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春の祈り(前編)
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モーズ侯爵領に向かう途中の宿場町に到着した。
彼女が泊まる宿に向かう途中、広場が見えたのだが、少し妙な感じがした。
「神官が多いですね。それに、あの祭具――豊作を願う祈りの準備でしょうか?」
「お嬢様、豊作を願う祈りは、秋に行われるのではありませんか?」
「え?」
侍女の言っていることが正しかった。
トラリア王国では、秋のはじめに小麦の種を撒き、ほぼ一年かけて夏の初めに収穫する。
そのため、豊作を願う祈祷は、早くて夏の終わりに、一般的に種を撒く少し前に行われる。
だが、ルシアナの言っていることも間違いではなかった。
というのも、彼女が修道女をしていた時代には、国の主導のもと三圃制が導入され、春に大麦等の春撒き穀物の栽培が始まり、そのための祈祷が行われる。つまり、一年に二回、祈祷が行われるのだ。
ルシアナが三圃制について詳しくなったのも、この辺りが理由だった。
ただ、そんなことを知らないルシアナは――
(地方による風習の違いね)
と間違った解釈で納得したのだった。
祈祷の種類にも違いはあるのだろうか?
少し気になる。
宿に到着したルシアナは、護衛に囲まれて馬車から降りた。
馬車から降りると、祭りの喧騒がここまで聞こえてくる。
随分と賑やかな祭りのようだ。
「お嬢様も祭りに参加なさいますか? 様々な食事や酒も振る舞われているようですが」
是非参加したい! とルシアナは思ったが、視界の端に、冒険者の一団が映った。
ルシアナは扇子で顔を隠して言う。
「庶民の祭りなどに興味ありません。結構です」
ルシアナはそう言い切って、最後に、
「参加したければ皆さまだけどうぞ。私の護衛には二名ほど交代でついてくだされば結構ですから。もちろん、冒険者の護衛は必要ありません(訳:バルシファル様をはじめ、冒険者の皆さんはどうぞお祭りを楽しんで下さい。私は邪魔しませんから)」
と言って宿の中に入った。
宿の人間がルシアナのために食事を用意していると言ってくれた。
ルシアナはまだお腹が空いていなかったが、いま食べないと宿の人も休憩できないだろうということで、早速夕食を食べた。
祭りの料理とは違う、豪華な――言い方を変えれば、よく食べる料理が並んでいたが、結局半分程度しか食べず、ルシアナは部屋に向かった。
本当は皆で祭りを楽しみたかった。屋台で並んでいる肉串とか、果物とか食べたかった。
「お嬢様、何かあればお呼びください。それと……これはトーマスさんから預かっているものです。必要なことがあればお使い下さいとのこと」
「トーマスさんから? わかりました」
トーマスからの荷物を受け取り、ルシアナは部屋に入る。
町で一番の部屋らしいが、防犯のため、窓は開かないようだ。その窓の向こうから、焚火の灯りが見える。祭りで盛り上がっているのだろう。
「トーマスさんからの荷物、一体何かしら?」
ルシアナは木の箱に入ったそれを開けた。
そこに入っていたのは――
「これは、修道服と、髪を変える魔道具っ!? なんでトーマスさんがこれを――」
そう呟き、気付いた。
(そうだ!)
この街は現在、多くの神官や修道女が訪れて、何かの儀式の準備を行っている。つまり、町には多くの修道女がいる。
そこに、ルシアナが修道女の服装を着て外出しても誰も不思議には思わない。
仮にバルシファルに見つかったとしても、修道女の仕事でこの街に来ていたと言い張ればなんとかなる。
むしろ、積極的に見つかって、一緒にお祭りを楽しみたいと思った。
ルシアナは、祭りに参加していないにもかかわらず、すでに祭りのムードに当てられていた。
(ありがとう! トーマスさん! 絶対にお土産買って帰るからね!)
とルシアナは修道服を着た。
そして、髪の色を変える魔道具を付けようとして、その前に部屋の前にいる護衛に説明をしないといけないと思った。さすがに窓もないこの部屋から護衛にバレずに抜け出すのは難しいだろう。
普段と同じように、離れた場所から護衛してもらえばいいか、とそう思ったときだった。
「お嬢様、少々よろしいでしょうか?」
「はい」
護衛が声を掛けてきたので、私は思わず返事をした。
「お客様がいらっしゃっています……お嬢様、そのお姿は?」
「なんでもありません……え? 客?」
そう言われ、ルシアナは尋ねる。
「まさか、冒険者の方じゃありませんよね?」
ルシアナの部屋で、変装途中の彼女を見つけたら、どんな人間でもルシアナとシアが同一人物であることに気付いてしまう。
さすがにそれはマズイ。
「いえ、冒険者ではなく、ハインツ様です」
「え? ハインツ先生が?」
護衛の後ろにいたのは、相変わらず寝ぐせだらけ、そして眼鏡がずれているハインツだった。
ハインツはルシアナを見つけると、
「おや、お嬢様。今日は素敵な服装をなさっていますね」
「えぇ、その――祭りが気になりまして。貴族の姿だと皆さまを緊張させてしまうから、この服装で出かけようかと」
ルシアナはそう言って、首から下げている魔道具の腕輪に魔力を流した。
彼女の髪が金色から灰色へと変わる。
「お嬢様、そういうことは前もって私どもに仰ってください」
「い、今から言おうと思っていたのです。本当です」
動揺して、まるで嘘のように聞こえる。
「それで、ハインツ先生が何故この町にいらっしゃるのですか?」
「それはお嬢様のお陰です」
「私の?」
「はい。お嬢様から教えていただいた三圃制という農業制度、陛下にお伝えしたところ、早速実地試験を行うことになりまして、この町の休耕地の一部を使い、大麦を育てることになり、私も発案者としてこの地に参ったところ、公爵家の馬車を見つけ、ここに訪れました」
「実験ですか? 三圃制はこの国でまだ導入されていなかったのですか?」
「はい。というより、私の知る限り、どの国でも導入されていません」
そこで、ようやくルシアナは気付いた。
自分が一体何をしてしまったのかを。
(私は何て愚かなのでしょう。未来の世界の常識が、この世界の常識なはずがありませんのに。私は、本来であればどこかの誰かが研究し、発表するはずの発明を奪い取ってしまったのですね)
ただでさえ、今日一日、冒険者には冷たくあたり、厚意による祭りの誘いも無碍に断ったことで罪悪感が積もっていたのに、さらなる追い打ちをかけられた。
ルシアナはショックのあまり、その場に跪き、神に祈りを捧げる。
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
「いえ、あまりに辛いので神に祈りを捧げていました」
「お嬢様はいつから神学をお学びに?」
「学んだというより、自然と覚えたという感じでしょうか? いえ、あれを自然とと言うのは流石に厳しいですわね」
ファインロード修道院の周辺には、村が三十ほど点在しており、年に二度、春と秋に修道女が祈祷を行う。一通り祝詞と儀式の作法を教えてもらい、最初の年は二人で行った。
そして、一緒に行った先輩はこう言った。
『ルシアナは、来年から一人でしなさい。大丈夫、失敗して恨まれたって、修道女が同じ村に派遣されるのは十年以上先だから誰も覚えていないわよ。まぁ、たまーに、十年後に訪れたときに腐った卵を投げられた修道女がいたそうだけど――なんでも、不作を祈祷が失敗したからだって決めつけて。大丈夫、そんなの偶然だから気にしないで』
気にするなと言われる方が無理だった。
それだけ、修道女による祝福は農業に携わる者にとって重要なものなのだ。
結局、ルシアナは先輩と回ったあと、死に物狂いで勉強して、祝詞と儀式の作法を完璧にマスターしたのだった。
「祝詞を覚えるのは本当に大変なのです。季節や場所によって変わるだけでなく、例えば昨年が不作だった時や豊作だった時によって祝詞が変わって。もちろん、うろ覚えでも誤魔化すことができるのですが、中にはやたらと祝詞に詳しい村人もいらっしゃって、誤魔化せると思った自分が情けなく……」
と、話はだんだんと泣き語りへと変わっていく。
「特に春の祝詞で私が神様の順番を間違えたときは――」
「お嬢様、今、何と仰いましたか?」
「神様の順番です。芽吹きの神ベルネ様と農耕の神ハーネス様の順番を――」
「いえ、そちらではなく、春の祝詞と仰いました? お嬢様は春の祝詞を言うことができるのですか?」
「え? えぇ――」
ルシアナが頷くと、ハインツは彼女の手を握って言った。
「お嬢様、お願いです! どうか、私に力を貸してください!」
「え? 力を貸してとは、何の力ですか?」
「春の祝詞を言える神官も修道女もどこにもいないのですっ!」
「え? えぇぇぇぇっ!? そんなはずがありません。絶対にいるはずです! 見習い修道女でも一年勉強すれば覚えられます」
実際、ルシアナも一年で覚えられたと伝えた。
「はい、確かに春の祝詞そのものはございます。ですが、先ほどお嬢様がおっしゃったように、祝詞は季節や場所によってその言葉が変わります。実際に大麦を育てている領地もありますから、私はてっきり大麦を育てる土地の祝詞を言ってくださればいいと思い、神官をお呼びしたのですが、神官からそれではダメだと断られてしまいまして――」
「あぁ、そうでしょうね……そういうことですか……」
ルシアナは理解した。
三圃制がまだ始まっていないこの世界において、当然、それに対応できる祝詞というのもまだ教会は用意していない。
ハインツは、これから大麦を育てるのだから、大麦を育てるための春の祝詞を言えばいいと思っていたようだが、話はそう簡単なものではないのだ。
「昨年まで小麦を育てていたのでしたら、いまは眠りの神、ヒュノス様によって安寧の時を授かり、大地を休める力に満ちています。そのような時に、他の神の力を使い、大地を呼び起こせば、ヒュノス様の怒りを買うことになります。そのため、いくつか手順を踏む必要があります」
「その手順をお嬢様は理解していらっしゃるのですか?」
「え? えぇ、理解していますが」
「だったらお嬢様が、その祝詞を――町に祝福を与えてくださいませんでしょうか?」
「え? つまり、私に祭りの主役になれと、そうおっしゃるのですか?」
そんなの無理に決まっている。
ルシアナはそう叫びたかった。
三圃制による祈りが浸透していないとなると、祭具などの調整も必要になる。
いまから始めて、ギリギリ祭りの終わりに間に合うかどうか。
つまり、ルシアナは祭りで美味しい肉串や、果実を食べ歩くことができなくなってしまう。
(そうよ、ルシアナ! いまこそ過去の私の出番! 我儘お嬢様の力を借りて、ハインツさんの願いを断るの!)
ルシアナはそう意気込み、ハインツの目を見た。
「その話ですが――!」
「はい」
「……お引き受けします」
期待に満ちたハインツの言葉に、ルシアナの中の悪の芽がしおれていくのを感じた。
結局、現世のルシアナは、困っている人がいたら助けずにはいられなかった。
彼女が泊まる宿に向かう途中、広場が見えたのだが、少し妙な感じがした。
「神官が多いですね。それに、あの祭具――豊作を願う祈りの準備でしょうか?」
「お嬢様、豊作を願う祈りは、秋に行われるのではありませんか?」
「え?」
侍女の言っていることが正しかった。
トラリア王国では、秋のはじめに小麦の種を撒き、ほぼ一年かけて夏の初めに収穫する。
そのため、豊作を願う祈祷は、早くて夏の終わりに、一般的に種を撒く少し前に行われる。
だが、ルシアナの言っていることも間違いではなかった。
というのも、彼女が修道女をしていた時代には、国の主導のもと三圃制が導入され、春に大麦等の春撒き穀物の栽培が始まり、そのための祈祷が行われる。つまり、一年に二回、祈祷が行われるのだ。
ルシアナが三圃制について詳しくなったのも、この辺りが理由だった。
ただ、そんなことを知らないルシアナは――
(地方による風習の違いね)
と間違った解釈で納得したのだった。
祈祷の種類にも違いはあるのだろうか?
少し気になる。
宿に到着したルシアナは、護衛に囲まれて馬車から降りた。
馬車から降りると、祭りの喧騒がここまで聞こえてくる。
随分と賑やかな祭りのようだ。
「お嬢様も祭りに参加なさいますか? 様々な食事や酒も振る舞われているようですが」
是非参加したい! とルシアナは思ったが、視界の端に、冒険者の一団が映った。
ルシアナは扇子で顔を隠して言う。
「庶民の祭りなどに興味ありません。結構です」
ルシアナはそう言い切って、最後に、
「参加したければ皆さまだけどうぞ。私の護衛には二名ほど交代でついてくだされば結構ですから。もちろん、冒険者の護衛は必要ありません(訳:バルシファル様をはじめ、冒険者の皆さんはどうぞお祭りを楽しんで下さい。私は邪魔しませんから)」
と言って宿の中に入った。
宿の人間がルシアナのために食事を用意していると言ってくれた。
ルシアナはまだお腹が空いていなかったが、いま食べないと宿の人も休憩できないだろうということで、早速夕食を食べた。
祭りの料理とは違う、豪華な――言い方を変えれば、よく食べる料理が並んでいたが、結局半分程度しか食べず、ルシアナは部屋に向かった。
本当は皆で祭りを楽しみたかった。屋台で並んでいる肉串とか、果物とか食べたかった。
「お嬢様、何かあればお呼びください。それと……これはトーマスさんから預かっているものです。必要なことがあればお使い下さいとのこと」
「トーマスさんから? わかりました」
トーマスからの荷物を受け取り、ルシアナは部屋に入る。
町で一番の部屋らしいが、防犯のため、窓は開かないようだ。その窓の向こうから、焚火の灯りが見える。祭りで盛り上がっているのだろう。
「トーマスさんからの荷物、一体何かしら?」
ルシアナは木の箱に入ったそれを開けた。
そこに入っていたのは――
「これは、修道服と、髪を変える魔道具っ!? なんでトーマスさんがこれを――」
そう呟き、気付いた。
(そうだ!)
この街は現在、多くの神官や修道女が訪れて、何かの儀式の準備を行っている。つまり、町には多くの修道女がいる。
そこに、ルシアナが修道女の服装を着て外出しても誰も不思議には思わない。
仮にバルシファルに見つかったとしても、修道女の仕事でこの街に来ていたと言い張ればなんとかなる。
むしろ、積極的に見つかって、一緒にお祭りを楽しみたいと思った。
ルシアナは、祭りに参加していないにもかかわらず、すでに祭りのムードに当てられていた。
(ありがとう! トーマスさん! 絶対にお土産買って帰るからね!)
とルシアナは修道服を着た。
そして、髪の色を変える魔道具を付けようとして、その前に部屋の前にいる護衛に説明をしないといけないと思った。さすがに窓もないこの部屋から護衛にバレずに抜け出すのは難しいだろう。
普段と同じように、離れた場所から護衛してもらえばいいか、とそう思ったときだった。
「お嬢様、少々よろしいでしょうか?」
「はい」
護衛が声を掛けてきたので、私は思わず返事をした。
「お客様がいらっしゃっています……お嬢様、そのお姿は?」
「なんでもありません……え? 客?」
そう言われ、ルシアナは尋ねる。
「まさか、冒険者の方じゃありませんよね?」
ルシアナの部屋で、変装途中の彼女を見つけたら、どんな人間でもルシアナとシアが同一人物であることに気付いてしまう。
さすがにそれはマズイ。
「いえ、冒険者ではなく、ハインツ様です」
「え? ハインツ先生が?」
護衛の後ろにいたのは、相変わらず寝ぐせだらけ、そして眼鏡がずれているハインツだった。
ハインツはルシアナを見つけると、
「おや、お嬢様。今日は素敵な服装をなさっていますね」
「えぇ、その――祭りが気になりまして。貴族の姿だと皆さまを緊張させてしまうから、この服装で出かけようかと」
ルシアナはそう言って、首から下げている魔道具の腕輪に魔力を流した。
彼女の髪が金色から灰色へと変わる。
「お嬢様、そういうことは前もって私どもに仰ってください」
「い、今から言おうと思っていたのです。本当です」
動揺して、まるで嘘のように聞こえる。
「それで、ハインツ先生が何故この町にいらっしゃるのですか?」
「それはお嬢様のお陰です」
「私の?」
「はい。お嬢様から教えていただいた三圃制という農業制度、陛下にお伝えしたところ、早速実地試験を行うことになりまして、この町の休耕地の一部を使い、大麦を育てることになり、私も発案者としてこの地に参ったところ、公爵家の馬車を見つけ、ここに訪れました」
「実験ですか? 三圃制はこの国でまだ導入されていなかったのですか?」
「はい。というより、私の知る限り、どの国でも導入されていません」
そこで、ようやくルシアナは気付いた。
自分が一体何をしてしまったのかを。
(私は何て愚かなのでしょう。未来の世界の常識が、この世界の常識なはずがありませんのに。私は、本来であればどこかの誰かが研究し、発表するはずの発明を奪い取ってしまったのですね)
ただでさえ、今日一日、冒険者には冷たくあたり、厚意による祭りの誘いも無碍に断ったことで罪悪感が積もっていたのに、さらなる追い打ちをかけられた。
ルシアナはショックのあまり、その場に跪き、神に祈りを捧げる。
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
「いえ、あまりに辛いので神に祈りを捧げていました」
「お嬢様はいつから神学をお学びに?」
「学んだというより、自然と覚えたという感じでしょうか? いえ、あれを自然とと言うのは流石に厳しいですわね」
ファインロード修道院の周辺には、村が三十ほど点在しており、年に二度、春と秋に修道女が祈祷を行う。一通り祝詞と儀式の作法を教えてもらい、最初の年は二人で行った。
そして、一緒に行った先輩はこう言った。
『ルシアナは、来年から一人でしなさい。大丈夫、失敗して恨まれたって、修道女が同じ村に派遣されるのは十年以上先だから誰も覚えていないわよ。まぁ、たまーに、十年後に訪れたときに腐った卵を投げられた修道女がいたそうだけど――なんでも、不作を祈祷が失敗したからだって決めつけて。大丈夫、そんなの偶然だから気にしないで』
気にするなと言われる方が無理だった。
それだけ、修道女による祝福は農業に携わる者にとって重要なものなのだ。
結局、ルシアナは先輩と回ったあと、死に物狂いで勉強して、祝詞と儀式の作法を完璧にマスターしたのだった。
「祝詞を覚えるのは本当に大変なのです。季節や場所によって変わるだけでなく、例えば昨年が不作だった時や豊作だった時によって祝詞が変わって。もちろん、うろ覚えでも誤魔化すことができるのですが、中にはやたらと祝詞に詳しい村人もいらっしゃって、誤魔化せると思った自分が情けなく……」
と、話はだんだんと泣き語りへと変わっていく。
「特に春の祝詞で私が神様の順番を間違えたときは――」
「お嬢様、今、何と仰いましたか?」
「神様の順番です。芽吹きの神ベルネ様と農耕の神ハーネス様の順番を――」
「いえ、そちらではなく、春の祝詞と仰いました? お嬢様は春の祝詞を言うことができるのですか?」
「え? えぇ――」
ルシアナが頷くと、ハインツは彼女の手を握って言った。
「お嬢様、お願いです! どうか、私に力を貸してください!」
「え? 力を貸してとは、何の力ですか?」
「春の祝詞を言える神官も修道女もどこにもいないのですっ!」
「え? えぇぇぇぇっ!? そんなはずがありません。絶対にいるはずです! 見習い修道女でも一年勉強すれば覚えられます」
実際、ルシアナも一年で覚えられたと伝えた。
「はい、確かに春の祝詞そのものはございます。ですが、先ほどお嬢様がおっしゃったように、祝詞は季節や場所によってその言葉が変わります。実際に大麦を育てている領地もありますから、私はてっきり大麦を育てる土地の祝詞を言ってくださればいいと思い、神官をお呼びしたのですが、神官からそれではダメだと断られてしまいまして――」
「あぁ、そうでしょうね……そういうことですか……」
ルシアナは理解した。
三圃制がまだ始まっていないこの世界において、当然、それに対応できる祝詞というのもまだ教会は用意していない。
ハインツは、これから大麦を育てるのだから、大麦を育てるための春の祝詞を言えばいいと思っていたようだが、話はそう簡単なものではないのだ。
「昨年まで小麦を育てていたのでしたら、いまは眠りの神、ヒュノス様によって安寧の時を授かり、大地を休める力に満ちています。そのような時に、他の神の力を使い、大地を呼び起こせば、ヒュノス様の怒りを買うことになります。そのため、いくつか手順を踏む必要があります」
「その手順をお嬢様は理解していらっしゃるのですか?」
「え? えぇ、理解していますが」
「だったらお嬢様が、その祝詞を――町に祝福を与えてくださいませんでしょうか?」
「え? つまり、私に祭りの主役になれと、そうおっしゃるのですか?」
そんなの無理に決まっている。
ルシアナはそう叫びたかった。
三圃制による祈りが浸透していないとなると、祭具などの調整も必要になる。
いまから始めて、ギリギリ祭りの終わりに間に合うかどうか。
つまり、ルシアナは祭りで美味しい肉串や、果実を食べ歩くことができなくなってしまう。
(そうよ、ルシアナ! いまこそ過去の私の出番! 我儘お嬢様の力を借りて、ハインツさんの願いを断るの!)
ルシアナはそう意気込み、ハインツの目を見た。
「その話ですが――!」
「はい」
「……お引き受けします」
期待に満ちたハインツの言葉に、ルシアナの中の悪の芽がしおれていくのを感じた。
結局、現世のルシアナは、困っている人がいたら助けずにはいられなかった。
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