しんべえ -京洛異妖変-

陸 理明

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第三話 妖怪と犬和郎

馬蝙蝠

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 なんだ、この化け物は!

 馬蝙蝠といっていいような怪物の前肢は蹄のように割れていて、それが宗矩の顔面を狙ってきた。
 深く沈んで屈むことで躱す。
 正体の分からないものから距離をとろうと闇雲に左へと跳んだ。
 牽制になれば刀を振ったが、命中することはなかった。
 五歩分ほど離れたところで、顔を上げて前を見る。
 馬蝙蝠の姿はなかった。
 代わりにバサバサと鳥の羽ばたきのような音が聞こえ、顔をあげると満天の星に墨で黒くなぞったような輪郭が浮き上がる。
 あんな翼で飛翔できるものなのか。
 夜空を数回周回したあと、馬蝙蝠は再び、宗矩めがけて襲い掛かってきた。
 風を切る割れた音。
 空からの敵に対して、剣は無力だ。
 避けることは不可能で、障害物の陰に隠れないと逃げることも覚束ない。

(近づいてきたときに刺すしかない!)

 突きの態勢をとる。
 新陰流の位にはない形になった。
 人を想定して練られた剣術が化け物に通じるはずもない。
 宗矩の頭には親兵衛の天衣無縫な戦い方が焼き付いていた。

「刀剣短くば一歩を進めて長くすべし」

 後年、彼の名言として伝わる言葉だが、これはこの時の工夫をもとにして術理として練ったものである。
 宗矩は膝を曲げ、体勢を低くする。
 馬蝙蝠が近づく寸前で立ち上がれば、これだけで突きの届く範囲が増えるのだ。
 例え妖魅でも恐れてはならぬ。
 怪鳥のごとき鳴き声が本能寺跡を切り裂く。

「しぇい!」

 巨大な鳥もどきをギリギリまで引き付けてから、宗矩は突きを放った。
 やや狙いよりはズレたが、それでも刀の切っ先は怪物の胸部に突き刺さる。
 手ごたえはあった。
 殺せるかはさておき、致命傷は与えたはずだ。
 魔の蹄がこめかみ付近をかすめたが、勢いが弱まったせいか見切ることができた。
 突きは成功したが、勢いを殺すことはできず、馬蝙蝠の身体が宗矩に伸し掛かってくる。

(押しつぶされる!)

 地面と怪物に挟まれたら内臓など簡単に破裂してしまうだろう。
 身をねじるが躱すことができない。
 最後にしくじってしまったようだった。
 悔やんでも悔やみきれぬと己を恥じた瞬間、馬蝙蝠の重さがずれていく。
 宗矩を巻き込んだままではなく、強引に突っ込む方向を捻じ曲げられたかのように地面に激突した。
 蝙蝠の羽の被膜が顔を撫でる悍ましい感触に吐き気をもよおしながら、その下から這い出る。
 馬蝙蝠の胴体に横から一本の棒状のものが突き出ていた。
 三ケ月槍の柄であった。
 すぐ脇に宝蔵院胤栄が寄り添っていた。

「……御坊がお助けくださったのですか」
「うむ。おぬしがよく引き付けてくれたおかげで、こやつの横っ腹ががら空きだったのでな」
「突けば槍 打てば鳶口 引けば鎌 とにもかくにもはずれざらまし。宝蔵院の極意、体感させられました」
「咄嗟に新陰流を捨て、自らの勘に頼ったおぬしもだいぶ上達していたぞ。いつまでも石舟斎どのの写しのままでは育たぬからな」

 自分ひとりで倒せなかったことの悔しさもあったが、この胤栄に褒められたことが嬉しかった。
 父である柳生石舟斎と並ぶ武人に認められたことがなによりも彼の心を揺らす。

「――おい、まだ動くぞ」
「まさか」

 宗矩の刀、三ケ月槍の二本が見事に刺さっているというのに馬蝙蝠は立ち上がろうと悶えていた。
 死する生き物の断末魔の蠢きかと最初は思われたが、宗矩の目には突き刺さった武具のせいで身体の均衡が保てずフラフラとしているだけにしか見えない。
 つまり、あの怪物は刀と槍で突かれても傷を負っていないということではないのか。
 宗矩は脇差を抜いたがこんなものでは心許なすぎる。
 かといって、死んでいない馬蝙蝠から引き抜くのは不可能だ。
 隣の胤栄もその事実に思い立ったのか、豪快な破戒坊らしくなく慌てている。
 慣れてきたのか、馬蝙蝠が態勢をたてなおした。
 黄色い眼光で二人を睨めつける。
 傷を負っていなくとも自分を苦しめた相手の区別程度はつくようだ。
 槍を手放し徒手空拳となった胤栄を庇い、前に出る宗矩。

「拙僧は拳骨にも自信があるでな。庇いだては無用だ」

 双つの拳を握りしめ、胤栄は不動明王もかくやという形相で構えた。
 はるか大陸の明国には拳と蹴りの技だけでする相撲とは異なる武術があるという。
 もしかしたら宝蔵院の陰技として伝えられているのかもしれない。
 
(もし宝蔵院のものと決闘をすることがあったら気を付けよう)

 宗矩は脇差を位にとった。
 新陰流の受け太刀としてのものだが、この場では問題ないだろう。
 だが、この化け物をはたしてどうやって殺せばいいのか。
 その道程がまったく浮かんでこない。
 何百何千脇差を振るっても致命傷を与えられる気がしない。
 矢を放って針の筵にしようとも殺すことは敵わないだろう。
 この化け物には命を感じないのだ。
 まるで木で出来た動く像を相手にしているような……

「〈無瞳子の虎〉の同類か……どちらかというと、こやつは写しではなく巨勢金岡の画のようだが」
「どういう意味です、御坊」
「なに、さきほど伝えた通りよ。こやつらは昔に生きていた画家の描いた絵が紙よりでてきた妖魅だ。もともと生きてもおらんし、死んでもおらん。そんなものを退治するのはなかなかに骨が折れるというわけだわい」
「なるほど……」

 かつて、京を荒らし、多くの武芸者が狩りたてても逃がしてしまったという意味がおのずと知れてくる。
 このような性質の妖魅ならば、たとえ源頼光でも退治はできないだろう。
 では、かつてはどのようにして追い払ったのだろう。
 
 グエエエエ!

 馬蝙蝠はついに向かってきた。
 三ケ月槍を抜けないせいで飛ぶことは叶わぬようだが、それでもあの蹄に蹴られれば人間は潰されるだろう。
 そのとき、何かが風を切る音がした。
 矢音だ。
 どこからか飛んできた矢が馬蝙蝠の顔面に刺さり、これまで身じろぎもしなかった巨体が震え、威嚇のためだけに発されていた咆哮が苦鳴に変わった。
 蝙蝠の羽根をばたつかせながら怪物は地面を転げまわる。
 これまで一切の痛みを感じさせなかったにもかかわらず、まるで生きているかのように激しい悶えであった。
 何があったかわからず呆然とする宗矩らの背後から馬の蹄の音が聞こえた。
 振り向くと、鹿毛の馬に騎乗して、短弓を構えた親兵衛がもう一本矢をつがえようと
しているところだった。

「親兵衛!」
「犬和郎どのではないか?」

 二人は助けが来たことを知った。
 しかも、それは少年ながら万夫不当の強さを誇る英雄であった。

「こいつは、〈無瞳子の虎〉ではないようだけど。何匹もいるとは聞いていないぞ」

 どうやら、この妖魅の素性は知っているものの、目的は異なっているようだ。

「〈無瞳子の虎〉を知っておるのか、犬和郎どの」
「うん。わんのご先祖様が退治したことがあると聞いている」
「おぬしの先祖だと」
「ああ。犬江親兵衛という初代だ」

 宗矩には聞いたことのない名前だった。
 だが、胤栄は知っていたらしい。
 驚いた顔をして、

「まさか、犬和郎どのは里見家のものなのか?」
「うん、そうだよ。――しまった、苗字を名乗ってしまった。道節に怒られてしまう」

 親兵衛の苗字を宗矩は初めて知った。
 犬江というのか。
 聞いたことのない家名だった。
 だが、それは彼にとって秘密であったらしい。そういえば、かつて乗りあったときにも「苗字はない」といっていた。

「そういうことであるか。わかったぞ、犬和郎どの。命を救われた礼だ。拙僧も又右衛門どのも、おぬしの秘を決して漏らさぬと誓おう」
「頼むね。宗矩も」
「わ、わかった。おまえにはおれも借りがある。おまえが誰かに今のように口を滑らせん限り、おれは決して他言せぬ」

 安心したのか、少し慌てた顔から微笑に変えた親兵衛であった。
 
「じゃあ、改めて、この妖魅をどうにかするとするか。胤栄さん、宗矩、そいつは瞳が描き加えられていない画に、眼を描き足すことで実体化する化け物だ。だから、斬るのだったら目を狙うんだ。わんのご先祖さまは、そいつの同類を矢二本で退治したらしいよ」

 確かに、親兵衛の射った矢は馬蝙蝠の目のあたりに当たっている。
 命中させた腕は凄まじいが、剣の間合いでなら柳生新陰流の剣士にとってできない相談ではない。
 親兵衛を警戒して、位置取りを変える馬蝙蝠の側面に回り込む。
 三人で機会を合わせようとしたとき、

「まった。数珠の玉が椀を呼んでいる――喝食になにかがあった!」

 突然、親兵衛が慌てだした。
 彼にしかわからない何か火急の事態が勃発したらしい。
 それは親兵衛らしからぬ慌てふためきようだった。
 以前、彼の持つ家宝の数珠の玉には持ち主が危険になったときに助けを呼ぶことができる不思議な力があると聞いたことがあった宗矩はそれを思い出した。
 そして、この京で親兵衛が数珠の玉を預けるような相手は一人しかいない。

「親兵衛、さっさといけ。あの禿の危機なのだろう。こいつはおれと御坊でなんとかする。早く馬を駆けるがいい」

 親兵衛はうんと頷くと、馬首を巡り、この場から去っていく。
 剣術の達人とはいくさ場から離脱するときも思い切りがいい。
 さすがと思える引き際だった。

「さて、御坊。おれたちだけで、この化け物を仕留めましょう」
「ふむふむ、善哉善哉。おぬし、天下に通じる兵法者になれるかも知れんぞ、又右衛門」

 諧謔を飛ばすような朗らかさで、胤栄は拳の骨を鳴らした。
 対策はわかった。
 ならば、この二人で倒せぬ妖魅など居はしない。

 
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