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第一篇
7.蒼玉宮の一番手・天月 2
しおりを挟む「こっちに来てからどれくらい経つの」
「昨日来た」
「え、体調は?」
「特に何も?」
「そうなんだ。いや、僕が翠玉にいた時は、ずっと身体が怠かったから。緑翠さまの妖力に軽く当たってたんだ」
「当たる?」
「分からなくていいよ、さっきも言ったけど、だんだん分かってくるから」
楽しそうに笑いながら、ふわふわと揺れる黒髪が進んでいく。翠月は、遅れないように後ろをついて行く。
「着物はどう?」
その言葉の前提にはきっと、向こうの普通では着物を着ないことが含まれている。明かしたくないと思いつつ、応えないわけにはいかない。
「…こっちで初めて着たわけじゃないの。向こうでも着てた。書道とお琴をやる時は着物だったから」
「琴も?」
「うん」
「すごいね、そのまま活かせるよ。書も楽…、琴の稽古もある」
梯子を下りて、すぐそばにある戸を天月が引く。その先は、明るくて眩しかった。上を見ると、大きな天窓があった。そこから陽の光が入ってきて、廊下と土間を照らしていた。
「ここが、深碧館の番台。御客はみんな、まずここで記帳して、銭を払って待合に入る」
天月が進んだ先は、広い畳張りの部屋だった。襖は開かれたままで、座卓や座布団も用意されている。彫刻の入った欄間や襖の絵が凝られていて、建物全体が豪華な屋敷であることは見て取れる。
「待合は、昼の間は藍玉の稽古場としても使ってるんだ。翠月も、稽古を受けるならここでやると思うよ」
欄間や襖の絵に見とれていると、天月が待合を出てしまう。置いて行かれないように、後ろに控える。
(藍玉…? きっと、迷子になる。こんなに広いお座敷があるんだし)
翠月が寝起きする場所は翠玉宮で、天月は蒼玉宮。今いる場所は藍玉宮なんだろう。
「稽古場の隣は食堂だよ。上位の芸者は自分の座敷で食べることも多くて、見習いが持っていくんだ。でも、翠月はやらないかも」
「やらない?」
「うん、人間で、翠玉にいるから。普通は藍玉で生活を始めて、紅玉・黄玉・蒼玉の宮に別れる。そこで上位の芸者について、見習いとして実際に御客の相手をしながら勉強するんだけど、翠玉には緑翠さまと朧さま、あとは侍女たちしかいない」
「四人?」
「そう、侍女たちにも会ったんだね?」
「昨日、お風呂に入れられた」
「はは、僕もそうだったよ」
「え?」
「あのふたり、お互いしか見えてないからさ、僕が男だろうと関係ないんだよね」
天月はそう言いながら笑っている。翠月には、よく分からない世界のままだ。あの侍女は、裸の翠月を洗ってきた。天月にも、同じことをしたんだろうか。疑問に思っても、口には出せなかった。
「翠玉は、廊下とか階段で繋がってるわけでもないし、本当に特別な場所なんだ。勝手に誰かを入れちゃいけないところ」
首を縦に振りながら、天月の後を追って食堂に入る。説明がたくさん入ってくる。天月も言っていた通り、段々と慣れていくものなんだろうとも思うが、早い方がいいに決まってる。
「お腹、空いてない? こっちに来てから何か食べた?」
「まだ何も」
「ちょうどいい、一緒に食べよう」
天月に言われるがまま、用意されるがままに、皿に入った食事を盆に載せる。端の座卓に正座して、手を合わせてから箸を持つ。
「芸者には、毎日専用の食事が出てるんだって。肌つやがよくなるとか、栄養が考えられてるらしいよ。食材までは分からないけど、味は保証する」
白ご飯に煮物、それからおひたしなど、知っている物が多かった。確かに、材料は米くらいしか特定できないけど、どれも美味しくて、毎日こんな食事が食べられるのかと、少し感動した。
両親の仕事が特殊だった翠月は、給食と家での食事を比べて少し思うところもあった。品数とか彩が、給食の方が優れているような気がしていた。ここでは、いつでもこのレベルの食事が出てくるらしい。
「翠月は、食べる所作も綺麗なんだね」
「お母さんが、うるさかったから。お箸とか姿勢とか、全部そう」
「そっか。深碧館は座敷しかなくて、丸ごと全部日本文化みたいなものだから、苦労しないかもね。僕はどちらかというと洋風に育ったから」
そう言う青い瞳の天月は、意識していないと箸の持ち方が元に戻って変になるそうで、御客の前ではより一層気を遣うと教えてくれた。他にも、長時間の正座が苦痛だったとか、着崩れない着方や歩き方がやっと身に着いてきたとか、箸はともかく、それ以外は確かに、日本人でも慣れていないのが普通だと思った。
ここでの暮らしを一通り聞いた後、混乱していた翠月は天月に確認しようと様子を伺った。
「…ここは、何宮って言った?」
「藍玉宮。さっきの紙持ってる?」
天月が、大まかな間取りと一緒に書き並べてくれる。
今いる一階は藍玉宮と呼ばれていて、世話係や配属の決まっていない見習いが主に生活しているところ。二階へ上がると紅玉宮・黄玉宮・蒼玉宮と名前が変わって、そこが深碧館の主座敷、三番手までが使う座敷が並ぶ。三階にも座敷があり、二階と同じ宮の名前で、四番手以降の芸者がそこで御客を取っている。地下は黒系宮と言われて、瑪瑙宮と黒曜宮に分かれているらしい。
(やっぱり、宝石の名前だ…。だから、本名を名乗れないのかな)
藍玉はアクアマリン。紅玉はルビー、黄玉はトパーズのこと。蒼玉は、サファイアの中でもブルーサファイアだろうか。瑪瑙はオニキスだし、黒曜はオブシディアン。翠玉もエメラルドで、見事に全て宝石だ。
「それぞれの座敷には、その宮由来の色の名前がついてるんだけど、逆さ文字で初めはぱっと読めないと思う。古い看板は全部逆さ文字。他の書き言葉は、同じ向きだけど漢字ばっかりで、なんとなく意味は分かる感じ。そのうち、慣れてくるからね」
「うん」
「芸者になるなら、紅玉か黄玉に配属になると思う。女の芸者はそのふたつだから」
「天月のいるところは?」
「蒼玉は男色芸者の集まるところで、女禁制だよ」
「なるほど」
(ここは、しんぺきかん…。漢字は分からないけど、たぶん、深・碧・館。深碧と呼ばれるのは碧玉、ジャスパー。勾玉に使われるくらい、手に入りやすい石。派手じゃなかったはずだけど)
翠月が思い浮かべた楼主の緑翠は、濃くはないが緑色の瞳の持ち主だ。緑翠という名の石にも、心当たりがある。少し黄色の混じった、貴重な石だったはずだ。
「みんな動き出して、混んできたね。食べ終わってるし、移動しよう」
「うん」
食器を返却台へ置いて、食堂を出る。目の前の階段を半分下りたところで、天月が振り返る。
「ここは黒系の入口で、誰も近づかないから、話すのにちょうどいい」
「誰も近づかない?」
「宮番以外で下りてるのを見た事がないんだ。近づくなって言われてるのもあって、僕もこの踊り場までしか下りたことがない。翠月も、用がなければ下りない方がいいと思う」
「分かった」
上り側には天月が立っていて、わざと翠月を隠すような立ち位置にも見える。あまり男らしくは見えない天月でも、翠月よりは背が高かった。
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