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49:ジュリアスの乱心
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クローゼットの中、ジュリアスは淡い黄色のワンピースを手に取り姿見鏡の前で語りかけた。
かの日、粗相を受け止めてくれたドレスはもう廃棄されていて、自分が見繕ったワンピースだ。しかし弁償するのであればドレスだと言われ、トルデリーゼの手に渡る事はなかった。
幼かったジュリアスにはドレスもワンピースも自分が着れば裾が床に届く。
判断が付かなかったあの頃から6年間、毎日この姿見鏡の前でトルデリーゼと語り合ってきた。
唇を重ね、体を重ねた事はもう数えきれない。
ジュリアスの中で、トルデリーゼは姿見鏡の中で何度も淫靡な姿でジュリアスを天国に誘った。
ジュリアスには鏡の中のトルデリーゼと現実のトルデリーゼは同じだったのだ。
鏡の中のトルデリーゼは毎日ジュリアスに助けを求めた。
ジュリアスはそれに応えるために鍛錬を欠かさなかった。
「ねぇ、オリバー。一太刀で仕留めるにはどうればいいの?」
「殿下、怖い事を聞かないでくださいよ」
「教えてよ。万が一僕が賊に襲われたら急所を狙えば救援が来るまでに何人かは倒せるでしょう?」
「それはそうですけど…そんな日は来ません。私が!お守りします」
「守られるだけじゃダメだ。僕は守る側になりたいんだ」
誰の事を言っているのか。オリバーには見当がついていた。
狂信的にすら感じるトルデリーゼへの執着は時折年齢を超えてオリバーですらゾッとした。
「胸を一突きすればいいかな」
剣を突き出すような仕草をするジュリアスにオリバーは真面目に答えてしまった。
「胸は無理です。もうすぐ習うと思いますが肋骨があり早々に剣は突き刺せません。仮に運よく突けたとしても今度は剣が抜けませんし骨で刃こぼれをするので2人目の賊が斬りかかってくれば間に合いません」
ジュリアスは成長し、兄と肩を並べる背丈にまでなった。
恐らく対峙すれば上の2人の王子よりも遥かに腕力も持久力もそして真摯に向き合っただけ技術も上だろう。オリバーはそのうち仕出かす気がして、いつしかジュリアスに剣の稽古をつける時は敢えて剣を持たせず、瞑想や体幹を鍛えるための基礎に重点を置いたくらいだ。
そんなオリバーの杞憂は現実のものとなって表れた。
姉のリーゼロッテが年下の部下で公爵家嫡男のバルタザールに見初められ婚約する事になった。バルタザールにも似た年上の女性への執着心。ジュリアスを見ていると姉のリーゼロッテはバルタザールから逃げる事は無理だろうと感じた。
やっとその姉が年齢という壁を乗り越え、バルタザールとの本当の婚姻を決意した日。
オリバーはその日、仮眠室で束の間の休息を取っていた。
「副長!副長!起きてください!」
「どうしたぁ?」
「殿下がいないんです!護衛の兵が腱を斬られ重傷です」
「なんだって?!」
オリバーはジュリアスの宮の中をくまなく探し回った。だがどこにもジュリアスの姿がない。
まさかと思いつつ、アルフォンスの別荘に兵を連れて向かった。
アルフォンスの別荘に忍び込むのはジュリアスにとって初めてではない。
門番の兵は面倒だが、裏口は緩いのだ。そして使用人達は朝からワインを飲んでご機嫌。裏木戸の鍵がかかっていない事も多かった。
そっと忍び込んで、屋敷の中に入るために物置となっている部屋の窓の鍵が壊れている事も知っていた。勿論覗き部屋がある事も知っていた。
――なんだ?この穴?――
ジュリアスが覗くとそこは湯殿だった。
カッと頭に血が上る。トルデリーゼの湯あみを覗いていたのだと思うと言いようのない怒りに襲われた。
だが何度か忍び込み、アルフォンスがその穴からトルデリーゼを覗き込み悶えている様を見て、ジュリアスは少しだけホッとした。
トルデリーゼは街に出て全てを済ませてこの別荘では湯殿は使わないし、食事もしない。
茶すら飲まないトルデリーゼ。何故かと思っていたが天井裏に潜り込んだ時に侍女のリゼルが言っていたのだ。「この家で用を足す事がないように」と。肝心な部分が見られない兄。
そんな兄の滑稽な姿を天井裏で見ていたジュリアスはやはり兄にトルデリーゼは勿体ないと感じた。
――だからトルデリーゼは助けてって言ってたんだ――
「来たよ。リーゼ」
忍び込んだ覗き部屋から壁の扉を開き、そこに見えた書棚の裏を横にずらした。
「でっ…殿下?!えっ?どうして?」
突然動き出した書棚にも驚いたが、現れたジュリアスにトルデリーゼは更に驚いた。
「リーゼ、僕と逃げよう?絶対に幸せにするよ」
「殿下、何を仰っているのです」
「毎晩言ってたじゃないか‥‥僕に助けてって泣いて縋って。僕、リーゼを助けるために強くなった。あの頃のように守ってもらうんじゃない。守れるようになったんだ」
「毎晩縋ってって…それはわたくしではありません。殿下?」
「何を言ってるんだ。リーゼ。僕だけだって何度も何度も…唇だって毎晩重ねただろう」
「殿下!お気を確かに!いったいどうなされたのです?」
「リーゼ。どうして?僕に助けてって言ったのは嘘なの?僕を毎晩弄んだの?」
「それはわたくしではありません!どうなさったのですか!」
「ねぇ、リーゼ…」
ジュリアスが伸ばした手をトルデリーゼははたいてしまった。
ジュリアスの動きが止まった。そしてゆっくりとはたかれた手を眺めた。
「僕を拒絶するの?どうして?そうか…お前、リーゼじゃないんだ。本物のリーゼを何処に隠した?」
ゆっくりと迫って来るジュリアスからトルデリーゼとリゼルは1歩、1歩と後ろに下がった。
「ねぇっ!どこにやったの!」
「きゃぁぁ!」
飛び掛かってきたジュリアスにリゼルが悲鳴を上げて倒れた。トルデリーゼはジュリアスの剣の先を首筋に当てられ、皮膚から血が順を追うように垂れさがっていく。
「どうした!?なにかあったのか!」
扉が開き、入って来たのはアルフォンスだった。別荘に到着したばかりなのだろう。
いつもは帯剣している剣はぶら下げていない。
だが、首筋に剣を当てられているトルデリーゼを見てジュリアスに飛び掛かってきた。
「トルデリーゼ!逃げるんだ!向こうの部屋へ!早く!」
ジュリアスの手を掴んだアルフォンスはトルデリーゼに向かって叫んだ。
しかし、子供だと侮っていたジュリアスは既に14歳。腕力は既にアルフォンスを上回っていた。
足払いをしてアルフォンスを転ばせると、ジュリアスはトルデリーゼにまた歩み寄ってきた。
扉には隠れるようにして別荘の使用人の姿が見えるが、役に立ちそうにない。
「こ、来ないで‥‥」
「リーゼ、リーゼは何処?僕のリーゼは何処にいる?」
「ジュリアス、やめろ!」
後から羽交い絞めにしようとしたアルフォンスをジュリアスは振り向きざまに剣を下段から振り上げた。
真上に上がった剣は勢いを付けてそのまま下に振り下ろされるが下りきる前にジュリアスの剣を握る手をアルフォンスの手が掴んだ。
「トルデ‥‥リーゼッ…早くっ!逃げろッ!」
「五月蠅いんだよ!こンの!老害がぁ!!」
ジュリアスに蹴り飛ばされたアルフォンスは勢いを付けて壁に転がった。
「アルフォンス殿下っ!!」
「あ、リーゼ。ここにいたんだ。探したんだよ。僕」
ジュリアスがトルデリーゼに向かって血で染まった顔で微笑んだ。
時間にして本当に僅かな時間の出来事。外で待機をさせられていた護衛の兵士が部屋に入って来るとジュリアスは兵士にやり投げのように剣を投げ、トルデリーゼの腕を掴むと引きずるようにして部屋から飛び出した。
恐怖と驚きで足がもつれながらもトルデリーゼは抵抗したが、ジュリアスの手は解けない。
使用人達はおどろおどろしい様相のジュリアスから遠ざかるように道を作り、護衛の兵士が上の階に上がった事で主が留守の馬の手綱を取るとジュリアスは「乗って?」トルデリーゼに騎乗を命じた。
「殿下……」
「足が痛いの?兄上にやられたの?」
コテンと首を傾げ、出会った頃のようなあどけなさでジュリアスが問う。
引きずられながら勢いよく階段を降りた事でトルデリーゼは足を痛めていた。
器用に騎乗したジュリアスはトルデリーゼの腕を離さない。そのまま引き上げられ馬の背に腹ばいにさせられるとジュリアスは馬を走らせた。
オリバーが兵を連れて別荘に到着した時、別荘の中は騒然としていた。
階段を駆け上がり、至る所に血痕が飛び散る部屋。
そこで見たアルフォンスにはまだ息があるが致命傷にもなりえるほどの深く大きな傷が2カ所。
夥しい出血量と合わせ、蒼白な顔。助かるのは万に一つあるかないか。オリバーにはそう見えた。
かの日、粗相を受け止めてくれたドレスはもう廃棄されていて、自分が見繕ったワンピースだ。しかし弁償するのであればドレスだと言われ、トルデリーゼの手に渡る事はなかった。
幼かったジュリアスにはドレスもワンピースも自分が着れば裾が床に届く。
判断が付かなかったあの頃から6年間、毎日この姿見鏡の前でトルデリーゼと語り合ってきた。
唇を重ね、体を重ねた事はもう数えきれない。
ジュリアスの中で、トルデリーゼは姿見鏡の中で何度も淫靡な姿でジュリアスを天国に誘った。
ジュリアスには鏡の中のトルデリーゼと現実のトルデリーゼは同じだったのだ。
鏡の中のトルデリーゼは毎日ジュリアスに助けを求めた。
ジュリアスはそれに応えるために鍛錬を欠かさなかった。
「ねぇ、オリバー。一太刀で仕留めるにはどうればいいの?」
「殿下、怖い事を聞かないでくださいよ」
「教えてよ。万が一僕が賊に襲われたら急所を狙えば救援が来るまでに何人かは倒せるでしょう?」
「それはそうですけど…そんな日は来ません。私が!お守りします」
「守られるだけじゃダメだ。僕は守る側になりたいんだ」
誰の事を言っているのか。オリバーには見当がついていた。
狂信的にすら感じるトルデリーゼへの執着は時折年齢を超えてオリバーですらゾッとした。
「胸を一突きすればいいかな」
剣を突き出すような仕草をするジュリアスにオリバーは真面目に答えてしまった。
「胸は無理です。もうすぐ習うと思いますが肋骨があり早々に剣は突き刺せません。仮に運よく突けたとしても今度は剣が抜けませんし骨で刃こぼれをするので2人目の賊が斬りかかってくれば間に合いません」
ジュリアスは成長し、兄と肩を並べる背丈にまでなった。
恐らく対峙すれば上の2人の王子よりも遥かに腕力も持久力もそして真摯に向き合っただけ技術も上だろう。オリバーはそのうち仕出かす気がして、いつしかジュリアスに剣の稽古をつける時は敢えて剣を持たせず、瞑想や体幹を鍛えるための基礎に重点を置いたくらいだ。
そんなオリバーの杞憂は現実のものとなって表れた。
姉のリーゼロッテが年下の部下で公爵家嫡男のバルタザールに見初められ婚約する事になった。バルタザールにも似た年上の女性への執着心。ジュリアスを見ていると姉のリーゼロッテはバルタザールから逃げる事は無理だろうと感じた。
やっとその姉が年齢という壁を乗り越え、バルタザールとの本当の婚姻を決意した日。
オリバーはその日、仮眠室で束の間の休息を取っていた。
「副長!副長!起きてください!」
「どうしたぁ?」
「殿下がいないんです!護衛の兵が腱を斬られ重傷です」
「なんだって?!」
オリバーはジュリアスの宮の中をくまなく探し回った。だがどこにもジュリアスの姿がない。
まさかと思いつつ、アルフォンスの別荘に兵を連れて向かった。
アルフォンスの別荘に忍び込むのはジュリアスにとって初めてではない。
門番の兵は面倒だが、裏口は緩いのだ。そして使用人達は朝からワインを飲んでご機嫌。裏木戸の鍵がかかっていない事も多かった。
そっと忍び込んで、屋敷の中に入るために物置となっている部屋の窓の鍵が壊れている事も知っていた。勿論覗き部屋がある事も知っていた。
――なんだ?この穴?――
ジュリアスが覗くとそこは湯殿だった。
カッと頭に血が上る。トルデリーゼの湯あみを覗いていたのだと思うと言いようのない怒りに襲われた。
だが何度か忍び込み、アルフォンスがその穴からトルデリーゼを覗き込み悶えている様を見て、ジュリアスは少しだけホッとした。
トルデリーゼは街に出て全てを済ませてこの別荘では湯殿は使わないし、食事もしない。
茶すら飲まないトルデリーゼ。何故かと思っていたが天井裏に潜り込んだ時に侍女のリゼルが言っていたのだ。「この家で用を足す事がないように」と。肝心な部分が見られない兄。
そんな兄の滑稽な姿を天井裏で見ていたジュリアスはやはり兄にトルデリーゼは勿体ないと感じた。
――だからトルデリーゼは助けてって言ってたんだ――
「来たよ。リーゼ」
忍び込んだ覗き部屋から壁の扉を開き、そこに見えた書棚の裏を横にずらした。
「でっ…殿下?!えっ?どうして?」
突然動き出した書棚にも驚いたが、現れたジュリアスにトルデリーゼは更に驚いた。
「リーゼ、僕と逃げよう?絶対に幸せにするよ」
「殿下、何を仰っているのです」
「毎晩言ってたじゃないか‥‥僕に助けてって泣いて縋って。僕、リーゼを助けるために強くなった。あの頃のように守ってもらうんじゃない。守れるようになったんだ」
「毎晩縋ってって…それはわたくしではありません。殿下?」
「何を言ってるんだ。リーゼ。僕だけだって何度も何度も…唇だって毎晩重ねただろう」
「殿下!お気を確かに!いったいどうなされたのです?」
「リーゼ。どうして?僕に助けてって言ったのは嘘なの?僕を毎晩弄んだの?」
「それはわたくしではありません!どうなさったのですか!」
「ねぇ、リーゼ…」
ジュリアスが伸ばした手をトルデリーゼははたいてしまった。
ジュリアスの動きが止まった。そしてゆっくりとはたかれた手を眺めた。
「僕を拒絶するの?どうして?そうか…お前、リーゼじゃないんだ。本物のリーゼを何処に隠した?」
ゆっくりと迫って来るジュリアスからトルデリーゼとリゼルは1歩、1歩と後ろに下がった。
「ねぇっ!どこにやったの!」
「きゃぁぁ!」
飛び掛かってきたジュリアスにリゼルが悲鳴を上げて倒れた。トルデリーゼはジュリアスの剣の先を首筋に当てられ、皮膚から血が順を追うように垂れさがっていく。
「どうした!?なにかあったのか!」
扉が開き、入って来たのはアルフォンスだった。別荘に到着したばかりなのだろう。
いつもは帯剣している剣はぶら下げていない。
だが、首筋に剣を当てられているトルデリーゼを見てジュリアスに飛び掛かってきた。
「トルデリーゼ!逃げるんだ!向こうの部屋へ!早く!」
ジュリアスの手を掴んだアルフォンスはトルデリーゼに向かって叫んだ。
しかし、子供だと侮っていたジュリアスは既に14歳。腕力は既にアルフォンスを上回っていた。
足払いをしてアルフォンスを転ばせると、ジュリアスはトルデリーゼにまた歩み寄ってきた。
扉には隠れるようにして別荘の使用人の姿が見えるが、役に立ちそうにない。
「こ、来ないで‥‥」
「リーゼ、リーゼは何処?僕のリーゼは何処にいる?」
「ジュリアス、やめろ!」
後から羽交い絞めにしようとしたアルフォンスをジュリアスは振り向きざまに剣を下段から振り上げた。
真上に上がった剣は勢いを付けてそのまま下に振り下ろされるが下りきる前にジュリアスの剣を握る手をアルフォンスの手が掴んだ。
「トルデ‥‥リーゼッ…早くっ!逃げろッ!」
「五月蠅いんだよ!こンの!老害がぁ!!」
ジュリアスに蹴り飛ばされたアルフォンスは勢いを付けて壁に転がった。
「アルフォンス殿下っ!!」
「あ、リーゼ。ここにいたんだ。探したんだよ。僕」
ジュリアスがトルデリーゼに向かって血で染まった顔で微笑んだ。
時間にして本当に僅かな時間の出来事。外で待機をさせられていた護衛の兵士が部屋に入って来るとジュリアスは兵士にやり投げのように剣を投げ、トルデリーゼの腕を掴むと引きずるようにして部屋から飛び出した。
恐怖と驚きで足がもつれながらもトルデリーゼは抵抗したが、ジュリアスの手は解けない。
使用人達はおどろおどろしい様相のジュリアスから遠ざかるように道を作り、護衛の兵士が上の階に上がった事で主が留守の馬の手綱を取るとジュリアスは「乗って?」トルデリーゼに騎乗を命じた。
「殿下……」
「足が痛いの?兄上にやられたの?」
コテンと首を傾げ、出会った頃のようなあどけなさでジュリアスが問う。
引きずられながら勢いよく階段を降りた事でトルデリーゼは足を痛めていた。
器用に騎乗したジュリアスはトルデリーゼの腕を離さない。そのまま引き上げられ馬の背に腹ばいにさせられるとジュリアスは馬を走らせた。
オリバーが兵を連れて別荘に到着した時、別荘の中は騒然としていた。
階段を駆け上がり、至る所に血痕が飛び散る部屋。
そこで見たアルフォンスにはまだ息があるが致命傷にもなりえるほどの深く大きな傷が2カ所。
夥しい出血量と合わせ、蒼白な顔。助かるのは万に一つあるかないか。オリバーにはそう見えた。
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