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29.褒めて、認めて、私を愛して
5.
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『ティアーシャの絵?』
ふと脳裏に蘇る冷たい声音。次いで、一人の男性の姿が浮かび上がる。ティアーシャの婚約者であるエミールだ。
『ええ! 先日お話しましたでしょう? クラスメイトのディートリヒ様に私を描いていただいたのです。新しくドレスを作ったから、エミールにも見ていただきたいなぁと思って。絵を見て興味を持っていただけたら、是非我が家においでいただきたいと……』
『悪いけど、全く興味ない』
ふ、と小さく嘲笑い、エミールはそのまま踵を返す。
彼の傍らにはいつもと同じ、幼馴染の女性の姿がある。
ティアーシャがエミールを見初めなかったら――――結婚したいと駄々を捏ねなかったなら、彼の妻になったであろう女性だ。
(どんなに頑張った所で、エミールは私を見てくれない)
婚約した当初は、ティアーシャだって希望を持っていた。
たとえ金と権力にものを言わせた政略結婚だとしても、いつかはティアーシャのことを見てくれる。愛してくれるだろうと思っていた。
けれど、彼のティアーシャの扱いは年々悪くなるばかり。まるで空気か、その辺に落ちている石ころの如く扱われる。
嫌われた方がまだマシだ。無関心の方が余程辛い。
せめて興味を持って欲しい――――話題を振りまけば多少は関心を惹けるだろうか――――そうして出来上がったのが、今のティアーシャの姿だったのである。
ティアーシャの瞳から涙がポロポロと零れ落ちる。
エミールは本当に、ティアーシャに何の関心も示さなかった。同級生の男性を屋敷に招き入れたことも、寧ろ喜んでいる様子であったし、ティアーシャをその目に映しはしない、声も聴かない。婚約者としての形ばかりのやり取りすらも交わしてはもらえなかった。
「あなたは何と言うか……不器用な人ですね」
ノアがそう言ってハンカチを差し出す。愛らしい刺繍の施された薄紅色のものだ。
「ありがとう」
受け取りつつも俯いたままのティアーシャに、ノアが微かに苦笑を漏らす。
「早く拭かないとドレスが染みになりますよ?」
「……良いのよ、もう」
ドレスなど気にして何になろう? ティアーシャにはもう、自分が何を求めていたか分かってしまった。そして、それが決して手に入らないということも。
「ほら。貸してください」
ノアはティアーシャからハンカチを奪い取ると、ポンポンと丁寧に拭ってやる。あまりにも優しいその手付きに、寧ろ涙が溢れ出た。
「ごめんなさい、ノア様」
「何がです?」
「あなたの婚約者のハンカチをこんな風に汚してしまって……」
見事な刺繍の施されたハンカチだ。恐らくは婚約者か、ノアを想う令嬢からの贈りものなのだろう。
今さらながら、相手の女性には酷いことをしてしまった。ティアーシャのくだらない承認欲求のために、今頃寂しい思いをしてはいないだろうか? 苦しんでいないだろうか? 申し訳なさに心がつぶれる。
本当はノアに声を掛けたのも、屋敷に呼び寄せたのも、彼や彼の絵に興味を持ったというより、エミールの関心を惹きたかったからなのだろう。無意識とはいえ、彼を当て馬にしたことを、ティアーシャは心から恥じ入っていた。
「婚約者なんて居ません。このハンカチに刺繍をしたのは俺ですから」
「えっ? ノア様が?」
驚きのあまり、涙が引っ込んでしまった。ノアは瞳を細めつつ、刺繍の部分を優しく撫でる。
「ビックリした。あなたって本当に器用なのね。自分に正直だし……とても良いと思う」
「そうでしょうか? ……いや、そうかもしれませんね」
そう応えたノアの表情は優しくとても穏やかで、なんだか嬉しそうに見える。ティアーシャは胸が温かくなった。
(やり直そう)
もう一度、一から。
ティアーシャは前を向くと、力強く微笑んだ。
ふと脳裏に蘇る冷たい声音。次いで、一人の男性の姿が浮かび上がる。ティアーシャの婚約者であるエミールだ。
『ええ! 先日お話しましたでしょう? クラスメイトのディートリヒ様に私を描いていただいたのです。新しくドレスを作ったから、エミールにも見ていただきたいなぁと思って。絵を見て興味を持っていただけたら、是非我が家においでいただきたいと……』
『悪いけど、全く興味ない』
ふ、と小さく嘲笑い、エミールはそのまま踵を返す。
彼の傍らにはいつもと同じ、幼馴染の女性の姿がある。
ティアーシャがエミールを見初めなかったら――――結婚したいと駄々を捏ねなかったなら、彼の妻になったであろう女性だ。
(どんなに頑張った所で、エミールは私を見てくれない)
婚約した当初は、ティアーシャだって希望を持っていた。
たとえ金と権力にものを言わせた政略結婚だとしても、いつかはティアーシャのことを見てくれる。愛してくれるだろうと思っていた。
けれど、彼のティアーシャの扱いは年々悪くなるばかり。まるで空気か、その辺に落ちている石ころの如く扱われる。
嫌われた方がまだマシだ。無関心の方が余程辛い。
せめて興味を持って欲しい――――話題を振りまけば多少は関心を惹けるだろうか――――そうして出来上がったのが、今のティアーシャの姿だったのである。
ティアーシャの瞳から涙がポロポロと零れ落ちる。
エミールは本当に、ティアーシャに何の関心も示さなかった。同級生の男性を屋敷に招き入れたことも、寧ろ喜んでいる様子であったし、ティアーシャをその目に映しはしない、声も聴かない。婚約者としての形ばかりのやり取りすらも交わしてはもらえなかった。
「あなたは何と言うか……不器用な人ですね」
ノアがそう言ってハンカチを差し出す。愛らしい刺繍の施された薄紅色のものだ。
「ありがとう」
受け取りつつも俯いたままのティアーシャに、ノアが微かに苦笑を漏らす。
「早く拭かないとドレスが染みになりますよ?」
「……良いのよ、もう」
ドレスなど気にして何になろう? ティアーシャにはもう、自分が何を求めていたか分かってしまった。そして、それが決して手に入らないということも。
「ほら。貸してください」
ノアはティアーシャからハンカチを奪い取ると、ポンポンと丁寧に拭ってやる。あまりにも優しいその手付きに、寧ろ涙が溢れ出た。
「ごめんなさい、ノア様」
「何がです?」
「あなたの婚約者のハンカチをこんな風に汚してしまって……」
見事な刺繍の施されたハンカチだ。恐らくは婚約者か、ノアを想う令嬢からの贈りものなのだろう。
今さらながら、相手の女性には酷いことをしてしまった。ティアーシャのくだらない承認欲求のために、今頃寂しい思いをしてはいないだろうか? 苦しんでいないだろうか? 申し訳なさに心がつぶれる。
本当はノアに声を掛けたのも、屋敷に呼び寄せたのも、彼や彼の絵に興味を持ったというより、エミールの関心を惹きたかったからなのだろう。無意識とはいえ、彼を当て馬にしたことを、ティアーシャは心から恥じ入っていた。
「婚約者なんて居ません。このハンカチに刺繍をしたのは俺ですから」
「えっ? ノア様が?」
驚きのあまり、涙が引っ込んでしまった。ノアは瞳を細めつつ、刺繍の部分を優しく撫でる。
「ビックリした。あなたって本当に器用なのね。自分に正直だし……とても良いと思う」
「そうでしょうか? ……いや、そうかもしれませんね」
そう応えたノアの表情は優しくとても穏やかで、なんだか嬉しそうに見える。ティアーシャは胸が温かくなった。
(やり直そう)
もう一度、一から。
ティアーシャは前を向くと、力強く微笑んだ。
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