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諸葛孔明列記
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はじめに
この物語は、孔明の生涯を簡潔に紹介するものです。諸葛亮孔明が好きな方は、是非最後まで読んでください。
第一章 孔明の生い立ち
孔明が生まれたのは、中国の琅琊(ろうや)陽都県というところです。時は、中国の後漢の光和四年(181)年の9月です。諸葛珪という人の家に次男として生まれました。名前は亮とつけられました。この亮という意味は、明るいという意味です。後に、この名前をもとにあざなが孔明となりました。孔明の意味は、はなはだ明るしという意味です。なぜこのような名前をつけたのかというと、暗い世の中にあって人びとに光をあてる人物になってほしいという思いからでした。孔明は、幼年時代を父の任地の泰山で父母のもとですごしました。孔明は、9歳のときに母を失いました。少年時代の孔明は、読書好きで物思いにふけるように見えました。孔明は、11歳の時に父も失いました。このように若い時から両親を失い、苦労と共に青年時代をすごしたようです。
第二章 孔明の理想
孔明は、若い時から管仲と楽毅という人を尊敬していて、ある時、孔明が学生の時に彼の親友に孔明の抱負を聞かれた時、彼は「文なら管仲、武なら楽毅。それが僕の目標だ。」と答えました。管仲は、春秋時代の名宰相で、斉の桓公を輔佐して、彼を覇者たらしめた功績者で「史記」によれば、管仲の政策は、軍政から経済、社会福祉、人材登用にまでおよんでいました。管仲は外交を重視し、東方諸侯と同盟し、南方の楚を抑えたといいます。また、人間的にも鮑叔牙という人との友情が、派閥を越え終生変わらなかったことで称賛されました。いわゆる「管鮑貧時の交わり」といわれるもので、友情の理想とみられました。楽毅は戦国時代の武将で、燕の将軍として、趙・楚・韓・魏と同盟し、連合軍を率いて、当時の大国であった斉に大勝した人です。つまりどういうことかというと、孔明は若い時からたいそうな志や自信を持っていたということです。また、この管仲と楽毅という偉大な人を手本としていました。この2人の人物に共通していることは、どちらも中国が分裂していた動乱の時代に活躍した人ということです。だから孔明は、この2人に倣って活躍しようと思っていたのだろうと思います。
第三章 孔明の活躍
この頃孔明は、隆中というところで自ら耕して生計を立てていました。孔明が、有名な三顧の礼で劉備に迎えられたのは、建安十二年(207)年でした。この時、孔明は若干26歳でした。ここで孔明は、有名な天下三分の計を唱えました。
赤壁の戦いにおける孔明は、蜀と呉の同盟の架け橋となり、蜀と呉の勝利におおいに貢献しました。ただし、孔明が呉軍のために壇を築いて東南の風を吹かせたというのは、水戦に劉備と孔明が、まったく関わっていないことに苛立った後世の人々が挿入した作り話です。なので赤壁の戦いで火計をするために吹いた風は、孔明の祈りによるものではなく自然に吹いたものです。この後、孔明の計らいで漢中を得て蜀漢という国を作り、本当に天下三分の計を果たしました。
おわりに
孔明の人物像についての概略でした。興味がある方は、三国志などを読んで理解を深めてください。
この物語は、孔明の生涯を簡潔に紹介するものです。諸葛亮孔明が好きな方は、是非最後まで読んでください。
第一章 孔明の生い立ち
孔明が生まれたのは、中国の琅琊(ろうや)陽都県というところです。時は、中国の後漢の光和四年(181)年の9月です。諸葛珪という人の家に次男として生まれました。名前は亮とつけられました。この亮という意味は、明るいという意味です。後に、この名前をもとにあざなが孔明となりました。孔明の意味は、はなはだ明るしという意味です。なぜこのような名前をつけたのかというと、暗い世の中にあって人びとに光をあてる人物になってほしいという思いからでした。孔明は、幼年時代を父の任地の泰山で父母のもとですごしました。孔明は、9歳のときに母を失いました。少年時代の孔明は、読書好きで物思いにふけるように見えました。孔明は、11歳の時に父も失いました。このように若い時から両親を失い、苦労と共に青年時代をすごしたようです。
第二章 孔明の理想
孔明は、若い時から管仲と楽毅という人を尊敬していて、ある時、孔明が学生の時に彼の親友に孔明の抱負を聞かれた時、彼は「文なら管仲、武なら楽毅。それが僕の目標だ。」と答えました。管仲は、春秋時代の名宰相で、斉の桓公を輔佐して、彼を覇者たらしめた功績者で「史記」によれば、管仲の政策は、軍政から経済、社会福祉、人材登用にまでおよんでいました。管仲は外交を重視し、東方諸侯と同盟し、南方の楚を抑えたといいます。また、人間的にも鮑叔牙という人との友情が、派閥を越え終生変わらなかったことで称賛されました。いわゆる「管鮑貧時の交わり」といわれるもので、友情の理想とみられました。楽毅は戦国時代の武将で、燕の将軍として、趙・楚・韓・魏と同盟し、連合軍を率いて、当時の大国であった斉に大勝した人です。つまりどういうことかというと、孔明は若い時からたいそうな志や自信を持っていたということです。また、この管仲と楽毅という偉大な人を手本としていました。この2人の人物に共通していることは、どちらも中国が分裂していた動乱の時代に活躍した人ということです。だから孔明は、この2人に倣って活躍しようと思っていたのだろうと思います。
第三章 孔明の活躍
この頃孔明は、隆中というところで自ら耕して生計を立てていました。孔明が、有名な三顧の礼で劉備に迎えられたのは、建安十二年(207)年でした。この時、孔明は若干26歳でした。ここで孔明は、有名な天下三分の計を唱えました。
赤壁の戦いにおける孔明は、蜀と呉の同盟の架け橋となり、蜀と呉の勝利におおいに貢献しました。ただし、孔明が呉軍のために壇を築いて東南の風を吹かせたというのは、水戦に劉備と孔明が、まったく関わっていないことに苛立った後世の人々が挿入した作り話です。なので赤壁の戦いで火計をするために吹いた風は、孔明の祈りによるものではなく自然に吹いたものです。この後、孔明の計らいで漢中を得て蜀漢という国を作り、本当に天下三分の計を果たしました。
おわりに
孔明の人物像についての概略でした。興味がある方は、三国志などを読んで理解を深めてください。
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