爽やかな出逢いの連鎖

稲葉真乎人

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初めての二人だけの時

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榎木紳策に電話を掛ける前と違い、久美子の表情は明るく、目元が微笑んでいる。
心臓の鼓動が、電話を通して紳策に伝わったのではないか・・・、久美子は胸に熱い思いが込み上げてくるのを感じた。
紳策の最後のことばに未練を残すかのように、静かに受話器を置いた。
広間の卓袱台の前に戻って座る。
昼過ぎに、庭に撒いた打ち水はとっくに乾いていた。
簾の向うで、庭石が陽光に照らされて白く輝いて見える。
紳策が待っていてくれると思うと、全てが明るく見える。
初めて、自分が今まで鬱状態にあったことが納得できた。
ふと、沙紀にかかってきた昨夜の電話の声が、久美子の耳に甦る。
久美子は、娘の恋愛が本物だと、恋する女の勘が、そう云っていた。
娘のためではなく、自分のために歩もうと思う久美子の心の隅に芽生えた想いは、母としてではなく、ひとりの女として、恋する想いを加速させようとしていた。
沙紀に恩着せがましい言い方はしたくない。寧ろ、我が儘を通す方が、沙紀の負担にはならない。
静かに口に含んだ緑茶は、氷が溶けて温かった。今の久美子には、緑茶の甘味も苦味も香りも・・・、何も無いに等しい。
想いを自然の成り行きに委ねても、紳策との恋を妨げるものは何も見つからない・・・、そう久美子は自分に言い聞かせる。

良一は、沙紀が抱えている問題は解決できると、自分に言い聞かせた。沙紀の重荷を、代わって担いでやろうと思い始める。
出会ってからの時間の長さは関係ない、ふたりの関係を焦っている訳でもない。誰の時間でもなく、自分たち二人の時計で進めようと考えていた。
沙紀は、母の体調と、これからの生活に関わる心配事が解決すれば、直ぐにでも良一に心を預けたい、そう思う気持が芽生えていた。
祇園祭の賑いは、左京区も北区に隣接する植物園までは及んでいない。
多くは無い入園者が、三々五々、引き上げ始める。
山も鉾も、それぞれの町内に戻り、解体を始めている時刻だ。
良一と沙紀は、植物園の正門から、加茂川に面した土手道に出る。
半木(なからぎ)の道と呼ばれる土手の道は、春には、しだれ桜の並木になる名所だ。
沙紀が良一の顔を見上げる。
「満開の頃に、ふたりで観に来られるといいわね・・・」
「うん、そうなると思うよ・・・」
沙紀の心の奥に不安が過る。
「ねえ、出町柳駅まで歩きませんか?・・・」
出町柳駅は、加茂川と高野川とが合流して、表記を鴨川と変える合流地点の辺りにある。
「疲れない?」
「大丈夫です」
良一は、ジョギングの人たちや、帰宅する自転車に乗るひと達から沙紀を守るように、気遣いながら鴨川土手下の、川沿いの遊歩道を歩いている。
沙紀は周りを気にしていない・・・。思えば、誰にも頼ることができず、重苦しく過ぎた日々を送っていた。今、自分の傍に居る良一が、記憶の中に残っている辛さや寂しさを忘れさせてくれている。
蒸し暑さの残る河川敷の遊歩道を、川の流れに沿ってゆっくりと下って行く。
出町柳駅から二駅先の、海田のレストランの最寄り駅、京阪三条駅まで電車に乗った。
沙紀は、男性と二人だけで行動している自分に感動していた。
海田ビルに着き、三階のレストランに直接上がると、美雪が出迎える。
美雪はホールの責任者らしく、私的なことばは掛けない。
ホール内にある螺旋階段に誘導して、四階の個室に案内する。
良一は、個室に入って三人になると、美雪を沙紀に紹介した。
美雪は妹に戻って、笑顔で沙紀に挨拶をする。
「初めまして、兄や中森先輩から聞いていました、早く会いたいと思っていたんですよ・・・、海田オーナーは、会う前から大ファンみたいです。声を掛けておきますから、手が空けば見えると思います・・・。兄さん、ゆっくりしていて、それより、喉が渇いているんじゃない?、何かお持ちしましょうか?」
「バーテンさんは、見えていますか?」
「ええ、参っております・・・」
「美雪マネージャー、切り替えが早いな・・・。沙紀さんは何か?」
「この前と同じにお任せします、楽しみですから・・・」
「マネージャー、メニューを見せて頂けますか?」
「はい、かしこまりました、こちらです、どうぞ・・・」
「では、これと、これを、お願いします」
「わかりました、ビールのカクテルですね?、お持ちしますので、しばらくお待ちくださいませ、失礼します・・・なんてね。兄さん、似合っているでしょ?、沙紀さんと此処で一緒に仕事やりたいな・・・。じゃあ、後で・・・」
美雪は楽しそうに言い残して部屋を出て行く。
「美雪さん、以前から知っているひとみたいな気がするのは、どうしてなのかしら・・・」
「中森さんから聞いていたからじゃないかな?」
「ううん、順子さんの時もそうだったわ、何故かしら・・・。でも、いいお友達が急に増えたから、嬉しくて仕方ないんです・・・」
「今までの分を神様が埋め合わせしてくれているんだよ・・・、寂しいときがあったんだから、ご褒美だと思えばいいんじゃない・・・」
ガラスドアの前に、ソムリエエプロンをした中年の男性が立っていた。
カクテルをトレーに載せ、微笑んで、「失礼します」とだけ言って入室する。
黙って、赤色の液体が見えるスマートなビアグラスを沙紀の前に置く。
濃い赤色の方のグラスを、良一の前に置いて退室した。
「聞いていいですか?、どうして、この前の色と違うんですか?」
「今日の沙紀さんの気持の色・・・、気障かな・・・、違った?」
「いいえ、そうかも知れないわ・・・、グリーンやブルーじゃないから・・・、どうして、そんなに考えられるの?」
「この前も言った通り、好きだから・・・」
「嬉しいわ、これからもずっと、こうしていいでしょ?、どんな色を選んで下さるか、楽しみにします」
「それは、カシス.クランベリー.ビア、こっちがカンパリ.ビア・・・、そんなに強くないから、飲んでも大丈夫だよ・・・」

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