爽やかな出逢いの連鎖

稲葉真乎人

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夫々の恋

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山鉾巡行の影響なのか、植物園の入園者は少ない。楠並木や針葉樹林の日陰を選んで散策する。
納涼床の夜以来、初めて二人だけで太陽の下のデートを楽しむ。
園内の広々とした大芝生地で、小さな子供が上半身裸で元気よく走り回り、木陰のベンチでは、熟年夫婦がのんびりと暑さを凌いでいる。
良一と紗枝は、大芝生地の見渡せる長椅子に腰掛けた。
「沙紀さん、夕べの電話でのことば、ありがとう、昨日まで僕は自分の気持に自信がなかったけど、海田さんに問い質されて、沙紀さんに対する自分の気持を確信することができた・・・」
「海田さんは、良一さんに何を言われたんですか?」
「沙紀さんが、転職を僕に任せてくれたこと・・・」
「きみ達は、そこまで進んでいるのかって・・・、言われてみて、沙紀さんの気持を読めていない自分の鈍さに呆れたよ・・・」
「それは、気づいていなかっただけだと思います・・・、だって、わたしに、あんな行動をとらせたのは良一さんですから・・・」
「そうかな?、僕に賭けると言ってくれたときに気付かないと・・・。僕から気持を伝えるべきだった・・・、そう思うと、昨夜はよく眠れなくて・・・」
「わたしもそうです、でも、自分の気持に素直になろうと思ったのは、良一さんとふたりで納涼床で話してからです・・・。昨日は嬉しいことが沢山あったから言えたのだと思います・・・。わたしの目、腫れていません?」
「そんなことはないよ、綺麗だと思うけど・・・」
良一は腰をずらして、沙紀の方に上半身を向けた。
「さっきの話だけど、沙紀さんの作ったパンのお蔭で、僕は沙紀さんを大切なひとだと確信できたから・・・、僕と真剣に付き合ってくれないかな?」
「ええ、わたしは、もうとっくに真剣ですから・・・」
「ありがとう、電話で僕の名前をお母さんに伝えたから挨拶に行くよ、沙紀さんがタイミングを見てくれるかな?」
「あの・・・、最初は、お友達と言うことで紹介していいですか?、わたしは母とふたりですから、まだ、気持の中で割り切れないことがあるので・・・」
「勿論、これから先のことは急いで考えなくてもいいよ、誰にも自分がどうなるか分からないことだってあるから・・・」
「大人ですね・・・、ゆっくりでもいいですか?」
「いいよ、沙紀さんは突然ぼくの前に現れたんだ、始まったばかりだから、此処からでいいと思っている・・・。大人って言うけど、三つしか違わないよ」
「でも、ずっと年上みたい・・・、優しいんですね」
「普通だよ、だけど、好きになったら誰でもそうなんじゃないかな・・・」
「わたし、今まで御神籤を引いて、一度も良かったことはなかったのに・・・」
「今回は中りだったと思ってくれるんだ、ぼくも中りだと思う・・・」
「少し前までが嘘みたいな気がする・・・、あの日、電車に朝早く乗ってよかった・・・」
「僕ーぼくもだ・・・、ひとには親切にするものだね・・・」
「良一さんでなかったら、バッグを渡していなかったかも知れないわ」
「そんなに直ぐひとが見分けられるの?」
「女の勘なのかも、好きなひとにだけの・・・」
「そうでよかった、あの日、昼ご飯を食べそびれたのもラッキーだったな、あのカレーパンに出会ったから・・・。順ちゃんに感謝しきゃ・・・。もしかして、ぼくはカレーパンに恋したのかも・・・」
「そんな、冗談を・・・、でも、順子さんはいいひと・・・、良一さんの周りには良いひと達ばかりみたい・・・」
「沙紀さんもそう、中森さんもそう・・・。中森さんには学生の頃、いちど会ったことがあるけど、あんなに素敵な女性になるとは思わなかったな・・・」
「ほんとですね、わたしは順子さんと最初にご一緒したとき、羨ましかった・・・。留美さんにも長く会っていなかったし、こんな良いひと達も居たんだと思ったら、何故か寂しくなって・・・」
「みんな友達だよ、美雪も今夜紹介するよ。海田さんも中森さんのお兄さんの紀夫さんも、みんないい人なんだ。今度、みんなが集まるときに、声を掛けるよ・・・。僕も京都に帰ってきて、こんなに急に知人が増えるとは思ってなかった、特に沙紀さんに会えたのは、正直、驚いてる・・・」
「そうですね、あの朝、何を考えて歩いていたのか、思い出そうとしても分からないんです・・・」
「僕も、あの日は急いでいた筈なんだ、なのに、知らないひとのバッグを持つ余裕があったのが不思議なんだ、誰のでもそうする訳じゃないのに・・・」
二人は椅子を立つまで、視線を外すことは無かった。
安心し切った様子で、軽く手を繋いで歩く沙紀を見ながら良一は思った。
~パン職人で生きて行こうという一心が、沙紀の重荷になっている~
~父を亡くし、母を支えようという健気な思いが彼女を鬱にしたのだ~
目の前にいる沙紀は、初めて会った時の沙紀ではなかった。
良一は、そんな沙紀を可愛い女性だと心から思い、幸せにしてあげたいと、強く自分に言い聞かせた。
沙紀が良一に言った。
「もう少し歩きません?」
「そうだね、海田さんのイタリアンを楽しみに、腹を空かしておくかな・・・、きっと、先輩は沙紀さんを獲得するために大判振る舞いするような気がするな・・・」
沙紀は、軽く繋いでいた手を離すと、良一の腕を抱えるように組み替える、初めてのことでも、決心のような思いはなく、自然にそれができた。
ついこの前まで、男性と共に歩くなど想像もできなかった沙紀にとって、何も思い煩うことなく、並んで歩いていることが夢のようだ。何よりも、そんな気持になれた自分が嬉しい。母の久美子のことだけが心の隅で蠢いている・・・。紗枝は、それだけが気懸かりだった。
沙紀が良一と山鉾巡行を観るために出かけた後、穂高のペンションの富夫が送ってくれた久美子の荷物が届く。
久美子は荷物の衣類や着物を片付け終え、座敷の中央に置かれた卓袱台の前に座る。
周りを見渡して、元気で家に戻れたことを、しみじみと感じていた。
留守にして手入れが行き届いていない庭を縁側越しに眺める。
それでも庭木だけは、沙紀が出入りの植木屋に手入れをして貰っているのが分かる。苦労を掛けたと、改めて思う久美子だった。
冷たい緑茶を前にして、久美子は紳策のことに想いを馳せた。
夫を亡くして後、長い間鬱積していた想いが、心を頑なにした・・・。
重く圧し掛かる想いを一気に発散して、亡夫への思慕を断ち切るべきか・・・、流れに身を任せる方がいいのか迷っている。
次第に自分の心を開放しようとする欲求が、胸の内に湧いて来た。
行動を抑制しようとする想いは一つに絞られた・・・娘、沙紀のことだ。それ以外には何も見当たらない・・・、吹っ切ることが出来そうだ。
思えば、娘の沙紀にも同じようなことが起きようとしている。母親として女性として、内なる本能が感知していた。
意を決すると、静かに立ち上がり、真っ直ぐに和箪笥の正面に行って立つ。おもむろに小抽斗からメモを取り出すと、廊下の電話の前に行き、メモ用紙の番号を暫し見つめる・・・。
ゆっくりと電話のボタンを押す。
「榎木様のお宅でしょうか、わたくし、市内東山の待村と申しますが・・・、ご主人様はご在宅でしょうか?」
「待村さま・・・、あっ、はい、伺っております、在宅しておられますので、しばらくお待ちくださいませ、お繋ぎしますので・・・」
素朴な感じの丁寧な女性の応対だった。
紳策は自分のことを家人に話している。
不安だった思いが静かに遠のいて行く。安堵の気持が久美子を包む、何とも言いようのない心地良さが久美子の笑顔を誘った。
暫らく待った・・・、長くも短くも感じる時の流れ・・・。
紳策が電話口に出た。
「もしもし、久美子さんですね、お戻りになりましたか?、お待ちしておりましたよ、どうですか、おからだの具合は?」
「先ごろは無作法をいたしました、お別れのご挨拶もいたしませんで、失礼を致しました・・・、榎木さんにお会いしてから、今までが嘘のようです、お声をかけて頂いて本当にありがとうございました」
「いえいえ、そのような時期が来ていたのでしょう、お会いできたのは、わたしの方がありがたく思っておりますよ・・・、戻られてから何をしておられます?」
「はい、今日、荷物が戻りまして、整理を済ませたところです、先ずは、お礼を申し上げなければと、お電話をさせて頂きました」
「なにを仰います、ご丁寧に、そんなお気遣いは要りませんよ、それより、落ち着かれたら、おいでになってくださいよ?、お手伝いの方はおりますが、誰もおりません、独りでお待ちしているのですよ・・・。ここには滅多に客を呼ぶことはないものですから、首を長くしてお待ちしております、是非、早いうちにおいでください、お嬢さんもご一緒にどうぞ・・・」
「ありがとうございます、そんなに仰って頂いて・・・、落ち着きましたら、遠慮なくお邪魔させて頂こうと思っております、今日は、お礼までということで・・・、失礼致します」
「待っておりますよ、それでは、おからだを大切に、暑いですからね・・・」
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