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第2章 ADAGIO

op.07 懐かしい土地の思い出(7)

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 収穫祭まで残りあと二日になった。

 祭り当日の役割はあるものの、積極的に参加する訳でもないガスパロは、いつものように日課である畑仕事を行っていた。
 違うことと言えば一週間ほど前から滞在している客人の楽器の音や歌声が、家の方から響いていることくらいだ。

 音楽は嫌いではない。

 時たまガスパロの所を尋ねるディルクもヴァイオリンを引っ提げてやってくることが主だった。その音色がまた良い音色で、音楽を知らないガスパロにもこの音は好きだと思わせた。

(ん?)

 ふと畑へと登ってくる人影が目に入って、ガスパロは持っていた鍬を下ろした。
 歩いてきたのはディルクのせがれで、やはり遠目から見ると昔の父親によく似ている。

「おはようございます」
「あぁ」

 おはよう、と声をかける。

「随分賑やかになってきたな。練習は順調なのか?」

 そう聞くとはい、とヴィオは答えた。

「お前はやらなくていいのか?」
「午前は個別で練習しているので。自分のパートは出来ているので大丈夫です」

 大した自信だった。
 だが恐らく気負いなく事実として大丈夫だと思っているのだろう。そういう雰囲気がヴィオにはある。思い返せばディルクにも同じような雰囲気があった。

「ガスパロさん」
「ん?」
「……もしご迷惑でなければ、お手伝いしてもいいでしょうか?」

 意外な申し出だった。

 学のないガスパロでも、ディルクやヴィオが良い家の出だと言うことくらいは気付いていた。
 ディルクは村に来るときはもう少しくだけた服を着ていたが、上等な部類のものを身につけていたし、隠そうとしても上品さは所作に出るのだ。
 だからヴィオにお付きの人間が付いていた時もやはりな、と思ったくらいで不思議には思わなかったのだ。

 まじまじとヴィオを眺める。
 ヴィオの態度は自然だったが、どこかばつが悪そうにも緊張しているようにも見えた。
 慣れないことを申し出ている自覚はあるのだろう。

(……なるほど、そうか)

 ディルクとヴィオの間にも他人が口を挟めない複雑さは存在するのだろう。
 家族といえども他人だ。身内であるなら尚更そう言う事もある。あまり私的なことを話してこなかったと、そう言っていたじゃないか。

(まぁそんな事はどうでもいい)

「ガスパロさん?」
「やりたいなら構わん。だがお前さんまさかその格好で手伝うつもりか」

 言われてヴィオが自分の格好を見下ろす。質の良いシャツやベストは農作業には圧倒的に不向きだ。

「お前さんに貸してる部屋の引き出しにディルクに貸してる作業着が一式入ってる。とっとと着替えてこい」

 こみ上げる笑みを押し隠しながらそう言うと、ヴィオが頭を下げて家に戻っていった。

(まったく、ディルクより余程分かりにくい奴だな)

 だがやはり似ているとも思う。
 ヴィオが村長の申し出を受けて村に残ると言った時、アガタの病気の事があるからだとすぐにピンときた。

 人を助けるのにそうやって正当な理由を作らないと動けない辺りがディルクより一段不器用ではあるが、きっと放っておけない性質なのだろう。

 ディルクがガスパロを放って置けなくて村に残ったように。

(だがまぁ、教えるのは難儀だろうなぁ)

 当然、ヴィオも土を触ったことなどないだろう。
 父親も初めは散々だったものだ。

 それでも少しずつ覚えていけばいいと思う。いつかまたこの村に来たときに、続きを教えれば良いだけなのだから。

(オレも死ねない理由が増えていくってもんだ)

 それをどこか嬉しく感じるのは、嘘偽りない本心だった。



   ◇


   
 時間が過ぎるのはあっという間で、気付けば収穫祭の前日になっていた。

 朝の仕事を一通り片付けると、リチェルは双子の家を足早に出る。
 今日は朝からアルが双子を村長の家の練習部屋まで連れて行ってくれていたから、リチェル一人だ。
 まとめた楽譜を持って家を出ると、ちょうどガスパロの家から出てきたヴィオと行き合った。

「ヴィオ?」

 どうしたの? と尋ねる。
 当然ヴィオは先に練習に参加しているのだと思っていた。

 家から出てきたヴィオは少し視線を泳がせて、『実は……』とガスパロの農作業を手伝っていたことを話してくれた。

「父も手伝っていたみたいだったから。おかしいか?」

 どこか決まりが悪そうなヴィオの態度にリチェルは『全然!』と答えた。

「とっても素敵なことだと思うわ。ガスパロさんもきっと助かるし、嬉しいと思うもの」

 わたしもお手伝いした方がいいかしら? と呟くと『リチェルはいい』とヴィオに即答された。

「邪魔かしら……?」
「そうじゃなくて、リチェルが来ると一緒にリートとリリコが来るだろう」
「リート君とリリコちゃんもガスパロさんの畑はたまに手伝っているようだけど」

 キョトンとして聞き返すと、ヴィオが『いや、そうかもしれないが……』と言葉を濁す。

「リチェルは双子の家の家事もあるから……」
「そう?」

 一緒にお手伝いできないのは残念ではあるが、ヴィオがそう言うならと引き下がる。
 確かに家事を含めリートとリリコのお世話をみるのが今のリチェルの仕事だ。歌の練習もあるし、それ以上時間を取るのはという気遣いだろうかと納得する。
 
 実際のところヴィオが断った理由は全く私的なものなのだが、リチェルが気付くことはなかった。

「でもやっぱりヴィオはすごいわ。短期間で曲を仕上げて、ちゃんとみんなをまとめてるのだもの。その上ガスパロさんのお手伝いまでしているんだから」

 ヴァイオリン・チェロ・ピアノの編成は珍しいものではないが、ここにソプラノと子どものコーラスが入るのだから、まとめるのが難解であることはリチェルにも分かる。

「まぁ確かに編成は凸凹しているが……、それで思い出した。曲名を決めたんだ」
「本当に!」

 ヴィオの言葉にリチェルはパッと顔を綻ばせる。
 練習はしているものの、ずっとオリジナル曲の曲名が決まっていなかったのだ。一番に教えてもらえる事にワクワクして、リチェルはヴィオに尋ねる。

「何て言うの?」

 ヴィオが『Harmonia』と短く答えた。

「生まれも育ちも年齢も違うし、編成も揃っていなくて。それでも良い演奏になっていると俺は思うから」
「Harmonia……」

 口の中で呟いて、リチェルは笑顔になる。

「うん、とっても素敵な曲名だと思うわ」

 みんな一生懸命練習してきたのだ。本番はきっと素敵な演奏になる。
 そうなるように、精一杯頑張りたいと思った。





 村長夫人が家に帰ってきたのは、ヴィオ達が練習を一通り終えたお昼の事だった。

 一度片付けて昼ごはんを食べに帰ろうか、と言う話をしていた時に扉からオレンジがかったブロンドが扉からひょこりとのぞいた。

「練習中すみません。少し良いですか?」

 村長の次男であるテオだった。村長は祭りの準備が忙しく家を留守にしていることが多く、ヴィオ達の練習場所の調整や案内はずっとテオが受け持ってくれている。

「実は今うちの母さんが帰ってきまして……」
「お母さんも⁉︎」

 テオの言葉に、双子が飛びついた。テオの母親、つまり村長夫人が帰ってきたということは、つまり双子の母親も帰ってきたという事だ。

「いや、それなんだけど……」
「お母さん!」

 テオが全て言う前に、双子達が部屋を飛び出した。

「リート君! リリコちゃん!」

 リチェルもテオに頭を下げて急いで二人を追いかける。テオの言葉がすいささか歯切れが悪かったのが気になったけれども、今は二人が優先だ。

 リチェルが玄関まで行くと、リートとリリコが帰ってきた夫人に矢継ぎ早に質問を浴びせている所だった。

「二人とも落ち着いて。奥様すみません。長い間ありがとうございます」
「あらやだ、奥様だなんて。リリコちゃんもリート君もごめんなさいね。実はお母さんは一緒に帰ってこられなかったのよ」
「え?」

 驚いて思わず声が漏れた。
 後ろからヴィオ達がテオと一緒に玄関まで歩いてくる。振り返ると、テオから話を聞いたのだろう。ヴィオが気遣わしげに双子を見た。

「ねぇ、お母さんがいないってどういうこと?」
「お母さん、どこにいるの?」

 リートとリリコが騒ぎ出す。
 その様子にテオが困ったように眉を下げて、夫人を見る。
 
 夫人も困った表情を浮かべていたが、やがてリートとリリコの前にしゃがみ込むと、酷く申し訳なさそうにあのね、と口を開いた。


「お母さんね、しばらく入院しないといけなくなったの」




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