婚約破棄されましたので、隣国の灯りを点しに行きましょう

さんけい

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8 「神々の涙」

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「ルドルフ様、お待ちください。中は静粛を──」
「静かに入っているつもりだが?」

 落ち着いた、聞き慣れた声。
 サーシャは顔を上げた。

「失礼します、サーシャ。邪魔をしていないだろうか」
「お仕事中に失礼します、でしょう?」

 ミヒャエルが苦笑まじりに突っ込みながら、ルドルフを案内してきた。

「古文書顧問殿、例の北方資料の進捗を伺いたいそうです」
「進捗、というほど整理はできていませんが……」

 サーシャは、机の上のノートを回転させてルドルフの前に置いた。
 そこには、各文書のタイトル、年代、重要な単語、その出現位置がびっしりと書き込まれている。
 さらに欄外には、地図上の座標との対応が細かくメモされていた。

「……これはまた」

 ルドルフが感嘆の息を吐いた。

「一日で、ここまで?」
「基礎資料は既に揃えていただいていましたし、書庫員の皆さんもとても優秀ですから」
「いや、これは資料の問題ではないな」

 ルドルフはノートの端を指で軽く叩いた。

「この整理の仕方は、君の頭の中そのものだ。項目ごとに分類し、重要度で線の太さを変え、矢印で関係性を視覚化している。……カンタブラ王国では、こういう整理を?」
「政務のノートも、似たようなものですわ」

 サーシャは少しだけ照れくさそうに答えた。

「殿下の予定や諸侯の動向、他国の祭礼日程などを一つのノートにまとめていましたので。そうしておかないと、誰も覚えていなかったものですから」
「……誰も、ね?」

 ルドルフの口元に、皮肉めいた笑いが浮かんだ。

「我が国にとっては、実にありがたい癖だ」

 彼は地図に目をやる。

「この印が、君が“可能性が高い”と言った地点か?」
「はい。このあたり一帯です」
「ここは……」

 ルドルフが眉をひそめる。

「国境に近い丘陵地帯だな。地質的にも不安定で、あまり人が定住していない」
「人が少ないことも、逆に条件がいいかもしれませんわ」

 サーシャは指で地図の線をなぞった。

「“神々の涙”を“聖なるもの”として祭り上げ、誰のものでもないという形で守っていた可能性もあります。泉や石に神話がつくのは、たいてい“そこを勝手に掘らせたくない”時ですから」
「なるほど」

 ルドルフはすぐに納得したようだった。

「陛下と殿下に、この地図をそのままお見せしてもよいか?」
「もちろんですわ。ただ──」

 サーシャは、ノートの別のページを開いた。

「この仮説が正しければ、カンタブラ王国の古い交易記録にも、“それらしきもの”が残っているはずです」
「カンタブラ王国の記録……」
「ええ。北方辺境との交易で“灯りの油”や“燃える石”が以前から扱われていたのなら、その痕跡があるかもしれません。カンタブラ王国の公文書に今は手をつけることはできませんけれど、こちらにも写本や商人ギルドが残した控えがあるでしょう?」

 ルドルフの目がわずかに細められる。

「……よくそこまで考える」
「癖ですから」

 サーシャは淡々と答えた。

「それに、“あの国が見落としていたもの”を見つけられるなら、少しだけ気分がいいかもしれませんし」

 その言葉に、ルドルフが小さく笑った。

「それは、ぜひ見つけてもらおう」

 彼はミヒャエルの方を向く。

「ミヒャエル、カンタブラ王国商人ギルド関係の記録で、北方交易に関するものを優先的にサーシャに回せ」
「承知しました」
「北方調査隊は、予備調査を終えしだい正式に派遣する。場所の目星がつけばつくほど、危険を減らせる。……どうか、引き続き頼む」
「かしこまりましたわ、ルドルフ様」

 そう答えて頭を下げると、サーシャは再び巻物に目を落とした。
 ルドルフが書庫を出て行った後、ミヒャエルがそっと耳打ちしてきた。

「……正直、驚いています」
「何がでしょう?」
「古文書顧問というのは、もっとこう……白髪の、偏屈な老人が気まぐれに何か言う、という職だと思っていましたので」
「その偏見、どこで植え付けられたんですの?」

 思わず笑いが漏れる。

「ですが、サーシャ顧問のやり方はわかりやすい。我々書庫員にも、やるべきことがはっきり見えます」

 ミヒャエルは真面目な顔で言った。

「“ここを探してほしい”と示してくれる人は、ありがたいものです。今までの学者殿は、“何か面白いものを持ってこい”と言うだけでしたから」
「それは……少し困りますわね」

 サーシャは苦笑する。

「ではこれからも、できるだけ分かり易く示すようにいたします。皆さまのお力を、たくさん借りたいですから」
「喜んで」

 ミヒャエルは深々と頭を下げた。

 こうして、サーシャの「王立書庫での一日」が始まった。
 古い文字と地図と、膨大な記録。
 かつては「余計なこと」と言われた好奇心が、今は堂々と机の上に広げられている。

(……悪くないわね)

 ペン先を走らせながら、サーシャは密かにそう思った。
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