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5 御者
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馬車を出す時、なにか物々しさを感じた。
御者として命じられたが、離宮まで走らせたことは一度もない。道は知っているが、一人でそこまで走らせる自信はない。
まだ見習いで、王族を乗せるほどの腕はない。馬の世話をして馬車の手入れをしているが、そこまでだ。
だが、今日は、お前が馬車を動かせと命令があったのだ。まだ、新人で、王族を乗せる腕はないのに。
令嬢を乗せて走らせるなど、とても重要な任務だ。
ただ、それが王子を騙した子爵令嬢だと知って、納得したのだ。どおりで、自分が御者として選ばれたのかと。
そうして、古くて使われなくなった馬車を出せば、やってきたのは、冷たい雨の中、傘もささず、コートも羽織っていない令嬢だった。疲れているのかよろよろと歩き、騎士たちに引っ張られて、馬車の中に押し込められた。
「あ、あの、王子様の婚約者さまとか」
「いいから、出せ。さっさとしろ」
この寒い朝の時間に、ドレスの上に何も羽織っていない。離宮まで距離があり、方角も北になった。北部には公爵領もあるが、この時期はまだ季節的に厳しい場所だ。とてもではないが、その姿では寒さで凍えてしまうだろう。
しかし、荷物も積まずに、とにかく出せと命令を受ける。
よほどのことをしたという噂は聞いていたが、これではまるで罪人だ。
昨夜からみぞれが降り、今は雨が激しく降っている。それなのに、濡れたまま馬車に押し込めたのだから。
「早くしろ! さっさと出せ!」
紋章も何もない馬車に乗せて、馬車は走り始める。
なにかがおかしい。気のせいだろうか。令嬢は罰として離宮に運ばれるわけだが、窓も開かないように板を貼り、外側から鍵が閉めてある。ほとんど護送だ。
護衛なのか、馬に乗った騎士が四人、側について走り続ける。
都を出て、何もない平原を走り、森に入っては、また平原の道を走っていく。町に寄り、手洗いや食事を済ませたかったが、それすら許されない。森を駆ける途中、自分は手洗いを許されて、木々に隠れて用を足した。
令嬢は、水も与えられず、中でじっと座っているだけだ。
彼女を乗せたよな? そんなことを不安に思う程静かで、ずっと馬車の中なのに、泣き声すら聞こえない。気丈な人なのだろうか。普通の男でも、ずっと座っているのはきついだろう。しかも濡れたドレスで、ひどく冷えているのに。
激しい雨は続いている。
「あの、食事はされないので?」
「この雨で何を食べるというんだ。さっさと行くぞ」
森の中で休憩中、自分たちは乾燥させた肉を喰み、水を飲んでいるのに、御者にはなにもない。令嬢にもあるわけがない。
本当に、罪人を乗せているのではないだろうか。
離宮に行くまでは、日にちがかかる。
途中夜になり、町に寄って、やっとしっかり休めると安堵したが、令嬢は一人部屋に押し込まれた。メイドも誰もいない。しかも部屋の前に騎士が立ち、逃げないように見張っていた。
これは、尋常ではない事態ではないだろうか。
「さっさと寝ろ。明日も早く出る」
「しょ、承知しました」
食堂で食事をして戻れば、騎士に叱咤される。令嬢は食事をしたのだろうか。食堂には降りてきていない。騎士たちが食事を部屋で与えたのだろうか。それすらわからなかった。
「さすがに、食事くらいは与えるだろう」
しかし、それすらも不安になっていた。次の日の朝、令嬢は同じドレスを着ていたからだ。
離宮までは遠い。何度も夜を過ごすことになる。その度に、いつも同じドレス。着替えも何も用意していない。その上、食事すらも。
寒気がした。子爵令嬢と聞いた。王子の婚約者候補だと。それなのに、この扱い。
ほんとうに、離宮に行くのか?
だが、進んでいる方向は間違っていない。受け入れる宮があるのは確かだ。
それでも、拭いようのない不安があった。
騎士たちは終始無言で、罪人を護送しているかのような警戒心を持っていた。
それがなおさら、不安を掻き立てた。
「雨がひどいな」
ここ数日、ずっと雨が降っている。時折霧雨になったり、小雨になったりもしたが、やむことがない。この時期は雨が多いが、こんなに降るのは久し振りだ。春が近く、季節が変わる頃になると、長く雨が降る。その時期とはいえ、長い雨が続いた。
そうして、それは起こったのだ。
「止まれ」
あと少しで離宮のある土地へ入る。川を渡り、小山へ入って、もう一走りするだけ。その前に、騎士が馬車を停めた。
「へ、へえ。こんなところで、何を?」
これから川を渡ろうというところ。高い場所に吊られている橋は、風で揺れ、川は長い雨で濁った水が流れている。
激しい雨に吊り橋が弱くなっているのだろうか。川幅はそこまで広くはないが、落ちれば一貫の終わりだ。水の少ない頃ならまだしも、今日は長雨で増水もしている。
足元を見れば震えそうになる。馬も落ち着きなく、足踏みをした。足元から風が吹き、その風に触れるだけで凍えそうになる。雨も大粒で、滑って吊り橋から落ちるのではないかと不安になる程だ。
騎士の一人が馬を降りて、馬車の扉に手をかけた。
そうして見えた、鈍い銀色の煌めき。言い争う声。
何をする気なのか、そう考える前に、上流から、轟音が聞こえた。
「うわっ!」
馬がいななく。騎士が逃げろと叫ぶ。地響きと共に、轟音が、一瞬で通り過ぎた。
「は、はは。は」
笑っているのか、泣いているのか、自分でもわからなかった。
何が起きたのか。上から雨が降ってくる。いや、雨だけではない。雪の混じった泥水や小石が、身体中に降りかかった。
カタカタと震え、恐怖で手足も動かない。
「ば、馬車が。令嬢が……」
「ち。巻き込まれやがった。あれじゃ、生きてはいないだろう」
騎士の一人が、馬と共に逃げおおせて、吊り橋に戻ってくる。上流からやってきた急激な出水によって、吊り橋はひどく揺れた。手すりの綱が強風に煽られる。板が風に乗って、バラバラと濁流の中へと落ちていった。
吊り橋は押し寄せた濁流で、一部が破損した。馬車が、吊り橋から落ちたからだ。騎士と、令嬢と共に。
自分はなぜか無事だった。上流から見えた黒い影に怯えて、馬車から転がり落ちて、吊り橋にしがみついたおかげだ。
間一髪。だが、歯が、カチカチ鳴り始めた。
「なんという。吊り橋で、立ち止まったりしなければ」
いや、立ち止まった時、騎士はなにをしようとしていたのか。一人が剣を片手に、馬車の中へ入ろうとした。そうして、言い合う声が聞こえ、一気に流出してきた雪と土砂混じりの出水により、近くにいた騎士と、中に入った騎士が、令嬢を乗せた馬車と共に、濁流に呑まれていったのだ。
馬から降りてきた騎士が、腰の剣に手を伸ばす。
「一緒に流れていけばいいものを」
「ど、どうして」
「ここで、ちょうど事故が起きる予定だったんだ。運が悪かったな」
剣を振り下ろすわけではなく、剣を持って、こちらを脅す。まるで、飛び込めと言わんばかりに。
足が動かない。歯がカチカチと鳴り続けるだけ。
「さっさと、落ちろ」
騎士の足が、腹に入り、吊り橋が遠のくのがわかった。
どうしてこんな。そう口にする前に、大量の水が口に入り込んだのだ。
御者として命じられたが、離宮まで走らせたことは一度もない。道は知っているが、一人でそこまで走らせる自信はない。
まだ見習いで、王族を乗せるほどの腕はない。馬の世話をして馬車の手入れをしているが、そこまでだ。
だが、今日は、お前が馬車を動かせと命令があったのだ。まだ、新人で、王族を乗せる腕はないのに。
令嬢を乗せて走らせるなど、とても重要な任務だ。
ただ、それが王子を騙した子爵令嬢だと知って、納得したのだ。どおりで、自分が御者として選ばれたのかと。
そうして、古くて使われなくなった馬車を出せば、やってきたのは、冷たい雨の中、傘もささず、コートも羽織っていない令嬢だった。疲れているのかよろよろと歩き、騎士たちに引っ張られて、馬車の中に押し込められた。
「あ、あの、王子様の婚約者さまとか」
「いいから、出せ。さっさとしろ」
この寒い朝の時間に、ドレスの上に何も羽織っていない。離宮まで距離があり、方角も北になった。北部には公爵領もあるが、この時期はまだ季節的に厳しい場所だ。とてもではないが、その姿では寒さで凍えてしまうだろう。
しかし、荷物も積まずに、とにかく出せと命令を受ける。
よほどのことをしたという噂は聞いていたが、これではまるで罪人だ。
昨夜からみぞれが降り、今は雨が激しく降っている。それなのに、濡れたまま馬車に押し込めたのだから。
「早くしろ! さっさと出せ!」
紋章も何もない馬車に乗せて、馬車は走り始める。
なにかがおかしい。気のせいだろうか。令嬢は罰として離宮に運ばれるわけだが、窓も開かないように板を貼り、外側から鍵が閉めてある。ほとんど護送だ。
護衛なのか、馬に乗った騎士が四人、側について走り続ける。
都を出て、何もない平原を走り、森に入っては、また平原の道を走っていく。町に寄り、手洗いや食事を済ませたかったが、それすら許されない。森を駆ける途中、自分は手洗いを許されて、木々に隠れて用を足した。
令嬢は、水も与えられず、中でじっと座っているだけだ。
彼女を乗せたよな? そんなことを不安に思う程静かで、ずっと馬車の中なのに、泣き声すら聞こえない。気丈な人なのだろうか。普通の男でも、ずっと座っているのはきついだろう。しかも濡れたドレスで、ひどく冷えているのに。
激しい雨は続いている。
「あの、食事はされないので?」
「この雨で何を食べるというんだ。さっさと行くぞ」
森の中で休憩中、自分たちは乾燥させた肉を喰み、水を飲んでいるのに、御者にはなにもない。令嬢にもあるわけがない。
本当に、罪人を乗せているのではないだろうか。
離宮に行くまでは、日にちがかかる。
途中夜になり、町に寄って、やっとしっかり休めると安堵したが、令嬢は一人部屋に押し込まれた。メイドも誰もいない。しかも部屋の前に騎士が立ち、逃げないように見張っていた。
これは、尋常ではない事態ではないだろうか。
「さっさと寝ろ。明日も早く出る」
「しょ、承知しました」
食堂で食事をして戻れば、騎士に叱咤される。令嬢は食事をしたのだろうか。食堂には降りてきていない。騎士たちが食事を部屋で与えたのだろうか。それすらわからなかった。
「さすがに、食事くらいは与えるだろう」
しかし、それすらも不安になっていた。次の日の朝、令嬢は同じドレスを着ていたからだ。
離宮までは遠い。何度も夜を過ごすことになる。その度に、いつも同じドレス。着替えも何も用意していない。その上、食事すらも。
寒気がした。子爵令嬢と聞いた。王子の婚約者候補だと。それなのに、この扱い。
ほんとうに、離宮に行くのか?
だが、進んでいる方向は間違っていない。受け入れる宮があるのは確かだ。
それでも、拭いようのない不安があった。
騎士たちは終始無言で、罪人を護送しているかのような警戒心を持っていた。
それがなおさら、不安を掻き立てた。
「雨がひどいな」
ここ数日、ずっと雨が降っている。時折霧雨になったり、小雨になったりもしたが、やむことがない。この時期は雨が多いが、こんなに降るのは久し振りだ。春が近く、季節が変わる頃になると、長く雨が降る。その時期とはいえ、長い雨が続いた。
そうして、それは起こったのだ。
「止まれ」
あと少しで離宮のある土地へ入る。川を渡り、小山へ入って、もう一走りするだけ。その前に、騎士が馬車を停めた。
「へ、へえ。こんなところで、何を?」
これから川を渡ろうというところ。高い場所に吊られている橋は、風で揺れ、川は長い雨で濁った水が流れている。
激しい雨に吊り橋が弱くなっているのだろうか。川幅はそこまで広くはないが、落ちれば一貫の終わりだ。水の少ない頃ならまだしも、今日は長雨で増水もしている。
足元を見れば震えそうになる。馬も落ち着きなく、足踏みをした。足元から風が吹き、その風に触れるだけで凍えそうになる。雨も大粒で、滑って吊り橋から落ちるのではないかと不安になる程だ。
騎士の一人が馬を降りて、馬車の扉に手をかけた。
そうして見えた、鈍い銀色の煌めき。言い争う声。
何をする気なのか、そう考える前に、上流から、轟音が聞こえた。
「うわっ!」
馬がいななく。騎士が逃げろと叫ぶ。地響きと共に、轟音が、一瞬で通り過ぎた。
「は、はは。は」
笑っているのか、泣いているのか、自分でもわからなかった。
何が起きたのか。上から雨が降ってくる。いや、雨だけではない。雪の混じった泥水や小石が、身体中に降りかかった。
カタカタと震え、恐怖で手足も動かない。
「ば、馬車が。令嬢が……」
「ち。巻き込まれやがった。あれじゃ、生きてはいないだろう」
騎士の一人が、馬と共に逃げおおせて、吊り橋に戻ってくる。上流からやってきた急激な出水によって、吊り橋はひどく揺れた。手すりの綱が強風に煽られる。板が風に乗って、バラバラと濁流の中へと落ちていった。
吊り橋は押し寄せた濁流で、一部が破損した。馬車が、吊り橋から落ちたからだ。騎士と、令嬢と共に。
自分はなぜか無事だった。上流から見えた黒い影に怯えて、馬車から転がり落ちて、吊り橋にしがみついたおかげだ。
間一髪。だが、歯が、カチカチ鳴り始めた。
「なんという。吊り橋で、立ち止まったりしなければ」
いや、立ち止まった時、騎士はなにをしようとしていたのか。一人が剣を片手に、馬車の中へ入ろうとした。そうして、言い合う声が聞こえ、一気に流出してきた雪と土砂混じりの出水により、近くにいた騎士と、中に入った騎士が、令嬢を乗せた馬車と共に、濁流に呑まれていったのだ。
馬から降りてきた騎士が、腰の剣に手を伸ばす。
「一緒に流れていけばいいものを」
「ど、どうして」
「ここで、ちょうど事故が起きる予定だったんだ。運が悪かったな」
剣を振り下ろすわけではなく、剣を持って、こちらを脅す。まるで、飛び込めと言わんばかりに。
足が動かない。歯がカチカチと鳴り続けるだけ。
「さっさと、落ちろ」
騎士の足が、腹に入り、吊り橋が遠のくのがわかった。
どうしてこんな。そう口にする前に、大量の水が口に入り込んだのだ。
応援ありがとうございます!
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