【短編】知らない森で目覚めたら一切喋らない少女と化け物を倒す事になりました。

夜葉@佳作受賞

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この世界には私が眠っている。

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「ここは、どこだ……?」

 青々とした木が生い茂る森の中。
 見覚えの無い静かな自然の上で、男は一人目を覚ました。

 何故このような場所に居るのだろうか。
 どうして自然の中で眠っていたのだろうか。

 だが男は一向に思い出せない。森の中に居る理由も、眠っていた原因も、自分自身の名前さえも。男は、あらゆる情報が欠落していた。

 男は立ち上がり、身の回りの状況を確認する。

 手足の先まで布に覆われた見慣れない黒の衣服は、さながら聖職者のようであった。何故そのような衣類に身を包んでいるのか謎も解けないまま、男は次に辺りへと目を配る。

 手荷物らしき物は落ちておらず、目立つ存在と言えば男が背に寝ていた灰色の葉を付けた大樹ぐらい。足元にはありふれた植物が生い茂るばかりで、手がかり足りうる違和感はどこにも無いように思えた。しかし。

「植物が少し、潰れている……?」

 四方八方を囲む自然の一方に、誰かが踏み歩いたような僅かな起伏が見られた。
 人が均したにしては青々としており、自然と生えたにしてはげんなりとしている草木の葉。自身の足元まで伸びている小さな起伏は、何者かが男の元から離れた事を意味していた。

 記憶もなく覚えもない現状に、男は一筋の手がかりを手繰り寄せる。潰れた植物の先に何があるか。男は意を決し一歩一歩と植物の中に足を踏み入れた。すると、突如として異変は起こった。

「ハハッ…………、正気か?」

 木々の隙間から差す陽の光が、一瞬にして影に塗り替わる。
 目の前には、男の背の倍はある猪を肥大化させたような化け物が、荒い息を上げ睨みを利かせていた。

 乾いた笑い声を上げている場合ではない。
 後ろ脚を蹴り上げ襲い掛かる化け物を前に、男は咄嗟に茂みへ飛び込み回避する。森を囲む木々があっけなく倒れる姿を見て、男は本能のままに潰れた植物をなぞり走り出す。

 唯一見つけた手がかりから離れる訳にもいかず、男は命からがら植物の上を走り現状を打破するきっかけを待つ。
 猪の化け物もそんな彼を見逃すはずもなく、男の身体には近づく地響きが伝わり続ける。

「クソ……ッ、クソッ!! なんだ奴は!? 私はどこまで走ればいい!?」

 手がかりを見つけるのが先か、化け物の手に掛かるのが先か。
 やりたくもない度胸試しをしていた男を待っていたのは、意外にも木々の切れ目。閉じた樹海の出口であった。

「見えたッ!」

 森の中腹へ出来た人為的な道を前に、男は走る足に力が入る。思いのほか大樹から距離がなかった事に感謝しつつ、右と左、次の逃げ道を決めようとした。その時であった。

「なっ、何故このような地に……!!」

「…………!!」

 出口を告げる木々の切れ目から、男の進路を塞ぐように小柄な少女が現れる。
 駆けた勢いを殺す事も出来ず、男は咄嗟に身を反らし少女を避けるように自然の上を転がった。


 ────────────────────


 二人は森の中を暴れる、猪のような化け物に襲われていた。

 再び飛び掛かる化け物を前に、男は恐れを殺し睨み付ける。
 すれ違いざまに身にまとっていた黒のケープを投げつけ、獣の視界を奪い去った。

 真っ黒な布を被せられた化け物は混乱し、その場で地団太を踏みながら顔を振り回す。
 化け物の意識が逸れたのを確認すると、無防備に立つ少女の肩を抱き庇うように茂みへ身を潜めた。

「おい、逃げるぞ」

 茂みの根元で男は囁く。
 男は返答を聞くよりも先に少女を小脇に抱え、化け物に注意しつつ道沿いの茂みを突き進む。

「お前、奴が何なのか知っているのか?」

 どこか口惜しそうに化け物のいた方角を見つめる寡黙な少女。
 そんな彼女を見て男は情報を持っているのかと問うも、返答はない。気になって視線を向けると、僅かに首を横へ振っているのが見て取れた。

「……そうか。では質問を変える。お前はあの地で何をしていた? お前の名は? 身分は? 家はどこだ?」

 何を問いかけようが少女は全く口を割ろうとしない。かといって聞こえていないのかと視線を向ければ、返事をするように首を横へ振るばかり。しびれを切らした男は、岩陰を見つけると少女を下ろし面と向き合う。

「真面目に答えてくれ。私もよく分かっていない。気づけばあの地で目覚めたのだ」

「…………」

「現状お前だけが頼りだ。今こうして化け物から助けた恩義もあるだろう? 答えてくれないか」

「…………」

「…………まさか、喋れないのか?」

 コクリ、と少女は小さく頷いた。

 男は思わず目を丸くする。答えないのではなく、答えられないのだ。
 ではどうしてそんな少女が森の中になどいたのだろうか。改めて見てみれば、彼女の見た目も違和感があった。

 男の背丈より二回りほど低い身体に、自然の中になど似つかわしくない白黒の豪奢で布地の厚い衣服。常にどこか無を見つめるような彼女の表情に、男は感情の欠片も見出す事が出来なかった。

「お前…………どこから来た?」

 それは質問ではない。記憶喪失の男に、言葉を喋れない少女の存在。
 そんな二人が人気のない森の中にいた事実。

 男の常識の外で何かが起こっているのだけが、答えを聞くよりも先に伝わっていた。
 だがそんな彼の内情などつゆ知らず、少女はゆっくりと腕を上げ指先を突き出す。

 指の腹が示すのは男の顔。ではなく、その少し後方。茂みの中であった。
 そこには両手に収まるほどの小さな獣が、ひょっこりと顔を覗かせこちらを見つめていた。

 獣の姿を見て、男は化け物から逃げている最中であったと思い出す。
 彼女にそそのかされるように、先にやるべき事を少女へ答える。

「そうだな、今は身の安全の確保を優先しよう。私達の事はそこから考えれば……どわぁ!?」

 小さな獣を見ていた男の襟首の後ろを、少女は唐突に引っ張った。

「お、お前! いたずらなどしている場合か……ッ!」

 生意気な少女を叱ろうと倒れた背に力を入れようとした。その時だ。
 パンッ!! と破裂音が響くと同時、小さな獣は黄色い光を放ち、自爆した。

「なん……だ……!?」

 視界が黄色に包まれる。
 森の中の物陰で身を潜めていたはずの二人を、稲妻のような光が包み込む。

 直後、覚えのある音と振動が伝わり、男は急いで少女を抱え横道に飛び込んだ。
 先ほどまで身を潜めていた岩が砕かれる。同時、二人の居た地が踏み荒らされる。化け物は的確に二人の位置を把握し、全身全霊を放っていた。

「何故分かった!? 今の今まで近くになど居なかったはず……ッ!!」

 困惑を最後まで口にしようとして、男は直前の出来事を思い出す。少女の指差した、両手に収まるような小さな獣。その獣の姿が、どことなく目の前の化け物に似ている事を。

 眼球を揺り動かし、破裂音のした地を確認する。そこに獣の姿はいなかった。それどころか毛皮も肉片も、獣がいたという過去は消え失せていた。

 あるのはただ一つ、黄色い花弁の塊が空を舞うのみ。
 稲妻のように見えた黄色い光は、突如として空に咲いた花であった。

 鼻元をくすぐるほのかに甘い風を受け、男は空で散った花の意味を理解する。

「こいつ、手駒を従えているのか……!?」

 五感を刺激し、あらゆる手で敵の存在を伝える小さな獣。
 ただの乱暴な化け物に思えた巨獣は、知能と未知を合わせた不可思議で二人を追い詰めていた。


 ────────────────────


 見知らぬ森の中。二人は逃げ続ける。

 小型の獣と目が合うだけで、奴らは一瞬にして居場所を伝えている。
 情報が伝達する前に。と男は小型の獣を投げ飛ばしたりもしたが、本体の化け物は宙で爆ぜた獣ではなく、投げ飛ばした男の元へ真っ直ぐに突き進むのであった。

 小細工は通用しない。見つかったら最後、二人の位置は否が応でも伝わってしまう。
 辺りに気を配り続けながら、ああでもないこうでもないと男が対応を模索していると、不意に彼の腕が横へ引っ張れられる。

「服を引っ張るな。奴をどう退くか今考えている……」

 頭の中でまとまりかけていた作戦が、同行者の茶々入れで分解してしまう。少しばかり不快感を抱きながら腕を見てみると、寡黙な少女はやはりといった様子で服の袖を引っ張っていた。

 だが彼女が自発的にアクションを起こすのは、何も気まぐれだけではない。獣が初めて爆ぜた時のように、少女は細い腕をそっと伸ばし、ある一定の方角を指していた。

 化け物が襲い掛かるよりも前に、少しでも安全な場所へ。男は今までと同じように走り出そうとした。だが、少女の指差す獣の様子が少しばかり違っているのに男は気づく。

「……こちらに気づいていない。のか?」

 小さな獣は明後日の方角へ歩き、男の視界から姿を消す。運が良かった。だけではないと、男は本能的な違和感を抱く。

 あれだけ執拗に居場所を探し出す獣より先に、この少女は相手の居場所を見つけ出したのだ。
 たまたま見つけ出したと言われればそれまでだが、この植物生い茂る森の中で、少女は視界の隅にいた獣を指差した。それに初めて獣と対面した際も、少女の指が先に動いていたのを男は思い出す。

「まさかお前……分かるのか? 奴らの居場所が。奴らの動きが」

 少女は何も喋らない。ただ小さく、首を縦に振り男の問いに答えるだけだ。
 それだけの事が、ただそれだけの行動が、男の心を揺り動かす。


 やれる。かも知れない。


 状況の有利不利が僅かに揺らぐ。ただ追われるだけの立場から、追い詰めるための策略に。
 化け物を倒す。そのために、今ある情報を捻り出す。

「化け物本体は脅威だが、厄介さで言えば小型だ。逃げようが飛ばそうが奴らは居場所を正確に伝える。見つからないようにするのが賢明だ。しかし……」

 少女の力を借りれば、小型に見つからず本体まで辿り着く事が出来るだろう。しかし直接対面したところで到底敵う相手では無いのは、火を見るよりも明らかであった。

 だがそんな化け物でも、何とか逃げ延びる事は出来た。
 そのきっかけとなった出来事を、男は今一度思い出す。

「ケープを顔へ投げつけた時、奴は私達を見失っていた。目隠し、視界か。だとすれば小型も同じ可能性がある。そうであれば、辻妻が合う……!」

 投げようが逃げようが関係ない。その姿を見られていたならば全ての情報は筒抜けだ。自爆時に起きる音も臭いも舞い散る花弁も、全ては注目を集めるためのフェイク、または補助効果に過ぎない。

 猪の化け物を欺くには、小型の獣の視界を奪う必要がある。
 小型を騙し、偽りの情報に釣られた化け物なら、あるいは。

 しかしながら肝心の視界を奪う道具が無い。手ごろな物は二人とも持っていない。
 森の中には様々な自然物や植物が自生するも、ケープのように扱いやすいものなど見当たらなかった。

「かくなる上は……」

 男は自らの衣服へ手を掛ける。
 扱える物はもう、自身の衣類ぐらいしか思いつかなかった。

 だが、剥ぎ取ろうとする男の手が震える。服の構造が分からない訳でも、人前や森の中で脱ぐ事に抵抗がある訳でもない。男は数少ない過去に繋がる手がかりを失う可能性に、恐怖していた。

「……今最も大事なのは、過去より命ではないのか!?」

 日和る自身に嫌気が差す。今は迷っている場合ではないだろう。
 男は一度離した手でもう一度服を掴み、躊躇いを捨て去ろうとした。そんな彼の手を止めたのは、他でもない少女であった。

「…………」

 男の震える手にそっと片手を添え、空いた片手で森の奥を指差す。少女が指差すものは小型の獣でも化け物でもない。もっともっと森の奥、さらに木々の隙間から見える、灰色の葉を付けた大樹であった。

「あれは、私の眠っていた……」

 どうして大樹を少女が知っているのかは分からない。だがそこから少し進んだ先で化け物に遭遇し、ケープを投げ捨てたのを男は思い出す。そして直後、再び遭遇した化け物はケープを被っていなかったと振り返る。

「獣を避け、大樹の場所まで進めるか?」

 少女が小さく頷くと、男は彼女の示す道を突き進むのであった。


 ────────────────────


「少し汚れているが……問題はあるまい」

 黒のケープを回収した男は、道中打ち合わせていた作戦を早速決行する事とする。
 まずは少女に小型の位置を教えて貰いながら、一匹だけを灰色の大樹へと誘導する。

「小型がその目で見た情報を伝える習性を逆手に取る。小型に偽りの情報を与え、大樹の下まで誘き寄せるぞ」

 男の伝えた作戦はこうだった。

 真正面からやり合っても敵わない相手なら、相手の意表を突いて弱点を貫くしかない。当然、並大抵の策では意表など突けず力負けしてしまうだろう。だから二人は、相手を騙す必要があった。

「大樹の近くでワザと小型に遭遇し、本体へ居場所を送らせる。だからお前はタイミングを合わせ、気づかれぬようこのケープで小型の視界を奪ってくれ」

「…………」

 少女は相変わらず返事をしない。
 だが男の作戦を聞き入れたのか、彼の持つケープをそっと受け取っていた。

 標的の小型を見つけた二人は、気づかれぬよう頷き合う。

 小型を誘き寄せるには、辺りに落ちていた木の実が役立った。
 知性はあまり無いのか、目の前へ投げると獣はその場へ歩み寄る。

「良いぞ……その調子でこちらに来い」

「…………」

 少女へ他の個体を注意させながら、一歩一歩確実に灰色の大樹へと引き連れる。
 少女が茂みの側に隠れ込む、同時に男も大樹の下に辿り着く。

 準備は整った。

「今だぁ! こっちを見ろ獣よ!!」

 男は大樹の真下から、誘き寄せた小型の獣へ木の実を投げつける。
 木の実が獣の額へと当たり痛みに驚くと同時、獣は身体を震わせ自爆の予備動作に移る。

 男は少女へ声を掛けない。声を出してしまえば、彼女の存在が伝わってしまうのだ。だから男は少女を信じる。そして、彼女は飛び出した。

(よし! 上手くやったな!!)

 少女は音も立てずにひっそりと現れ、そしてケープを被せ身を潜める。
 ケープは小型の視界どころか、その身体をすっぽりと覆い完全に周りを囲っていた。

 急いで男は大樹をよじ登る。少女を担いで森を逃げ回った体力と腕力で、男は堂々とした腕使いで大樹の上の定位置へと身を移す。

(やれる。いや、やってやる……!!)

 地響きが伝わる。森が揺れ、自然が悲鳴を上げ、獣の放った花弁の甘い臭いが鼻を掠める。


 そして化け物は、姿を現す。


「そこだあああああ!!」


 化け物は大樹を避ける軌道を描き、男の立っていた居場所へと全体重を放っていた。
 そんな敵の脳天へ、大樹の上から重力を乗せた男の一撃が降り注ぐ。

 化け物の攻撃は空振り。男の一撃が森の攻防に終止符を打つ。はずであった。


「なっ……んだと!?」


 ギロリと。明後日の方向を見ていた化け物が顔を上げる。
 瞬間、化け物は男が重力を乗せ切るよりも先に、男の身を突き飛ばしていた。

 叫び声すら出せない。腹の中の空気が全て飛び出し、意識すらも消えかける。
 何が、何が起きたと言うのか。男は必死に目を血走らせ、状況の整理を図る。

 それは化け物の足元。大量の黄色い花弁が甘い香りを放ち、大地を彩っていた。
 化け物は自身の足場に大量の小型を生み出し、それらを爆発させ軌道を真上に曲げていたのだ。

 空振りなどではない。より勢いの乗った突進は男を軽々と跳ね返し、あまつさえその背にあった灰色の大樹すらなぎ倒す。

 宙を舞う中、視界の端で寡黙な少女が顔を覗かせる姿が目に入った。
 作戦は失敗も失敗。全てが台無しだ。当然、自身どころか少女の身すら守る事など出来なかった。

 男の抱いた希望は、未知の力を前にあっけなく敗れ去るのであった。


 ────────────────────


 倒れた大樹の下、男は薄っすらと意識を取り戻す。
 生き残っている事が不思議であった。

 右足が折れて動かない。辛うじて動く両手と左足を使って、男は大樹の葉から顔を這いずり出す。
 地響きはまだ比較的近いどこからか聞こえていた。

 化け物は次の標的、少女を排除するため森を練り歩いているのだろう。
 少女はまだ無事だろうか。自分の犠牲で生き延びたならそれでいい。

 消え行く意識の中、男は自分よりも先に少女の心配をしていた。
 そんな感情に、男は忘れ去りし過去を見出していた。

(ああ。私はきっと、同じ道を辿っているのだろうな)

 記憶が無いからといって、人の持つ本質は変わらないのだろう。
 だから男は過去を失い、次は命さえも失ってしまうのだ。

 悔しいと思う気持ちは確かにあった。だが不思議と、後悔はなかった。
 あのまま逃げ道ばかりを探していては、少女が逃げ延びる可能性すら生まれなかったのだから。

 だったら、自分の取った行動は無駄ではなかった。
 だったら、今ここで命を失うのも無駄ではないはずだ。

 男は深呼吸し、僅かに残った希望を胸に抱く。
 最後の願いはただ一つ、少女の無事だけなのだから。

 だがそんな男の存在を、この世界は否定する。


「…………」


(何故戻って来た……!!)


 男の目の前に、少女は姿を現す。
 声を荒げたいが、上手く呼吸が出来ない。

 灰色の葉の中から右手を伸ばし、どうにか逃げろと伝えようとする。
 そんな男の思惑など微塵も気にも留めず、少女は己の役目を全うしようとする。

「…………」

 少女は裾の中から何かを取り出し、伸ばされた男の手の前へと差し出した。

 男には、少女の取り出した物が分からなかった。
 それは男が消耗し、意識が薄れているためではない。少女の手の上には、何も無いはずなのだ。

 形は無く、色も無い。なのに男の意識の中に、はっきりと伝わって来る。

 無色透明の、未知なる結晶。
 触れるだけで指が焦がれてしまいそうな力の塊に、男の意識は無理やり引き戻される。

「それに触れろとでも、言っているのか……?」

 少女は何も答えない。ただひたすらに男の目を見つめ返し、少女は未知なる結晶を差し続ける。

 与えられるのではなく、掴み取れと。己の意志で受け取るのだと。
 喋らないはずの彼女の言葉が、胸の中で溢れ出す。

 危険を顧みず、彼女が戻って来た意味とは何だ。私が今、出来る事といえば何だ。
 選択肢なんてものは浮かぶ余地すら与えない。ここで死ぬなと言うのなら、あるべき道は一つしかないのだ。

 男は無心で、未知の力を受け入れる。


 ────────────────────


 結晶へと触れた瞬間、男の頭の中に様々な記憶が流れ込む。

(この景色は、何だ……?)

 深い水の底。火山の側。崖の上。そして鬱蒼と生い茂る森の中。
 瞬きをするたび、見える景色が入れ替わった。

 膨大な時間が過ぎ去る。

 目まぐるしく変わる景色の中、次第に男の意識が遠のいて行く。
 時間の海へと沈みかけたその時、そっと誰かに呼ばれた気がした。


「…………」


 男は目を開き、景色に意識を向けてみる。見えたのは木々に囲まれた河原。

 どことも分からない景色の中。目の前には、少女が佇んでいた。
 少女は何も言わずしゃがみ、男の意識へと手を伸ばす。

 少女の手に包まれると同時、満たされた安堵感によりしばしの眠りに就いていた。
 そしてまた、ふとした拍子に意識が目を覚ます。そこは、見覚えのある森の中であった。

 目の前では先ほどまで戦っていた化け物が暴れており、対峙するように寡黙な少女と、黒い衣服をまとった男が立っていた。

(あの服にこの状況、まさか、あれが私の姿……なのか?)

 潰れた植物の上から世界を見渡しているような視点。
 男が少女を連れて姿を消すと同時に、布を被せられ悶える化け物の姿が目に入った。

(これは私達が逃げた後の出来事……。私は何を見せられている? 私は、何を思い出そうとしている……!?)

 どこからか、破裂音のようなものが聞こえた。

 音を聞いた化け物が、跨ぐように視線の上を移動する。そして落ちた布によって視界は真っ黒に染まり、意識は再び薄れていった。だが直後、再び意識は呼び起こされる。

「少し汚れているが……問題はあるまい」

 深い水の底から浮上するように、溢れ出る記憶と今までの思い出が重なっていく。

(ケープを回収した直後の出来事……か)

 ぶつくさと考え事をする男の側で、寡黙な少女はそっと、記憶が見せる視線の前へ立ち塞がる。
 何も言わぬ少女はジッと見つめ、そして手を伸ばし再び男の意識を包み込んだ。

(お前が大樹を指差したのは、お前にも目的があったからなのか)

 どこからともなく思い出された景色は、誰のものでもない。
 それは少女の差し出した、無色透明の結晶に蓄えられた『記憶』なのであった。

 折れていた足が、過去を取り戻すように元の形へと修復される。
 怪我をしていたはずの全身が、在りし日を思い出すかのように身軽になる。

 無であった記憶の断片が、少女によって埋められる。


「そうか。私を見つけ出したのは、お前であったのか」


 のしかかる大樹を退かし、男は立ち上がる。
 この世界に眠る未知の力を、男はその身に宿らせる。


 ────────────────────


 溢れ出す記憶の中に、この森の出来事において不可解なものが混ざっていた。
 破裂音が聞こえた瞬間、爆発に驚き身を倒していた自身の姿が見えたのだ。

「見えた、だけではない。あれは……記憶そのものだ」

 伝わったのは姿だけではない。音や光に驚いた恐怖心。花弁や甘い臭いに困惑した不信感。
 化け物が駆けつけるまでに起きていた一連の情報を、小型の獣は記憶に刻み続けていたのだ。

 無論、姿形は花弁へと変化していた。つまり少女に渡された未知の結晶のように、記憶は目に見えぬ何かとしてその場へ残されていた事となる。

「なるほど、だから大樹に登った私の存在にも気づいていたのか。全く、厄介な相手だな」

 だが、と男は気づく。化け物の扱う記憶を蓄積する能力は、今自身にも宿った未知の力と同じであると。つまり自分も同じく、化け物のように人智を超えた力を扱えるのではないかと。

 直前の出来事が、疑惑を確信に変える。
 のしかかっていた大樹を払い除け、男はその身一つで立ち上がったのだ。

 この力があれば、今度こそ。男は拳を強く握り、溢れ出る力を確かめる。
 すると不意に、側にいた少女が片腕を上げ、前方を指差した。

「…………」

 まるで目覚めた男を試すように、化け物は再び姿を現す。

 一触即発の空気の中、先に動き出したのは化け物であった。
 真っ直ぐと突っ込む敵を前にして、男は少女を抱え倒れた大樹の裏へと飛び移る。

 溢れ出る力は、軽い蹴りだけで身長以上の跳躍力を発揮する。
 少女を木陰へ避難させた後、男は回り込んで来た化け物の不意を突く。

「お返しだッ!!」

 迂回して勢いを失った化け物へ、男は弓矢のように鋭い拳をお見舞いする。
 強靭な筋肉の鎧を以てしても、化け物が仰け反ったのが目に入る。

 攻撃は通っている。不意を突いても歯が立たなかった相手に、互角の力で立ち向かえている。化け物が体勢を整える前に、二撃、三撃を。間髪入れずに襲い掛かる男であったが、化け物も怯まない。

 身体の左右から十数匹の小型を生み出し、片側を体勢の補助に、そしてもう片側を男へのけん制に利用する。大量の花弁と共に化け物は男の視界から消え去った。だが。

「お見通しだ……!!」

 倒れていた大樹に、これでもかと目一杯に蹴りを加える。
 花弁と砂煙を蹴散らしながら、中に潜む化け物へ大樹の一振りを叩き込む。

 すると地面を転がる大樹がピタリと止まったのが目に入った。
 化け物が小型を生み出し、多量の花弁と共に勢いを殺していたのだ。

 しかしそんなものは織り込み済み。いや、それこそが男の狙いであった。


「これで、終わりだあああああ!!」


 化け物の動きは大樹で止めている。そして砂煙で隠れた位置は、相手の花弁で推測出来る。
 地面を抉るほどの蹴りで飛び上がった男は、黄色い花弁のド真ん中へ拳を振り下ろす。


 ────────────────────


 衝撃の轟いた森の中。

「終わった……な」

「…………」

 目の前の化け物は、完全に意識を失いピクリとも動かない。
 記憶喪失の男が巻き込まれた戦いは、記憶の一部を取り戻した事により勝利へと傾いたのだった。

 勝利を確認した男は少女へと振り向く。
 これまで起きた事。そして結晶の見せた記憶の事を少女へ問いかける。

「私の記憶を探し出したのは、お前だったんだな」

「…………」

「記憶は全て取り戻した……訳ではない。正直言って、分からない事の方が多い」

 男の言葉を聞き、どことなく少女の顔色が曇ったように見えた。
 そんな彼女を見て、男は躊躇わず次の言葉を口にする。

「だが、他の記憶もお前と居たら取り戻せる。のだろう? ならば探そうではないか。この世界に眠る私の記憶を。お前と私、二人の力を合わせて」

 結晶が見せた様々な景色。そこに待ち受けるは、きっと男の失った記憶なのであろう。
 ならばその地へと赴き、記憶を取り戻す。男の行く末には、既にもう迷いなど無かった。

 少女は相変わらず喋らない。
 だが男には分かる。言葉など無くとも彼女の想いが、受け取った記憶に乗せて伝わったのだから。

「お前、名前は何という? 私の名前は────」

 少女のおかげで取り戻した名前を、男は高らかに名乗り上げるのであった。
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