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記憶喪失令嬢の日記

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 デートから帰ったヴィルヘルミーナは、羞恥に悶絶した。

 結局あの後、ヴィルヘルミーナは何度も愛撫でイかされ、ルドガーも彼女の股に肉棒をこすりつけて果てるまで行為を続けた。挿入には至らなかったものの、実にいやらしい行為であったことは、自身の記憶がなくとも常識は覚えているヴィルヘルミーナには判る。

 婚約者同士ならば肉体関係を結ぶことも珍しくはないが、見舞いに来てくれたときがファーストキスだったというのに、これではステップを飛び越えすぎではないか。

 しかも、長らくいちゃいちゃしていたせいで、身体を清めおわる頃にはもう帰る時間だった。つまり、街についてからはえっちしかしてないのである。

(はしたない……! わたくしなんてはしたないことをしたのかしら……!)

 部屋のベッドに顔を押し付けて、ヴィルヘルミーナは言葉にならないうめき声をあげる。

(いくらルドガー様から触れられたからって、二回目のお誘いをするなんて! 尻軽な女だと思われたかしら!? せっかくのお出かけでしたのに、しかもふたりきりの! なのに、なのになのに、ああああ。ルドガー様……)

 恥ずかしさで悶えているのに、彼の顔を思い浮かべると、きゅん、と胸が高鳴る。

(ルドガー様、優しかったわ……それにたくましくて……)

 馬車で抱き寄せられたときも、道中エスコートで手を引いてもらったときも、そして宿屋で手当してくれたときも、もちろん行為の間も。ヴィルヘルミーナはずっとどきどきしっぱなしだった。

 記憶のないヴィルヘルミーナが彼に会うのは、今日で二度目である。だというのに、彼を思うだけでこんなにも胸を高鳴らせてしまうのには、わけがあった。


***


 記憶をなくす前のヴィルヘルミーナがルドガーに初めて出会ったのは、忘れもしない、お茶会で他の少年たちにからかわれた時のことだった。

「なよなよして、よわっちいな」

「お前どうせ一人なんだろ? 仲間に入れてやらないこともねえぞ」

 口々に声をかける少年たちにヴィルヘルミーナは口を尖らせる。少し不機嫌そうな顔をしてるのだって、顔の整った彼女はキュートだった。実のところ少年たちは可愛いヴィルヘルミーナに興味津々で、ちょっかいをかけているのだ。だが、ヴィルヘルミーナはそんなことは判らない。

 男の子というのはいつもヴィルヘルミーナの見た目をからかって、そして嫌な言葉をかけてくる。しかも、弱くなんかない――と彼女は自分で思っている――のに絶対に弱虫扱いをしてくる。それが嫌だったから、彼女は気を張らざるを得なかった。この時も、一番近くに居て腕を伸ばしてきた少年を、どんっと押して対抗する。

「あなたたち、こんなことをして恥ずかしくないの? 女の子をいじめるなんて最低よ」

「おい、お前ら」

 後ろで誰かの声が聞こえた気がしたが、そのままヴィルヘルミーナはにっこりと笑んで、唖然とした少年たちに「ではごきげんよう」と言い捨てて踵を返した。

 そこで、目を丸くして彼女を見ているルドガーに気付いた。またからかわれるのかと思って無視して歩きかけたヴィルヘルミーナは、やがて目を輝かせたルドガーが屈託なく笑ったのに驚く。

「なんだ、顔に似合わずすげえ強いなお前。やるじゃん」

(……すごく強い?)

 それはよわっちいと馬鹿にされてきたヴィルヘルミーナからすれば、理解が追いつかずに硬直してしまうくらいの賛辞だった。初めて自分の思っている通りに褒めてもらえた。その喜びに頬がかあっと熱くなって、胸がいっぱいになる。

 けれど、次に口から飛び出したのは、真逆の言葉だった。

「女の子に『強い』だなんて、失礼だわ」

 つん、とそっぽを向いてヴィルヘルミーナはルドガーに言い放つと、そのまま横を通り過ぎて行く。男の子たちからは、からかわれるのが常だったせいでとっさに素直なお礼が言えなかったのだ。それが情けなくて、母親のところに行ったヴィルヘルミーナは、柄にもなく泣きじゃくってしまい母親に随分と慰められることになった。

 そして、初めて自分のことを褒めてくれた男の子のことヴィルヘルミーナの心に強く強く印象に残った。平たく言えば、初恋である。

 それから偶然というべきか、ヴィルヘルミーナの母親が娘の初恋に対して気を利かせたのか、ルドガーの母親と仲良くなり、二人は頻繁に顔を合わせることになった。

 淑女教育の賜物で、礼儀正しくも慎ましやかな女性に育ったにも関わらず、昔からの癖でルドガーに対して可愛くない言葉ばかり吐いてしまう。口喧嘩をすることはあっても、会う時には必ず笑いかけてくれて、優しくしてくれるルドガーにますます惚れていくというのに。

 本当は大好きなのに、素直になれない。

 そんな苦しさを発散するように、彼女は日々、日記をつけた。

 嬉しかったこと、楽しかったことだけを恋心と共に日記帳に閉じ込めて、嫌だったことは心に留めて教訓にする。中でもルドガーにまつわることについては、嬉しいことを針小棒大に書くことにした。ルドガーに言われた社交辞令だって彼女の日記にかかれば熱烈な口説き文句だ。

 ヴィルヘルミーナにとってこの日記は、日記のようであって妄想手帳のようなものだった。日記帳の中でだけは、ヴィルヘルミーナは素直になれる。ツンツンした態度をとらなくてもいいことは、彼女にとってずいぶんと慰めになったのだからその時はそれで良かったのだろう。

 ルドガーと出会って十年以上。彼女のその想いが詰まりに詰まったその十年分の日記には、悪いことや嫌なことが一切書いていない。そう。ルドガーが娼館に行っていたことを知った日のことも、ルドガーがご令嬢と楽しそうに歩いているのを目撃した日のことも、ヴィルヘルミーナは書いていないのだ。

 この日記が、その後の彼女にどんな影響を与えるのかも知らずに。

 そんな風に初恋を拗らせに拗らせたヴィルヘルミーナは、ルドガーと婚約することになった。けれど、彼女の心境は複雑だった。

 元はと言えば、告白のためのドレスを仕立てている途中だった。ルドガーの髪色をイメージした生地に刺繍を施したドレス。それが出来上がったらワインレッドのドレスを着てルドガーに気持ちを伝えるつもりだったのに、完成間近という頃になって一足飛びに婚約となってしまい嬉しい反面、色々なことが気にかかってモヤモヤとする。

 婚約式でサインをしてなお、彼女の気持ちは晴れない。

(本当に婚約してしまったわ……でも良かったのかしら。ルドガーは娼館通いもしているし、他のご令嬢とも懇意にしているわ。……きっと、わたくしのことなんて、好きじゃないのに)

 彼と添い遂げられると思うと心が弾む反面、彼の気持ちがヴィルヘルミーナにないことを思うと沈んだ。だからこそ、テラスでルドガーにかけられた言葉も、彼女は傷ついたのだ。

「もう俺は娼館には行かない」

(信じられるなら、信じたい……けど)

「女遊びは男のたしなみだとおっしゃった方が?」

 自分で言って、ヴィルヘルミーナは泣きそうになる。それは娼館から出てきたルドガーと鉢合わせした時に言われた言葉だった。

『これからも何度だって行く。お前には関係ないだろう』

 恋人でもなんでもなかった当時のヴィルヘルミーナには、ルドガーの貞節や交友関係などについて、とやかく言う資格などなかった。それに彼はどこぞのご令嬢と懇意にしていたはずである。さすがに肉体関係はないだろうが、付き合いがあってなお娼館に行っていたということは、きっと彼は結婚したって娼館通いを辞めないだろう。

「……あの時の俺はどうにかしていた」

 苦々しげにそう言うルドガーに、ヴィルヘルミーナは何と言っていいのか判らなかった。

「ミーナ、これからはお前だけを見るから」

 許しを請う台詞は、まるで浮気男の安っぽい口説き文句だ。そういう甘い台詞を使って他の令嬢を口説いているのを見かけたことだってある。まるで、世界でその人しか見えていないかのように言う癖に、彼はいつだって女をとっかえひっかえしていた。その割りには、女性たちは自分が愛されていると確信してやまないのだ。

 その証拠に、先日ヴィルヘルミーナはルドガーに想いを寄せている令嬢から釘を刺されたばかりである。

『あなたみたいな可愛げのない女が、ルド様に釣り合うわけないでしょ? 私はルド様に世界で一番可愛いって言われてるんだから。いつも私を熱烈に口説いてくださるのよ?』

 その甘い口説き文句を今、この場を納めるためにヴィルヘルミーナに言っているとしか思えなかった。

(こんなに最低な男なのに……)

「どうして……」

(どうしてわたくしは、ルドガーのことが、好きなのかしら)

 好きでいることが苦しいのに、やめられない。顔を歪めれば、途端に涙が溢れてきそうになって、ヴィルヘルミーナは焦る。そこへルドガーの手が伸びてきて、彼女は弾かれたように後ずさった。

 今触れられたら、きっと彼を受け入れてしまう。こんなに、苦しいのに。

「そうやってあなたは女を誑かすんだわ! あなたみたいな人……わたくし、婚約したくなかった……!」

「ミーナ!」

 背中に呼び止める声が聞こえていても、ヴィルヘルミーナは振り返ることなんてできなかった。いつも通りのツンな台詞も今日は際立って酷い。

 そうして、最低な婚約式を終え、その後すぐに遠征へと旅立ったルドガーとは会えずじまいである。

 ヴィルヘルミーナが運悪くも落馬事故にあったのは、そのすぐ後のことだった。乗馬も淑女のたしなみの一つになったのは近年のことだが、その練習中に突然馬が暴れだし、ヴィルヘルミーナは馬に振りおとされてしまったのだ。

 そうして次に目が覚めたとき、彼女の記憶はなくなっていた。愛する家族のことも、いつも世話をしてくれている専属メイドのことも、そして、長年想いを寄せ、婚約したばかりのルドガー・ダールベルクのことも。

「わたくし、何も思い出せなくて申し訳ないわ……どうして自分に関係することだけ忘れてしまったのかしら……」

 ベッドに腰かけたヴィルヘルミーナは暗い顔で言う。それを聞いていたのは、専属メイドのエルマだった。

「お嬢様、気を落とされないでください。お嬢様が覚えていらっしゃらなくても、わたくしどもはお嬢様のおそばにおります」

 穏やかな声で慰められても、優しくされる理由が『お嬢様』だからということが判っていても、彼女は不安だった。けれど、その落ち込む気持ちを無理にでも奮い立たせようと思った。

(こんなに気をつかってもらってるのに、落ち込むだけなんて。わたくしは情けないの嫌だわ)

「ねえ、何かわたくしの記憶に繋がるものはないかしら? 過去の記録とか。懐かしいものを見れば思い出せるかもしれないわ」

「! でしたら、お嬢様の日記がございます。お嬢様はまめに日記をつけておいででしたから。今お持ちしますね!」

 エルマは顔を明るくしてそう言うと、すぐに日記帳を持ってきてくれた。

 何冊もある日記帳には、全て鍵がついている。首を傾げたヴィルヘルミーナに、エルマは微笑んで教えてくれた。

「その日記は、お嬢様がずっと大事にされていたものです。わたくしどもの誰も読んだことはありません。鍵は……おそらくその引き出しにあると思います」

 ベッドのサイドチェストを指さしたエルマの目線に促されて引き出しを開けてみると、確かに鍵が入っている。全て共通の鍵らしく、一個だけだった。

「ありがとう。わたくし、読んでみるわね」

「はい、ごゆっくりなさってください」

 ヴィルヘルミーナがわずかに明るい顔になったので、エルマも笑んで部屋を辞する。

 日記は、几帳面に全て使用開始の日付と、終了の日付が書いてあり、実に十年分もある。

(わたくしはまめな性格なのね?)

 そう自分で考えるとなんだかしっくり来るようだ。『自分らしさ』を一つみつけたようで嬉しくなったヴィルヘルミーナは、ひとまず一番古い日記から読むことにした。

『今日は男の子にすごいと言われた。ルドガーという子らしい。かっこよかった』

 最初の日記はこのような出だしで、ひたすらに『ルドガー・ダールベルク』を称賛する内容だった。

 それは最初の日付のみならず終始このような感じで、どの日記帳のどの年のどのページをめくっても、ただただひたすらにルドガーが言ってくれた嬉しいこと、ルドガーに募らせた想いばかりが書き連ねられていた。しかも十年分もある。

(……これは……鍵をつけるはずだわ。恋の日記なんて恥ずかしすぎるもの……)

 羞恥で頬を染めるのと同時に、ヴィルヘルミーナは暖かい気持ちになった。

(わたくしは、十年もずっとルドガーという方を思い続けていたのね)

 十年分の日記は、そう納得せざるを得ない。会ったこともない男だったが、彼の素晴らしさについては日記が全て教えてくれたのだから、なんだか今のヴィルヘルミーナもルドガーに対して悪い気がしなかった。

 更には、日記の最後の方にはこうも記されていた。

『とうとうルドガー様と婚約をかわした。嬉しい。今日も綺麗だと褒めてくれて、ミーナと呼んでくれて「これからはお前だけ見る」なんて情熱的に口説かれた。ルドガーと結婚できる日が待ち遠しい』

 つまり、十年想いを拗らせていた相手と、婚約までしているのだ。しかもどうやら相思相愛である。 紳士的で、いつもヴィルヘルミーナを褒めてくれて、優しくて、おまけにかっこいい。それを日記が教えてくれた。

(ルドガー様にお会いするのが楽しみだわ……!)

 十年分の拗らせに拗らせた恋心を読み終わる頃には、ヴィルヘルミーナがすっかりルドガーという男に夢中になっていたのも、仕方のないことだろう。記憶がなく不安な中、ヴィルヘルミーナがルドガーを好きなのは彼女の中で間違いようのないことだ。でなければ、日記を読んだだけの彼女が、ない記憶でこんなにも胸が高鳴らせるはずもない。

 記憶をなくしてから初めて、ヴィルヘルミーナは自分の中に確固たるものが存在するような気がした。だからこそ余計に、彼女は会ったことのないルドガーに想いを募らせたのだ。

 あいにくとルドガーは一カ月の遠征に出ている途中だったから、すぐに会うことはできなかったが、彼は遠征から帰ると同時にヴィルヘルミーナに会いに来てくれた。凛々しい顔に焦りの表情を浮かべ、髪を乱した彼はセクシーだった。身だしなみを気遣えないほどに急いで会いに来てくれた彼に、ヴィルヘルミーナはきゅんとする。

ヴィルヘルミーナわたくしはやっぱり大事にされているのね!)

 そう思ったヴィルヘルミーナは、初めて会った彼に、そのたった一度で再び恋に落ちたのである。

 十年分の想いが綴られたその日記に、『ルドガーの悪いところが一切書かれていない』という致命的な問題があることに、その時のヴィルヘルミーナは気づきもしなかった。


***


 デートのことを反芻してベッドで悶絶していたヴィルヘルミーナは、やがて深いため息を吐いて起き上がると、サイドチェストから鍵を取り出して、デスクへと向かった。

「こういうときは、日記を書いたほうがいいような気がするわ!」

 誰に言うでもなくそう宣言して、ヴィルヘルミーナは日記を開くとペンをとって書き始める。

(わたくしのしたことはどう考えてもはしたないけれど、今日のとってもかっこよかったルドガー様のことについては記録しておきたいもの)

 真剣な顔で、時に顔を赤らめながら書いた日記の内容は、馬車で自分を庇ってくれたルドガーのたくましさ、エスコートをしているときのスマートさ、そして宿屋で手当をしてくれた時の手際の良さや、ヴィルヘルミーナの身体を気遣ってくれた優しさなどが書かれている。肝心のその後の愛撫については、『ルドガー様はたくさんわたくしを可愛いと言ってくれて嬉しかった』と、ぼかして書いてある。

 ちなみに先日のルドガーが見舞いに来てくれた日についてに日記を書いているが、ルドガーが試すように口づけをしたとは書かずに、『初めての口づけをして、とても恥ずかしかったけれど嬉しかった』というように、負の情報は全て伏せて書かれている。彼女は知る由もなかったが、これらの一連の流れは記憶を失う前のヴィルヘルミーナもやっていたことだ。

 コト、とペンを置いた彼女は、満足げに息を吐いた。

(書けた。……これで読み返したときに、楽しいことだけ思い出せるわね)

 さきほどまで悶絶していたとは思えないほど、穏やかな笑顔でヴィルヘルミーナは日記帳を閉じる。

(今日は失敗してしまったけれど、次は今回の反省を活かして頑張るわ!)

 むん、と気合を入れてヴィルヘルミーナは決意を新たにし、次の逢瀬に胸を膨らませるのだった。
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