一条春都の料理帖

藤里 侑

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番外編 真野俊介のつまみ食い①

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 朝比奈様のお宅の裏口を行き来して早数十年になりますが、こまめに修繕の手が入っているためか、いつ見ても、立派なものでございます。わたくしの家の玄関など、倉庫の扉と勘違いされてしまいそうなほどですねえ。
 わたくしの仕事はまず、朝食作りでございます。
 基本、朝比奈家の皆様は和食を好まれます。今日は魚を焼きましょうか。鮭の西京焼きがありますね。みそ汁の具はお豆腐がありますから、それとねぎを合わせましょう。ご飯は炊きたてでございます。
 野菜も必要ですから、おひたしを準備いたしましょうか。ほうれん草があったはずです。
 食後には決まって果物をお召し上がりになるので、リンゴとみかんを切り分けてお一人ずつ準備します。
 朝食の準備が終わりましたら、ごみの片付けやその他もろもろの雑用を済ませまして、皆さまを起こしに向かいます。
 まずは大旦那様と大奥様の部屋に向かいます。お二人のお部屋周辺は、いつも適温に保たれていて心地ようございます。というより、この屋敷内は全面ガラス張りの中庭に面した廊下や外、蔵でもない限り、冬は暖かく夏は涼しいですね。蔵も大切なものがたくさん収めてありますので、空調はいつも整っておりますから、冬の我が家よりも過ごしやすいかもしれません。
 扉をノックし、お声を掛けます。
「おはようございます。朝食の準備ができました」
「ああ、ありがとう」
 扉越しに、大旦那様の声が聞こえます。たいてい、返事をなさるのは大旦那様でございます。
「すぐに向かう」
「かしこまりました」
 続いて、旦那様と奥様のお部屋に向かいます。お二人にも同様にノックし、声を掛けます。
「おはようございます。朝食の準備ができました」
「分かりました。いつも世話をかけますね。もう少しして向かいます」
「かしこまりました」
 こちらは、奥様が返事をすることが多いですね。
 旦那様と奥様の間には、お子様がお二人いらっしゃいますが、ご息女の志津香さんは結婚されて屋敷にはおりません。たまに帰ってこられることもあるようですが、今日はいらっしゃいません。ご子息の貴志さんを起こしに向かいましょう。
「おはようございます。朝食の準備ができました」
 高校生の貴志さんは夜遅くまで起きていることもあってか、朝は少々眠そうにしておられます。扉越しに聞こえた声も、まだ、眠気と抗っているように聞こえました。
「ん……はい。ありがとう、ございます」
 一通り部屋を回り台所に戻って、皆様が食卓に揃う頃合いを見計らいながら配膳の準備をします。
 多忙な皆さまですが、一日に一食は必ず、家族そろって食事をすると決めておられるようです。テレビがつくことも、大笑いすることもめったにない皆さまですが、いつも穏やかな時間が流れていて、心地よさそうです。
 貴志さんがいらっしゃるときはもっぱら、学校の話題でもちきりのようです。旦那様も奥様も忙しい身で行事にはあまり参加できないようですが、会話を聞いていると、お子様たちのことは十二分に愛していらっしゃるというのが分かります。大旦那様も大奥様も、お孫さんたちのことを心底かわいがっておられます。
 大旦那様と大奥様は食後に服用される薬がありますので、頃合いを見計らって湯冷ましを準備します。食後に少しゆっくりとされている間に、私は本日の予定を確認いたします。もう三度目の確認になりますが、気を付けるに越したことはありません。
 大旦那様はゴルフへ、大奥様はお買い物へ、旦那様と奥様は午前中に訪問診療、午後からは医院にて診察が入っている、貴志さんはご在宅、と。間違いありませんね。
 今日もすっかり完食された五つの膳を片付け終えましたら、屋敷内の掃除に取り掛かります。わたくしの仕事の大半は、掃除でございます。何しろ、屋敷は広大でございますから。しかし今ではだいぶ慣れたものです。午前中にはすっかり終えてしまえるほどには、要領がつかめました。
 昼食は基本的に各々で取られるので、準備することはあまりありません。しかしいつ必要とされてもいいように、いろいろと準備はしています。必要なければ、夕食の時に使いますし、無駄もぬかりもありません。
 今日は貴志さんがいらっしゃいますから、一人分の昼食を用意します。自分の昼食は、ありがたいことに妻が毎日作ってくれる弁当です。十分な量を準備してくれるので助かります。
 洗濯も終わったことですし、昼食の準備をしましょう。最近の貴志さんは、少しずつではありますが食に興味を持ち始めたように思われます。以前、お話しされていたお友達の影響でしょうか。
 きれいな鶏肉がありましたので、チキン南蛮にしましょう。キャベツの千切りを添え、みそ汁も作ります。お昼はわかめにしましょうかねぇ。
 下処理と味付けをして、衣をつけた鶏肉を熱した油にそっと入れます。ああ、いい音ですね。香ばしい香りがそこら中に漂います。
「……なんかいいにおいすると思った」
「おや、貴志さん」
 以前は決して来ることがなかったものですが、台所に来られることも増えました。
「昼ごはん?」
「ええ、チキン南蛮ですよ」
「チキン南蛮……」
 貴志さんの笑顔を見ることも増えました。寡黙で、滅多に表情を変えない貴志さんですから、その笑顔を見ますとホッとします。
「もうすぐできますからね」
「真野さんは、お昼食べました?」
「いいえ。まだですよ」
「じゃあ、一緒に食べませんか」
 こうやって昼食に誘われることも増えました。単なる社交辞令であればお断りするのが筋でしょうが、貴志さんは本当にそう思っていらっしゃるようですから、お断りするのも無粋でしょう。
「ええ、では。ご一緒させていただきます」
 貴志さんは少し目を輝かせますと、軽い足取りで食卓まで向かわれました。ずいぶん大人になられたと思っておりましたが、まだまだ、幼く子どもらしいところもありますねぇ。
「お待たせいたしました」
「あ、ありがとうございます」
 貴志さんの前に膳を置き、私は向かいに座らせていただきます。
「いただきます」
 きんぴらごぼうに煮物、鶏の照り焼きと温野菜。ご飯には妻が手ずから仕込んだ梅干しが鎮座しています。私が一度、あなたの作る梅干しが好きだと言ってから、毎年作ってくれるようになり、毎日弁当に入れてくれています。
 酸味が控えめで、うま味があり、白米によく合います。しそもしっかり手をかけて仕込んでくれていますから、風味がよいのです。うちの小さな孫たちも、妻の作った梅干しは大好きなようでたくさん食べています。「来年からはもっと仕込まないとね」と妻は嬉しそうにしていました。
 きんぴらごぼうの甘辛い味付けもちょうどいいです。辛すぎず、薄すぎず、ごぼうの風味やニンジンの甘味も感じられながら、香ばしさもあります。鶏の照り焼きも使う調味料は似ているのでしょうが、また味わいが違います。こちらは醤油の方が多いのでしょう。鶏の淡白な味わいとよく合います。
 温野菜には決まって、オレンジ色のにんじんドレッシングがかかっています。おいしいんですよねえ、この組み合わせ。キャベツの柔らかな食感は絶妙です。
 煮物は里芋ですね。冷めても、ほくほく、とろとろとしています。しっかり出汁が効いているので、次々と食べてしまいます。
「真野さん、おいしそうに食べますね」
 貴志さんに言われ顔をあげますと、もう大分、食べ終わっておられるではないですか。手作りのタルタルソースを気に入ってくださったのか、おかわりとして用意していた分も減っています。
「ええ、おいしいですから。おいしいものを食べると、自然とそうなるものです」
「やっぱりそういうものなんだ……」
 貴志さんはぽつりとつぶやくと、控えめにおっしゃいました。
「じゃあ、俺も最近、そんなふうに見えてる?」
 ……おや、これはなかなか嬉しいお言葉。思わず笑みがこぼれてしまうではないですか。
「おいしそうに食べていただけて、私はいつも、嬉しいですよ」
 そう言えば貴志さんは、恥ずかしいような嬉しいような、年相応の幼さの笑顔を浮かべられました。
「夕食に食べたいものがありましたら、何でもおっしゃってくださいね」
 貴志さんは控えめに頷き、チキン南蛮の最後の一切れを口にしました。
 私も、夕食が楽しみになってまいりました。まあ、これはいつものことですがね。

「ごちそうさまでした」
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