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「ははっ、まさか。
……産んで、僕と一緒に育ててもらえませんか」


甘い視線が、私の心に突き刺さるかのように絡んでくる。


「あの日、初めてバーで見かけた時から、僕は貴女に恋をしました」

「……え?」

「あの日、憂いを帯びた貴女の視線に恋をしたんです。話せば話すほど、貴女のことを知りたくなって。不思議な魅力を感じました。
どうにか知り合いたくて、どうにか繋ぎ止めたくて。必死でした。不自然にハンカチを押し付けるくらいには」

「……あ。そう言えば、ハンカチ……」


洗ってアイロンをかけて袋に入れたまま、鞄の中に入りっぱなしなのを思い出す。


「いいんです。最初から差し上げるつもりでお貸ししました。
貴女とまた会える名目があれば、それだけで良かったんです」


思ってもみなかった告白に、私は瞬きを繰り返すことしかできない。


「だからあの日、朝起きたら貴女がいなくて。本当に焦った。柄にも無くパニックになって泣きましたよ」

「……すみません。どうしたらいいかわからなくなってしまって。逃げたんです」

「それが普通の反応です。"男に襲われた"と警察に通報されていてもおかしくなかった。僕も後からそう思って、なんて酷いことをしてしまったのだろうってずっと悔やんでいました」


だからまた会えた時は、嬉しかった。

本当に嬉しそうにそう呟いた副社長は、私をそっと抱きしめる。


「まさか同じ職場だとは思いも寄らず、知った時は驚きました」

「……ご存知でしたか」

「つい最近。貴女のことが知りた過ぎて、職権濫用しました」


……サラッと怖いことを言ってのけた。


「バレたら問題になりますよ?」

「知ってしまった貴女も共犯です」


くすりと小さく笑った声に、頭を抱えそうになる。


「……タチ悪いですね」

「貴女を手に入れるためなら、何でもするつもりでしたので」


私の肩口に顔を乗せて、ゆっくりと何度も深呼吸する副社長。

その大きな背中に、腕を回す。


「鮎原さん、下のお名前を、教えてくださいませんか」

「私のこと調べたのであれば、ご存知のはずですが」

「……直接、鮎原さんの口から聞きたいんです」


優しく甘い声に、心が絆されるよう。


「……鮎原、美玲です」

「……美玲、さん」

「……はい」


スッと胸に入ってきた声に、バクバクと鳴っている心臓がなんだか段々と落ち着いていくような気がした。

副社長に抱きしめられていると、なんだか安心できるような気がする。


「……美玲さん」

「はい」

「僕と、結婚してくれませんか」


耳元で囁くように呟いた声に、私はその胸板を押して身体を少し離す。


「それは、私が妊娠したからですか?」

「え?」

「妊娠させたから、責任を取る、みたいなことですか?」


不安そうな顔をしていたのだろうか。私の顔を見た副社長は何を思ったか、吸い寄せられるように一つキスを落とす。

ゆっくりと離れた唇に、私は目を見開くだけ。

それに副社長はふわりと笑った。


「……僕は、美玲さんが妊娠してようがしていまいが今日、結婚を申し込むつもりでしたよ」

「え?」

「噂によると、うちの会社を辞める相談をなさっていたと、総務部長から聞きました。会えなくなる前に、先に繋ぎ止めておきたかった」

「……あ」


そういえば、引き継ぎとかの問題で退職するならいつ頃までに言えば良いのか、一回聞いたことがあったっけ。


「退職理由は詳しくは聞くつもりはありませんが、僕は美玲さんを手放すつもりはありませんから」


まさか、そんなことを言われるなんて微塵も思っていなかった。

不覚にもときめいてしまったじゃないか。


「もちろん、美玲さんの気持ちを一番に優先するつもりです。美玲さんが僕のことを嫌いであれば、潔く身を引こうと思っています」

「……嫌いなわけでは、ありません。それに妊娠したので、多分どの会社にも雇ってはもらえません。面接も決まっていましたが、辞退しようと思っています」

「そうでしたか」


すぐに産休に入る人間を雇ってくれるとは到底思えない。

静香もそれに了承しており、転職の話は一旦白紙に戻っていた。


「自分勝手なことを言っているのは重々承知の上で申し上げます。
もし美玲さんが産みたくないと仰るのであれば、それを否定するつもりはありません。ですがもし、少しでも産みたいという気持ちがあるのであれば、僕個人の想いとしては、産んでほしい。それだけじゃなくて、美玲さんと二人で一緒にその子を育てていきたい。そこに僕に対する気持ちがあれば、尚のこと嬉しい。ただそれだけです」


伏せた目元からは憂いが漂っていた。

私の言葉一つでお互いの人生が百八十度変わるかもしれない。

だから、軽はずみなことは言えなかった。


「……産みたいかと聞かれたら、正直わかりません。まだ未熟な私が、子育てできるのかなんて、全く想像ができなくて。
……でも、じゃあ堕すのかと聞かれたら、堕したくは……ありません」


それが今の、正直な気持ちだ。


「でも子どもを産んで育てるって、そんな簡単なことじゃないと思うから。一時の感情で決めていいものではない。そう思うんです」

「はい。仰る通りです。だから美玲さんさえ良ければ、貴女とたくさん話し合いたいと思っています。何度でも。妥協せずに、お互いが納得する答えを出したい」

「……そうですね。出来れば堕したくはないので、産む方向で」

「ありがとうございますっ……!」


副社長はパアッと顔を明るくしたかと思うと、もう一度そっと抱き締めてきた。


「ま、まだ結婚を承諾したわけではありませんのでっ……」

「わかってます。ですが、僕も諦めるつもりはありませんので、そのおつもりで」

「……っはい」


ふわりと温かいその体に包まれて、色々と考える。

もしこの人と結婚したら、私とこの子は幸せになれるのだろうか。

また、どこかの男みたいに浮気されたりしないだろうか。

産んだら産んだで、子どもや私に手を上げてくるような人じゃないだろうか。

様々な不安が頭の中を駆け巡る。

今日はもう、私が限界だった。

副社長の高級外車で、自宅まで送ってもらった。


「何かあったら、いつでも呼んでください。すぐに駆けつけます」


去り際にそう言って頰にキスを落とした副社長は、歩き慣れた道でも転ぶと危ないと言って部屋までのわずかな距離も送り届けてくれた。そして私が部屋に入るのを確認してから手を振って帰って行った。
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