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3.ブーゲンビリアは、あなたしか見えないと咽び泣く

最後のアレンジメント

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 ◇◇◇


 朝五時――。
 香乃はシャッターを閉じたままの店舗で、水揚げ作業をしていた。
 身体を動かして花と戯れれば、いくらかは昨夜のショックが薄まる気がした。

(牧瀬だけは特別だと思っていたのに)

 恋情がなくても、唯一快楽的なセックスが出来ていたはずだったのに、今回はまるで香乃の身体が乾ききり、痛みすら伴っていた。
 まるで枯れ果てた花のように。

 元カレ達とのセックスより酷いありさまで、痛みに目にちかちかと火花が散って、一気になにかが押し寄せるような感覚に、吐き気すら覚えてしまった己の身体。

(どうして……)

 そんなのはわかっている。
 自分の心も体も、真宮を求めているのだ。
 近しいところにいる牧瀬ではなく、遠いところで勿忘草を纏う彼を。

――逃げるあなたを俺が見失っても、あなただけは俺を見失わないように。

 牧瀬は香乃に、無理矢理己の欲をぶつけるようなことはしなかった。
 香乃の身体に刻まれた、真宮の存在を改めて感じたのか、牧瀬は手負いの獣のような悲痛な咆哮を上げ、行為を断念した。

 香乃は何度も詫びて、せめて猛ったままの彼自身の奉仕を願い出たが、牧瀬は静かに頭を振ると、香乃を後ろから抱きしめて言う。

――俺をセックスだけの相手にするなよ。……このままでいて。俺の腕の中にいてくれればそれでいいから。

 香乃を包み込もうとする白檀の香りが、切なくてたまらなかった。

――お前は倒れたばかりだし、そんな日もある。だから気にするな。

 まるで、自分にそう言い聞かせているように。
 牧瀬は香乃の身体に何度も愛おしげに口づけをした。

 そのキスのひとつひとつが、自分がしでかした罪の証のようで、香乃の心は罪悪感で張り裂けそうになった。
 
 真宮への気持ちを捨てきらないと駄目だ。
 どうやって?

 長い夜に考え、やがて朝方に寝入った牧瀬をベッドに残して、香乃は店舗に来た。
 未練がましい自分を正し、自分の中の真宮への想いをすべて出し切るために、店にある豪華そうな花瓶に、深紅の花を基調にした和モダン風アレンジメントをすることにしたのだ。

 九年前の心は伝えられた。
 だから今度は九年後の言葉を間接的にでも伝えれば、きっとそれで自分も落ち着くだろう……そう思って。

「あら、香乃。おはよう。まあ、水揚げありがとう」

 やがて、母親が起きてくる。
 廊下に出ていた布団は部屋に引き入れたが、牧瀬がどこに寝たのかと興味津々に聞きたがっている母親の眼差しに気づかぬふりをして、完成したばかりの生け花を見ながら香乃は言う。

「あのね、母さん。昨日言えなかったんだけれど、お願いがあるの」
「あら、なにかしら」
「今日牧瀬と一緒に、『ファゲトミナート』ホテルに行って欲しいの。花言葉を無視したようなものとか、衛生上よろしくないと思われる花を指摘して、生け替えて欲しい」

 すると母親は首を傾げるようにして言った。

「それ、数日前に牧瀬くんが急に花を用意して欲しいと言われたところ?」
「そう、そこ。……それと、今ふと思ったんだけれど、用意して貰ったあの大量の花、店に代金払ってないよね。わたしが……」
「いえいえ、牧瀬くんが支払ってくれたわ。経費で落とすからって、領収書も書いたし」

(牧瀬は少しでも売上に貢献しようとしてくれている。総務に持って行かなさそうなら、牧瀬にわたしから払おう。そこまでお世話になるわけにはいかない)

「母さん。話を戻すけど、しばらく数時間、総支配人か支配人、或いはフロントの設楽さんっていう女の子を通して、改装したばかりのホテルに相応しい花をお願いしたいの。今までは、真宮志帆さんっていう有名な華道家が担当していたんだけれど、ちょっと来れなくなるかもれないんだ」
「真宮志帆って、あの若くて綺麗な女の子? よくテレビとかお花の展示会とかしている?」

 さすが現役花屋は、志帆のことはわかっていたらしい。
 あの時真宮は志帆をクビにしたが、今後復縁と同時に再任するかもしれない。
 ……そう思えば、胸が切なく痛むけれど。

「そう。彼女が再任するか、後任のフラワーコーディネーターが決まるまで母さんに、と思ってるけれど、母さんの頑張り次第では、専属で継続してくれるかもしれない」
「わかったわ。お母さんも頑張る! ホテルのお仕事は、欲しいわ」

 贔屓目ではないが、母親のセンスはかなりいいと思う。
 若年用から老年用、冠婚葬祭に至るまで幅広く対応出来る。
 志帆のような芸術性がないかもしれないが、香乃がするより、よほど素晴らしいものが出来るだろうと自信を持って言える。

 なにより店の花は、豪華で珍しいものも取り揃えられ、どれも新鮮で美しい。
 ホテル側で気に入って欲しいと思う。

「それでわたしがアレンジをしたこの花を、わたしの名前は伏せて届けて欲しい。ホテルのどこかに飾って欲しいって伝えてくれる?」
「わかったわ。可愛い子たちを使ったのね。……あら」

 母親は目敏く、ひっそりと挿していた一輪の赤い花を見つけて言った。
 それは深赤色の花で、大きくねじれたようについている。

「ミセスバッド……ブーゲンビリア? あんた棘があるからって、よほどのことが無い限りは敬遠していたのに」
「うん。でもとっても綺麗だったから。ちゃんと茎の棘はとってる」

 すると母親はくすりと笑った。

「そういえば昔、あんたがそれに指を傷つけてから、必ず棘をとって持ち出していたわね。誰かにあげたんでしょう? まあ、ブーゲンビリアに限らないけど」
「そうだっけ?」

 ブーゲンビリアを誰かに渡したという記憶も定かではない。
 勿忘草は、持ち出したような気がするのは、あの夢のせいなのだろうか。

「わたし、誰にあげていたの?」
「わからないわ、あんた嬉しそうにいつも少しずつ持っていって『あの子に教えて上げるんだ』って嬉しそうだったわよ」
「『あの子』? もしかして事故の?」

 事故のことを話すと母親は、顔をいつも曇らせる。

「……事故の後もね」

 事故の後、誰かにあげたという記憶もない。

(寝ていないからかしら……)

 ただ頭がぼんやりとしてしまう。

「赤いお花の中に、アクセントで勿忘草も入れているのね」
「うん。ホテルが、勿忘草をモチーフにしてて。制服も蒼だから、反対色の赤を基調にしてアレンジメントしてみたの」

 火花を彷彿させる情熱の赤と、勿忘草の蒼。
 真宮を思い浮かべて、真宮に向けて作ったアレンジメント。
 香乃の、最後となる真宮への想いのありったけを乗せて。

「うん。フォルムも綺麗にまとまったんじゃない?」
「本当? やった、ありがとう」

 別れの言葉なく去る薄情な自分から、真宮にせめてものはなむけを。

 ……きっと花言葉を知らない真宮は、隠された意味はわからないだろうけれど。
 
 数日くらい、真宮の傍でひっそりと、そして素直に、枯れるまで咲くことが出来たのなら――。
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