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■本編 (ヒロイン視点)
6.焼きたてバームクーヘンと甘酸っぱいオレンジジュース
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***
週が明けて、水曜日のAM7時。琴香は寝不足の目をこすりつつ、キーボードをたたいた。
「画像は圧縮したし、添付はこれでOK……本文も……うん、変じゃないよね……送信っと……」
クリックひとつで、エチプチ編集部あてにメールが送信される。
こんなときばかりはPC画面に祈りを捧げてしまう。神様、仏様、ご担当様。どうか採用されますように。
「ふー……スランプ、どうなるかと思ったけど、よかった……」
直したネームには自信がある。一刻も早く人に見せたくて、徹夜で清書をしてしまったほどだ。
ふと机の前のカレンダーを見上げる。あっという間に10月も半ばだ。まだ来月のスケジュールは真っ白のまま。
四年前、琴香の漫画家デビュー作は年末の増刊号だった。
この冬は心機一転、新しい作品を読者さんたちに見せたいなぁと思っている。
(本当は巻頭カラーだって描きたいけど、きっと人気連載のあの先生にもう声がかかってるんだろうな。もしあのネームがボツになったら、つぎはどのプロットを送れば……)
いろんな思いがまざって、徹夜明けの頭は忙しい。
眠気覚ましの珈琲でも淹れようとキッチンに立つ。
いつになく綺麗に整えられているそこに、先日の名残はない。それでも妙に落ち着かない気持ちになるのは、あの日、耳元で聞こえた鳴瀬の声を幾度となく思い出してしまうからだ。
『本当に、なにもかも初めてなんですね』
『これは……ちょっと、なんというか……』
琴香は「あーっ!」と叫びキッチンに突っ伏した。
「だめだめだめ! 資料目的以外で勝手に思い出して悶えてたら鳴瀬さんに失礼!」
流し台にダンっと小鍋を置いて、じゃばじゃば水をためる。
気が付けば、流れる水をぼんやりと眺めていた。やり遂げたという達成感もあるけど、それ以上に疲れている。すっかり気が抜けてしまったようだ。
「あ、……そうだ、お礼を……」
こんなときでも考えるのは鳴瀬のこと。
「いやっ、違う違う、仕事のお礼は、社会人として基本だから……!」
後ろめたいようなくすぐったいような気持ちのままスマホのメールソフトを立ち上げる。
担当時代の鳴瀬のメールアドレスは、琴香のメールソフトにそのまま残っている。というか、彼とはビジネス用のつながりしか持っていない。
打合せ以外に外で会うのも、食事をするのも、ましてや個人的に部屋にあげるなんて、先日が初めてだったのだ。
(メールしてもおかしくないよね? 鳴瀬さんのおかげで提出できましたって、ひとこと)
けど、編集者って間違いなく忙しい。こんな私用メール、仕事前のノイズになって迷惑かもしれない。
どうしよう。
本文を書いてから、送るかどうかで数分迷う。
(……鳴瀬さんのあれは……親切心で……ビジネスで……)
はぁぁ。深いため息とともに肩を落とす。
今の自分は、感情の境界に立っているのだとわかっている。
まだ、『そういう気持ち』にはなってないはず。
けど、予感がする。これ以上はまずい。今ならコントロールができる、ぎりぎりだ。
引き返すなら今だぞと、心の中で自分に語りかける。
(──よし、やめとこう。これはたぶん、下心こみこみのメールだ!)
そう決めたとき。ぐつぐつと煮立った小鍋から、熱いしぶきが飛び跳ねて琴香の手にかかった。
「あちっ! ……あ」
スマホの画面は無情にも「送信されました」と輝いている。
「ばっ……」
膝から崩れ落ちた。
(ばかー! やっちゃったー! うわ、今の文面で良かったのかな!? 迷惑だったらどうしよう~……)
キッチンをうろうろしているうちに、ぶぶっとスマホが振動した。わけがわからないくらい胸がどきどきしている。
冷たい指先で画面を撫でて、メールを開封する。鳴瀬だ。
『良かったっす! 修正版、俺も読みたいなぁ』
かわいらしいうさぎのスタンプが、ちらりとこちらをうかがっている。琴香は画面を凝視した。
(これは、社交辞令……? ほ、ほんとに読みたいんです?)
あああ、と琴香は頭を抱えた。
正解はどっちだ。
──教えて神様、鳴瀬様!
週が明けて、水曜日のAM7時。琴香は寝不足の目をこすりつつ、キーボードをたたいた。
「画像は圧縮したし、添付はこれでOK……本文も……うん、変じゃないよね……送信っと……」
クリックひとつで、エチプチ編集部あてにメールが送信される。
こんなときばかりはPC画面に祈りを捧げてしまう。神様、仏様、ご担当様。どうか採用されますように。
「ふー……スランプ、どうなるかと思ったけど、よかった……」
直したネームには自信がある。一刻も早く人に見せたくて、徹夜で清書をしてしまったほどだ。
ふと机の前のカレンダーを見上げる。あっという間に10月も半ばだ。まだ来月のスケジュールは真っ白のまま。
四年前、琴香の漫画家デビュー作は年末の増刊号だった。
この冬は心機一転、新しい作品を読者さんたちに見せたいなぁと思っている。
(本当は巻頭カラーだって描きたいけど、きっと人気連載のあの先生にもう声がかかってるんだろうな。もしあのネームがボツになったら、つぎはどのプロットを送れば……)
いろんな思いがまざって、徹夜明けの頭は忙しい。
眠気覚ましの珈琲でも淹れようとキッチンに立つ。
いつになく綺麗に整えられているそこに、先日の名残はない。それでも妙に落ち着かない気持ちになるのは、あの日、耳元で聞こえた鳴瀬の声を幾度となく思い出してしまうからだ。
『本当に、なにもかも初めてなんですね』
『これは……ちょっと、なんというか……』
琴香は「あーっ!」と叫びキッチンに突っ伏した。
「だめだめだめ! 資料目的以外で勝手に思い出して悶えてたら鳴瀬さんに失礼!」
流し台にダンっと小鍋を置いて、じゃばじゃば水をためる。
気が付けば、流れる水をぼんやりと眺めていた。やり遂げたという達成感もあるけど、それ以上に疲れている。すっかり気が抜けてしまったようだ。
「あ、……そうだ、お礼を……」
こんなときでも考えるのは鳴瀬のこと。
「いやっ、違う違う、仕事のお礼は、社会人として基本だから……!」
後ろめたいようなくすぐったいような気持ちのままスマホのメールソフトを立ち上げる。
担当時代の鳴瀬のメールアドレスは、琴香のメールソフトにそのまま残っている。というか、彼とはビジネス用のつながりしか持っていない。
打合せ以外に外で会うのも、食事をするのも、ましてや個人的に部屋にあげるなんて、先日が初めてだったのだ。
(メールしてもおかしくないよね? 鳴瀬さんのおかげで提出できましたって、ひとこと)
けど、編集者って間違いなく忙しい。こんな私用メール、仕事前のノイズになって迷惑かもしれない。
どうしよう。
本文を書いてから、送るかどうかで数分迷う。
(……鳴瀬さんのあれは……親切心で……ビジネスで……)
はぁぁ。深いため息とともに肩を落とす。
今の自分は、感情の境界に立っているのだとわかっている。
まだ、『そういう気持ち』にはなってないはず。
けど、予感がする。これ以上はまずい。今ならコントロールができる、ぎりぎりだ。
引き返すなら今だぞと、心の中で自分に語りかける。
(──よし、やめとこう。これはたぶん、下心こみこみのメールだ!)
そう決めたとき。ぐつぐつと煮立った小鍋から、熱いしぶきが飛び跳ねて琴香の手にかかった。
「あちっ! ……あ」
スマホの画面は無情にも「送信されました」と輝いている。
「ばっ……」
膝から崩れ落ちた。
(ばかー! やっちゃったー! うわ、今の文面で良かったのかな!? 迷惑だったらどうしよう~……)
キッチンをうろうろしているうちに、ぶぶっとスマホが振動した。わけがわからないくらい胸がどきどきしている。
冷たい指先で画面を撫でて、メールを開封する。鳴瀬だ。
『良かったっす! 修正版、俺も読みたいなぁ』
かわいらしいうさぎのスタンプが、ちらりとこちらをうかがっている。琴香は画面を凝視した。
(これは、社交辞令……? ほ、ほんとに読みたいんです?)
あああ、と琴香は頭を抱えた。
正解はどっちだ。
──教えて神様、鳴瀬様!
応援ありがとうございます!
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