扇屋の梟

音羽夏生

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番外編 天女(1)

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 高級娼館『扇屋』が帝都に店を出して、半年が経った。
 第二都市の花街にある本店同様、早くも帝都の花街でも随一の客筋を掴んでおり、貴族や高級官僚、大商人が主な顧客だが、稀に厄介なお客もやってくる。
 用心棒の梟がいない今日。
 扇屋は、この上なく高貴で、国一番の豊かな財力を持つが、二度のお越しは心より願い下げたい厄介なお客を迎えていた。

「以前本店にお越しになった際にもお伝えしましたがね。うちは、女たちと遊ぶところなんですよ」

(用心棒を攫ったり、店主を相手に酒を飲むところじゃないんですよ)

 来店するなり、人気の娼妓ではなく店主を酒の相手に名指しした客は、以前店から梟を拉致した騎士――蜻蛉かげろうだった。
 漆黒の髪と瞳は『大陸の黒き鷲』と畏怖される二つ名のいわれでもあり、闇をこごらせたような瞳には、底の知れない思慮と剛い意志が秘められている。その眼光の鋭さが只人ではないと知らしめているが、それも含めて端正な造作の容貌と、逞しく鍛え上げられた長身には、店の女たちがこぞって群がるに違いない。滴るような男振りだ。
 輝く白金の髪と明るい青灰色の瞳を持つ、彼の想い人の隣に並び立てば、神々しいまでに美しい対の二人として、宮廷画家は己の技量が追い付かぬと嘆きながらも絵筆を走らせ、吟遊詩人は言葉では語り尽くせぬ光景に歯噛みすることだろう。

(まあ、そんな日は来ないだろうがね)

 今のふくろうは、皇帝の『影』。表舞台に立つことはない。
 椿つばきは、蜻蛉が皇帝の裏の顔だと知っている。裏の名と仮の身分を使い、梟を攫い纏い付き、その腕に搦めとろうと数々の無体な仕打ちをしてきたことも知っている。梟を身内のように思い可愛がっている椿にしてみれば、両手を広げ笑顔で迎え入れる相手では、当然、ない。
 皇帝もそれを察しているが、あくまで蜻蛉で通している。
 どちらも知りながら知らぬふりで、奇妙な酒宴は始まった。

 娼館は厨房を持たず、酒席を設ける場合は、花街の仕出し屋から客の好みの膳を取り寄せるのが常だが、蜻蛉はそれを断っていた。貴族や商家の宴席に仕出しを頼まれる名店もあるのに、蜻蛉の望みは、この店の者が普段口にする肴であるという。蜻蛉という裏の顔を持ちながら、今更高貴な御方の庶民の社会見学でもあるまい。これは単に、想い人の嗜好調査以外、椿に思い当たる節はない。

(愛されてるねえ、梟)

 至高の身たる皇帝にそんなことをさせている時点で、梟への思いの深さが知れる。しかしそれ以前に、皇帝にそんなことをさせるほど――没落貴族に生まれ神殿で育ち、暮らしぶりは質素そのもので華美を嫌う梟に、皇家に生まれ育ち口の奢った皇帝が合わせようとするほど、二人の仲が順調に深まっていない証拠でもある。閨以外では、梟は何一つ皇帝の言いなりにならないであろうという自分の見立てが見事に当たっていることに、椿は内心笑いが止まらない。
 そんなわけで、大陸の三分の一を手中に収める皇帝アルフレート三世は――蜻蛉は今、干し魚の身を裂いて軽く炙り、香辛料と果実油で和えた、実に素朴な庶民の一皿で、辛口の蒸留酒をちびちびっている。

「ところで今日は、うちの梟はどうしたんで?」

 そもそも今日は、梟が皇宮から帰宅する――扇屋に戻ることを、梟はそう言っている――日だった。それこそ両手を広げて笑顔で迎え入れ、やさしく抱きしめて労をねぎらい、今頃はこの威圧感ばかりが凄まじい無口な男前ではなく、可愛い梟を相手に穏やかな酒宴を楽しんでいるはずだったのだ。
 それでも海千山千の娼館の主たるもの、客を前に不愉快さを表に出すことは一切ない。昨日の天気でも聞くような調子で訊ねる椿に、蜻蛉は口の端を歪めると、嘆息するように答えた。

「昨夜は陛下のご寵愛が過ぎたようでな」

 どの口が言うか!という突っ込みは、もちろん口には出さない。
 花街の花燈篭に灯りが入るこの時間になっても寝台を出られないほど、手酷く梟を抱き潰したのは――週に一度の梟の帰宅を阻んだのは、もちろん目の前のこの男だ。
 顔には出さず憤慨した椿だったが、翌日扇屋に戻ることを「帰宅」と言って珍しく弾んだ様子を見せ、それが皇帝の逆鱗に触れて、どんな哀願も悲鳴も泣き顔すらも無視され、梟が一晩中啼かされる羽目になったのは、さすがの椿もあずかり知らぬことだった。

(…愛されてるねえ、梟…)

 あずかり知らぬが、何となく察した椿である。
 二人の関係は、あまりにも『躾』の時に椿が看破し予想したとおりで、今度は少々乾いた笑いが洩れた――もちろん、心の中での話だが。
 それにしても、そのような目に遭わせながら、見舞うこともせず花街で酒を飲むとは、随分といい身分ではないか。うちの可愛い子に何をしてくれるんだい、という思いを敢えて隠すことなく、椿の声に棘が潜む。

「介抱はなさいませんので?」
「あのような風情の者が床に就いていては、陛下も気が休まるまい」

 全身に執拗な情交の痕を散らし、抱き潰されて足腰も立たず、夜通し責め抜かれた荒淫の窶れを青白い頬に残し、壮絶な色香を漂わせて寝台から動くこともできない。そんな梟を目にしたら、介抱の途中に襲い掛からずにいる自信がない。つまりは、そういうことか。
 しかし、そもそも椿は、皇帝が想い人の事後の面倒まで見るとは思っていない。細々とした世話は侍従にやらせるのだろうと、庶民の感覚でも想像がつく。伽を命じないなら自室に運ばせ、皇帝は悠々と一人、自身の寝台で休めばいい。
 ただ、皇帝の梟に対する執着は尋常ではない。
 事後の陰影を色濃く残す想い人を、人任せにはできない。閨事ねやごとの始まりから終わりまで、梟に関することはすべて自分の手で行いたい。あの艶めかしい白い肌に、どんな形であれ、侍従の手を触れさせるなど我慢がならない。そういうことなのか。
 その、気が休まらない陛下は皇宮におり、今日も寝室で休むのだろうに、そこから逃れてここに来たような言い方に、蜻蛉も多少酒が回っていると見える。

「で、陛下の代わりに介抱もなさらず、蜻蛉の旦那は何故こちらへお越しに?」

 皇帝の執着などすでに腹いっぱいになるほど見聞きしており、今更驚くこともない椿の一番の疑問は、それだった。これ以上梟に無体を働かせないために、扇屋に狼を隔離するのはやぶさかではないが、その狼が自ら大人しく檻に入るとは思えなかったのだ。
 はたして蜻蛉は、今宵初めて、椿の想定を遥かに上回る事実を告げた。

「梟が言ったのだ。自分の代わりに扇屋へ行き、店と女たちを守れと」
「梟が」

 能もなく、鸚鵡返しに繰り返す。

(…梟…本当におまえって子は)

 ――どうしてそんなに可愛いんだい!
 ――どうしてそんなにズレてるんだい…。

 胸に同時に去来する異質な二つの思いに、椿は悶絶した。
 一体どうしたら、一国の主を、大陸の三分の一を版図とする帝国の皇帝を、娼館の用心棒として派遣しようなどと思いつけるのか。
 否、梟の思考は読める。それは至って単純だ。
 今日梟は、扇屋に帰宅し、用心棒として一晩を過ごす予定だった。それを、皇帝のせいで阻まれた。自分の邪魔をし勤めに穴を開けさせたのだから、それを埋めるのは当然、この事態を招いた皇帝である。そう考えたのだろう。
 神聖騎士であろうと娼館の用心棒であろうと、勤めを疎かにすることを嫌う生真面目さが、朝方まで続いた情事とその後の公務でさすがにわずかな疲労の色をにじませる皇帝に、冷たく告げたに違いない。

 ――地位に甘えることのない大人の男なら、自分のしたことの責任を取れ。

 自分を寝台に沈め身動きできない状態にしたことへの意趣返しはもちろんあるだろうが、本心から仕事への責任感で蜻蛉を寄こしたことは、想像に難くない。そして梟が寄こしたのだから、武人としての皇帝の腕は相当なものなのだろう。そこまで本気で警護してもらう必要があるほど、扇屋の客筋は悪くないのだが。
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