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シマネコハウスを退職

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「エルシー嬢。何をむくれている」

「むくれてなど居りません。生まれつきこの顔です」

「そうか。その顔もまたいいな。だが俺は笑った顔が一番可愛いと思うがな」

「可愛くなどありません。ご冗談はほどほどになさってくださいませ」


昨日の夕食の後、わたくしはお父様に「トマフィー国に行く。反論は無駄だよ」と強く言われてしまいました。お父様は判っていないのです。お父様もわたくしも10年近く騙されたと言うのに!

隣でニコニコと笑っておられるクリス様だって本当の笑顔かどうか判りません。
ルシオン様だって‥‥いつもわたくしに笑ってくださっていたのですから。

クリス様はわたくしの事を可愛いと仰いますが、ルシオン様だって仰ってました。
侯爵令嬢のシャーロット様だって学園では聡明でお優しくて…低位貴族であってもなんら変わらぬ対応をしてくださっていたし、あの時は涙まで流されたのにわたくしを騙していたのです。

第三王子のベルファン殿下だって、シャーロット様の事をあんなに思っていると仰っていたのにデリロア様と駆け落ちだなんて。嘘ばかりです。

わたくしは牢に入れられ、鞭で打たれ…
誰の事も信じなければこんな足にはならなかったのに。


今だってそうです。ミリーに教えてもらって4年間頑張って来たのに。
まだ未熟者だけれど、子守だって話し相手だって煙突掃除だって出来るようになったのにシマネコハウスを辞めなければならないなんて。

「そうか…頑張ってくれていたしエルシーちゃんならってお客もいたんだけど。物騒な世の中になったものだ。だけど戻ってきたらいつでも声をかけておくれ。エルシーちゃんなら直ぐに雇うから」

「すみません。お仕事も色々教えて頂いたのに」

「気を落とさない。ほら、皆笑ってるエルシーちゃんが大好きなんだから。あ、そうそう。これは御父上へのお見舞いと餞別よ。それから‥‥こっちは日割りになっているけど給金も課長から貰ってね」


シマネコハウスの社長さんから手渡された袋には銅貨や銀貨が沢山入っていました。経理部長さんから手渡された給金は今までの1か月分よりも多いお金が入っています。
日割りなら封筒に入れるまでもないくらいですのに。

「こ、これは多すぎます!ちゃんと計算をしてくださいませ」

「いいんだよ。ママネコ社長から慰労金も入ってるから多く見えるだけ。取っておきなさい」

「でもっ…」

「エルシーちゃん。ママネコ社長の顔を立ててやって。ね?」

「ありがとう…ございま…うぅぅっ…」


わたくしの肩を黙って撫でてくださるシマネコハウスの社長さん。
40代の女性なのですが、乳母のミリーの紹介だと言うと快く雇ってくださり、不慣れなわたくしに付きっ切りで教えてくださって育てて下さったのです。まるで、お母様のような方で御座いました。


「お世話になりました(ぺこり)」

「元気でね。近くまできたら必ず顔を見せに来てよ?」

「はい…。お仕事に出られている皆さまにもよろしくお伝えくださいませ」


クリス様がお金の入った袋をカバンに入れて持ってくださり、わたくしは来た道を引き返します。


「エルシー嬢。泣いた顔も可愛いが、俺は笑った顔が一番可愛いと思う」

「知りません。クリス様の前ではもう笑いません」

「つれないなぁ。でもやる気が出てきた」

「なんのやる気ですの?」

「エルシー嬢を笑わせるってやる気」


呆れてしまいます。そんな事にやる気を使うなんて。
しかし、のほほんと歩いているように見えてクリス様は時折、何を探しているのかは存じませんがキョロキョロと視線を動かしておられるのを知っております。

そんな時、トンっと軽く横に体を突かれました。転ぶまではいかずとも何だろうと斜めに足を出した時、クリス様のわきに男性が前のめりに飛び込んで転がったのです。

――後ろに目が付いていらっしゃるの?――

しかし、わたくしはその男性を見て体が強張ってしまいました。男性の手に握られていたのはナイフ。しかもしっかりと転んだ状態でも刃を出した状態で握られていたのです。

クリス様が男性の手首を踏ん付けると、ナイフが手から離れます。
そのナイフを手にしたクリス様は何をするかと思えば突然しゃがみ込んでしまいました。

「殺すぞ?」

っと聞こえた気がいたしましたが、お顔は笑顔。但し目は笑っておりません。
ナイフを転んだ男性の目の前の地面にグサリと刺すと男性の足元に水溜まりが見えます。先ほど歩いた時には水溜まりはなかった気がしたのですが、それも気のせいだったのでしょうか。


「ここは異臭がする。向こうに行こうか」

「は、はい…」


クリス様に手を引かれて、転んだ男性を振り返りつつもその場を立ち去ります。


「憲兵さんを呼ばなくていいのですか?」

「大丈夫。街に落ちているゴミはちゃんと捨ててくれるから」

「いえ、あの…ゴミって…」

「トマフィー国は急に転ぶヤツなんていないから安心しろ」


もう一度振り返ると、水溜まりだけが残り男性の姿が消えておりました。
逃げてしまったのでしょうか。
だとすれば、またお父様が襲われるかも知れないと思い体が震えて参ります。


「大丈夫だ。レオパス殿にはちゃんと護衛をつけている」

「え?護衛…ですがジョイスさんは…」

「ジョイスではないが、護衛は3人つけている。大丈夫だ」

――3人って…まさか護衛の方、沢山いますの?――


付近を見回しますが、そう思うと男性も女性も。高齢の方も抱っこされている赤子でさえも護衛なのでは?と勘繰ってしまいます。


「あの…クリス様には護衛の方は?」

「エルシー嬢の護衛なら一人いるが、俺にはいないな」

「えぇっと…逆ではなくて?いえ、逆でも1人は少ないのではありませんか?」

「逆ではない。俺に護衛は必要ないからな。掃除係なら数人いるかも知れない」

「では、その方は…後方に?」

「いや?護衛はエルシー嬢の手を引いているが、他は臨機応変だ」


――それ、本気なのでしょうか――


クリス様のお手前は拝見した事は御座いませんし、拝見しても剣の腕前の良し悪しは判りませんが言葉が本当だとすれば、クリス様を守る方は誰もいないと言う事になります。


トマフィー国は少数精鋭なのでしょうか。それとも人材不足なのかしら。
人材不足ならニレイナ夫人のお屋敷の護衛が王宮よりも多い?何故に掃除係?
わたくし、考えると混乱してしまいました。
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