに先を進んだところが、ルミナスの屋敷だ。
「あら、子爵邸まで送りましてよ? 」
 イザベラは首を横に振る。
「私の屋敷にお寄りになる? 」
 またもやイザベラは首を横に振る。
「知り合いのところへ向かいます」
「まあ。どうやって? 」
 町に続く道なので、馬車が通ることには通る。
「荷馬車に頼んで、乗り継いで行きます」
「まあ。アークライト卿は、あなたにどれほど酷いことをなさったの? 」
 マリリンの声が引っ繰り返る。
「新婚の妻が屋敷に戻らないなんて、余程のことよ」
「このことは誰にも言わないでくれませんか」
「え、ええ。承知しましたわ」
 引き止めたところで、彼女が拒むのは明らか。下手に止めて、馬車から飛び降りられたら適わない。
 翠緑の瞳に宿る意思は強い。
 イザベラは馬車を降り、礼を述べると、迷うことなく左に折れた。
「あら。あちらの方角は誰の屋敷もないわ。確かあるのは、『貴族の監獄』だけ」
 マリリンは直感を働かせた。
「取り敢えず、王宮に戻ってちょうだい」
 すぐさま御者に命じる。
「アークライト卿は、今夜は王宮に泊まると伺ったわ。念のため、子爵にお伝えしておかないと」
 向きを変えた馬車は、王宮への道を駆け戻った。

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