あなたへの愛は時を超えて

cyaru

文字の大きさ
2 / 30

雨に濡れた女②

しおりを挟む
その日は朝から大雨だった。

寝床にしていた調理場はもう屋根にしていた布を滑ってきた雨水が如雨露のように流れ落ちていた。これだけの雨となれば魚市場は開かれない。魚市場が開かない時は食材がないという事実にコレットは頭を抱えた。

急いで仕立物を仕上げ、その金で青果店で買い物をせねばと考えながら、自分以外の朝食を作る。食事室となる部屋は義兄夫婦が寝所として使っているので、邪魔だと寄せられたテーブルに並べていく。それぞれの起床時間に合わせれば仕事が出来なくなる。


以前は「朝から冷たいスープ?!」と文句を言われ、全てを床に捨てられた事もある。
沸騰させれば1番目に起きて来た者に「火傷させる気か」と怒鳴られた。

だが彼らの意地の悪い所は、文句は言うがコレットが働かねば食べるものもないし、住む場所も無くなる事を知っている事である。口汚く罵る事は常でも身体への暴力は行わなかった。


テーブルに並べ終えると、そっと彼らの枕元のサイドテーブル代わりの木箱に湯の入った桶を置いていく。それから預かった仕立ての布地を濡らしてはいけないと朝早くから雨漏りを避けた場所で繕い物をするコレットに、珍しく早起きをした義兄嫁がドレスを突きつけてきた。


「貴女が貧乏な物ばかり食べさせるからサイズが合わなくなったわ。直して」
「解りました。では、こちらが終わったら取り掛かり――」
「は?何を言ってるの。私は今!直せと言ったの。貴女の洗濯が下手なせいで他のドレスは虱だらけなの。着るものも碌にないのよ?そんなに私に恥をかかせたいの?」


義両親も義兄夫婦も平民が利用する共同浴場には足を運ばない。
洗ってくれる者がいないからと言うのもあるが、利用料を払うだけの金もないのだ。

清拭すらしない彼らは虱に悩まされている。
衣類は洗濯をしているが、頭髪の中に虱を飼っている彼らに何を言っても聞く耳すら持ってはくれない。

コレットが髪を洗いますと言っても、桶に汲んだ湯で髪だけを洗われる事に抵抗を感じているし、清拭もメイド教育を受けたわけでもないコレットにされる事を穢れると言ってさせてくれないのだ。


「あと!起きた時の洗面の湯がぬるいわ」
「申し訳ございません」
「本っ当!これだから平民の貴族志向な愚図は迷惑なのよ」


ドレスを投げつけると義兄嫁は用意をした朝食をパンが固いとこぼしながら貪り始めた。


ドンドンと扉を叩く音に対応をすればはす向かいのご主人である。
日頃からコレットに対してだけでなく、隣近所にも高圧的な態度をとる義両親や義兄夫婦の行いに堪りかねて怒鳴り込んでくる者の対応もせねばならないのだ。

彼らは頭を下げる事をしない。それよりも印象の良いコレットに頭を下げさせればその場が収まる事をここ1年以上で学習したため、コレットに対応をさせるのだ。





「仕立てたものを持っていきますので」
「全く、年寄りに早く食事をしろと言う催促かしら」
「いえ、戻れば片付けますのでゆっくりで結構です」
「当たり前でしょう?ホント、気の利かない娘ね。だからディッドも帰ってこないのよ。あと取りでも作ればまだ可愛げがあるものを」


跡取りなど作れる筈がない。彼らと同じ部屋にも等しいのに行為に及べるはずがない。
何より、ディッドがもう1年半もまともに家に帰ってこないのだ。

コレットは逃げ出したくて堪らない。
しかし、結婚前に貯めた金も使い果たし、住み込みの仕事は結婚していれば断られる。
どこにも行くところはなかったし、ディッドとて何時までも「宿直勤務」が続けられる筈がない。そうなれば家に戻った時に自分がいなくてはと何とか自分を奮い立たせてきたのだ。

雨の中、襤褸の外套を羽織りコレットは仕立て屋に向かった。






ザーザーと雨の音だけがする。

仕立て屋に行くまでの道のり。
辻馬車にすら乗る金のないコレットは歩く以外に移動手段がない。
その途中で足が止まった。

昼前だと言うのに愛を交わすためだけの宿屋から出てきた男女が呼びつけた馬車に乗り込んでいるのを見て、コレットは動けなくなった。女性には見覚えがなかったが男性は紛れもなくディッドだった。

雨の音以外に聞えてくるのは、2人の会話だった。

「今日は当直なんでしょう?次は何時?」
「4日後だ。また指名をするから朝まで頼むよ」
「貴方、激しいからいつもこんな時間まで寝ちゃうものね。フフフ」


ドサッと外套の中に抱えていた仕立物が音を立てて落ちた。
その音にディッドは顔をコレットに向けた。カっと一瞬目が見開いた気がしたが、ディッドの頬を包み込んだ女性の手は「余所見をするな」と言わんばかり。今度は唇を重ね合わせ始めた。


コレットは、ディッドが帰った時に両親や兄夫婦に少しで良いから家にお金を入れてくれるように頼んだのだが、ディッドは面倒そうに「自分で言え」とコレットに言った。
その態度に今までにないディッドを感じてはいた。

「宿直勤務」が増え、家に入れる給金の額が減り始めてからディッドに女の影も感じてもいた。

宿直の夜勤も全てが嘘ではないのだろう。騎士団には仮眠室があり騎士であれば自由に使える。ディッドはそこで寝泊まりをしながら、休みの日はこうやって女性と過ごしていたのだろう。


――あぁ、馬鹿馬鹿しい――

コレットの心の中でプチンと糸が切れる音がした。


女性を乗せた馬車が走り出すと、そこに残ったディッドがコレットに向かって歩いてきた。
ゆっくりと視界の中で大きくなっていくディッドを見るコレットの瞳には涙が溢れていたが、その涙はディッドへの想いと共に雨で上書きされるように流れて落ちていった。


「コレット‥‥どうしてここに」

――どうして?この人は何を言ってるの?――

朝から深夜まで食事すらまともに取れない状態で働いている自分に問うているのだろうか。何故そこまで働かねばならないのかこの男は知っていて問うているのだろうか。

愛がすっかりと消えたコレットは「ディッド」という名を呼ぶ事すら嫌悪感を覚えた。

「彼女は上司の妻なんだ。上司から頼まれて迎えに来ただけなんだ」

手を伸ばし、フードを被せようとしたディッドの手をコレットは弾いた。
雨で濡れた手は小気味よい音を立てた。

「バカにしないで。会話は聞こえてたのよ。朝まで激しい?何が激しいの?私は‥‥私は…初夜すら終わっていないのに」

「あー。聞こえてたのか。チッ」

ディッドは濡れた前髪を後ろに流しながら目を泳がせる。


「でも遊びなんだ。俺も男だから発散をしないといけないのは判るだろう?でもあの家じゃとてもデキる雰囲気じゃないし…」

「だから何?なら浮気をしても許されると言うの?私が陽が昇る前から市場で働いて、夜も繕い物をして生活費を稼ぐ間…貴方は温かい部屋でお腹いっぱい食事をして彼女とお楽しみなんて滑稽だわ。貴方の家族は散々反対をしておいて好き放題。何もかも私に押し付けておいてよくそんな事が言えるわね!逆なら許してくれると言うの?」

「コレットはそんな女じゃないじゃないだろう?だから遊びなんだって。家に金も入れているし今夜も当直でちゃんと働いているじゃないか。機嫌直せって。あ~ぁ。コレ濡れちゃったな」

落とした仕立物を拾い上げたディッドは、言葉にすれば「ごめんな」とでも言いたげに濡れた顔をくしゃりとゆがめた。
しおりを挟む
感想 103

あなたにおすすめの小説

誰にも口外できない方法で父の借金を返済した令嬢にも諦めた幸せは訪れる

しゃーりん
恋愛
伯爵令嬢ジュゼットは、兄から父が背負った借金の金額を聞いて絶望した。 しかも返済期日が迫っており、家族全員が危険な仕事や売られることを覚悟しなければならない。 そんな時、借金を払う代わりに仕事を依頼したいと声をかけられた。 ジュゼットは自分と家族の将来のためにその依頼を受けたが、当然口外できないようなことだった。 その仕事を終えて実家に帰るジュゼットは、もう幸せな結婚は望めないために一人で生きていく決心をしていたけれど求婚してくれる人がいたというお話です。

婚約者の番

ありがとうございました。さようなら
恋愛
私の婚約者は、獅子の獣人だ。 大切にされる日々を過ごして、私はある日1番恐れていた事が起こってしまった。 「彼を譲ってくれない?」 とうとう彼の番が現れてしまった。

愛される日は来ないので

豆狸
恋愛
だけど体調を崩して寝込んだ途端、女主人の部屋から物置部屋へ移され、満足に食事ももらえずに死んでいったとき、私は悟ったのです。 ──なにをどんなに頑張ろうと、私がラミレス様に愛される日は来ないのだと。

今日結婚した夫から2年経ったら出ていけと言われました

四折 柊
恋愛
 子爵令嬢であるコーデリアは高位貴族である公爵家から是非にと望まれ結婚した。美しくもなく身分の低い自分が何故? 理由は分からないが自分にひどい扱いをする実家を出て幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱く。ところがそこには思惑があり……。公爵は本当に愛する女性を妻にするためにコーデリアを利用したのだ。夫となった男は言った。「お前と本当の夫婦になるつもりはない。2年後には公爵邸から国外へ出ていってもらう。そして二度と戻ってくるな」と。(いいんですか? それは私にとって……ご褒美です!)

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

俺の妻になれと言われたので秒でお断りしてみた

ましろ
恋愛
「俺の妻になれ」 「嫌ですけど」 何かしら、今の台詞は。 思わず脊髄反射的にお断りしてしまいました。 ちなみに『俺』とは皇太子殿下で私は伯爵令嬢。立派に不敬罪なのかもしれません。 ✻ゆるふわ設定です。 気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。 ✻R-15は保険です。

従姉の子を義母から守るために婚約しました。

しゃーりん
恋愛
ジェットには6歳年上の従姉チェルシーがいた。 しかし、彼女は事故で亡くなってしまった。まだ小さい娘を残して。 再婚した従姉の夫ウォルトは娘シャルロッテの立場が不安になり、娘をジェットの家に預けてきた。婚約者として。 シャルロッテが15歳になるまでは、婚約者でいる必要があるらしい。 ところが、シャルロッテが13歳の時、公爵家に帰ることになった。 当然、婚約は白紙に戻ると思っていたジェットだが、シャルロッテの気持ち次第となって… 歳の差13歳のジェットとシャルロッテのお話です。

処理中です...