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1. 烏丸葵の葛藤と思慕
4枚目 過去の記憶と今の想い
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葵の足音が、まだ朝が来たばかりの道に静かに響く。
逃げるように家を飛び出したが、葵が乗ろうとしている電車の時間にはだいぶ早かった。
(どうしよう……時間を潰そうにも、この近くに開いている所なんてないし)
まだ早朝と言っていい時間だ。
ちらほらとスーツ姿の男女や学生、犬の散歩をする人たちが通りを行き交っている。
このまま部活へ一番乗りするのもいいが、この日だけはもう少し一人になりたかった。
(それにしても私ってば、どうしちゃったの)
思い出して熱くなりそうな頬を、両手で包み込む。
(兄さんに、まさか恋心なんて抱いてるはずないじゃない。いくら和さまと似ているからって)
千秋を見ていると、時々心臓が早鐘を打つように早くなってしまう。
それもこれも、葵が普通の人間とは違うからだった。
だから、決してそれ以上の意味は無い、と自分に言い聞かせる。
葵は前世の記憶を持っている。それも大正の頃の記憶を。
ただ、葵も最初から前世の記憶を持っていたわけではなかった。
何かの拍子で思い出したり、突然前世の夢を見たり、生まれた時から前世の記憶を持っている場合もある。
生まれた時から記憶がある者は限られているが、葵の場合は夢を見たからだった。
最初に見た『夢』は小さな木造家屋の縁側から始まった。
髪を緩く編み込んだ女性が、隣りに佇む一人の男性と共に、幸せそうに笑っている。
その人は「和さま」と呼ばれ、女性のことを「美和」と呼んでいた。
何を話しているのかは朧気としか分からないが、和さまは身体が弱いようだった。
いつも羽織りを身にまとい、布団の上でぼんやりと庭に植えられた桜を眺めている。子供の背丈はありそうな、幹のしっかりした樹だ。
今の季節は春なのか、風が吹くと少しずつ花弁が落ちていく。ゆっくりと舞い落ちる花弁が、絨毯のように小さな庭に振り積もっていた。
桜を眺めていると、和さまは時折咳をする事がある。
そんな夫を「大丈夫だ」と励まし、美和は甲斐甲斐しく世話をしていた。
謝ろうとする和さまは、まるで小さな子供のように頼りない。
誰もが羨む精悍な顔立ちが、今だけは申し訳なさそうな表情で美和を見つめていた。
それから何度か『夢』を見るうちに、ある法則が分かった。
桜が咲き誇る日に、和さまが息を引きとる──という場面で目が覚めるのだ。今日見た夢もそうだ。
どうやら葵の見る夢は、和さまが亡くなった時で途切れているらしい。
毎日というわけではないが、いつも同じ夢を見るからか、その先が気になってならなかった。
葵は完全に、前世の記憶を思い出したわけではないのだ。
前世の自分がこの後どうしたのか、断片的な夢からは分かるはずもなかった。
──愛しい人を喪うのは、どんなに辛い事だろうか。最期の瞬間を看取ったとはいえ、もっと長く一緒に居られたはずだ。
生まれ変わった今となっては詮無いことだが、ふと考えてしまう。
(和さまは……転生、ってしてるのかな)
葵と同じように、生まれ変わっているのならば嬉しい。仮に記憶が無くても、本人が幸せならばそれで構わなかった。
ただ、不幸でなければ良かった。
幸せな人生を歩めているのなら、別の人と結婚していようが、ヨボヨボの老人になっていようが。もし和さまと再会する時が来ても、葵は笑顔を見せられるだろう。
それほど和さまを、前世の夫を愛していた。
たとえ前世が夫婦だったとしても、現在に悔いが無ければ、隣りにいる人間が葵でなくても構わない。
仮に予想が当たったとしても、受け入れなければいけない事だった。
ただ、前世の記憶が起因しているのか、兄である千秋と和さまを重ねてしまうのだ。
千秋が形作る笑みは、本人かと見紛うほど和さまとよく似ていた。
太陽のように温かく、優しい笑顔。
雰囲気こそ違うが、千秋が笑った時には胸が締め付けられるように苦しくなってしまう。
(……会いたい)
会いたい。会って、抱き締められたい。
あの逞しい腕に抱かれたい。
甘い言葉を囁く、あの声が恋しい。
愛しそうに頭を撫でるあの手が、笑顔が恋しい。
「っ……」
その時、びゅうと風が吹いた。制服のスカートが、ヒラヒラと揺れる。
葵は風で乱れる髪を押さえ、ゆっくりと視線を上へ向けた。
そこには大きな桜の樹が、どっしりと存在感を放っていた。
どうやら葵は無意識のうちに、いつも行く公園へ足を向けていたらしい。
葵が一人で落ち着きたいと思った時に、必ず行く場所だ。
「え……」
早朝だからか人は居ないと思っていた。が、ぽつんとひとつの影があった。
その後ろ姿は小学生ほどの身長で、少しめかしこんだベストに短パンという出で立ちだ。
まだ真新しい黒いランドセルを背負い、ぼうっと桜の樹を眺めている。
(小学生……?)
この春からの新一年生だろうか。
短く切り揃えられた黒髪がさわさわと風に揺れ、その見た目も相まってか、今にも攫われてしまいそうなほど危うい。
元々は来ると決めていたのだ。葵はゆっくりと、桜の大樹へ足を進める。
すると、男の子がこちらを振り向いた。
「あ……貴方、は──」
図らずも葵をじっと見つめるその瞳は、光の加減によっては黒くも青くも見える。
その瞳には見覚えがあった。
(まさか……いえ、そんなはず)
有り得ない。この少年が和さまだなんて。
ただ少し見た目が似ていたからと言って、必ずしも本人と一致するとは思えなかった。
(そう、有り得ないわ。こんなに小さな子……)
ふるりと一度首を振る。世界には、自分と似ている人間がいることがある。
それと同じで、他人の空似だ。そうでなければなんだというのか。
桜の大樹がある場所は、少し小高くなっている。そこまでゆっくり歩いていくと、段々と少年の姿形が分かった。
じっと葵を見つめて逸らさない瞳は、近くまで来ると黒曜石かと思うほど綺麗で、不覚にも見惚れてしまった。
葵が向かってくる事に気付くと、少年の瞳が先ほどよりも大きく見開かれる。
「美和……?」
小さな唇から紡がれた言葉は、夢で葵が呼ばれていた『前世の』名前だった。
逃げるように家を飛び出したが、葵が乗ろうとしている電車の時間にはだいぶ早かった。
(どうしよう……時間を潰そうにも、この近くに開いている所なんてないし)
まだ早朝と言っていい時間だ。
ちらほらとスーツ姿の男女や学生、犬の散歩をする人たちが通りを行き交っている。
このまま部活へ一番乗りするのもいいが、この日だけはもう少し一人になりたかった。
(それにしても私ってば、どうしちゃったの)
思い出して熱くなりそうな頬を、両手で包み込む。
(兄さんに、まさか恋心なんて抱いてるはずないじゃない。いくら和さまと似ているからって)
千秋を見ていると、時々心臓が早鐘を打つように早くなってしまう。
それもこれも、葵が普通の人間とは違うからだった。
だから、決してそれ以上の意味は無い、と自分に言い聞かせる。
葵は前世の記憶を持っている。それも大正の頃の記憶を。
ただ、葵も最初から前世の記憶を持っていたわけではなかった。
何かの拍子で思い出したり、突然前世の夢を見たり、生まれた時から前世の記憶を持っている場合もある。
生まれた時から記憶がある者は限られているが、葵の場合は夢を見たからだった。
最初に見た『夢』は小さな木造家屋の縁側から始まった。
髪を緩く編み込んだ女性が、隣りに佇む一人の男性と共に、幸せそうに笑っている。
その人は「和さま」と呼ばれ、女性のことを「美和」と呼んでいた。
何を話しているのかは朧気としか分からないが、和さまは身体が弱いようだった。
いつも羽織りを身にまとい、布団の上でぼんやりと庭に植えられた桜を眺めている。子供の背丈はありそうな、幹のしっかりした樹だ。
今の季節は春なのか、風が吹くと少しずつ花弁が落ちていく。ゆっくりと舞い落ちる花弁が、絨毯のように小さな庭に振り積もっていた。
桜を眺めていると、和さまは時折咳をする事がある。
そんな夫を「大丈夫だ」と励まし、美和は甲斐甲斐しく世話をしていた。
謝ろうとする和さまは、まるで小さな子供のように頼りない。
誰もが羨む精悍な顔立ちが、今だけは申し訳なさそうな表情で美和を見つめていた。
それから何度か『夢』を見るうちに、ある法則が分かった。
桜が咲き誇る日に、和さまが息を引きとる──という場面で目が覚めるのだ。今日見た夢もそうだ。
どうやら葵の見る夢は、和さまが亡くなった時で途切れているらしい。
毎日というわけではないが、いつも同じ夢を見るからか、その先が気になってならなかった。
葵は完全に、前世の記憶を思い出したわけではないのだ。
前世の自分がこの後どうしたのか、断片的な夢からは分かるはずもなかった。
──愛しい人を喪うのは、どんなに辛い事だろうか。最期の瞬間を看取ったとはいえ、もっと長く一緒に居られたはずだ。
生まれ変わった今となっては詮無いことだが、ふと考えてしまう。
(和さまは……転生、ってしてるのかな)
葵と同じように、生まれ変わっているのならば嬉しい。仮に記憶が無くても、本人が幸せならばそれで構わなかった。
ただ、不幸でなければ良かった。
幸せな人生を歩めているのなら、別の人と結婚していようが、ヨボヨボの老人になっていようが。もし和さまと再会する時が来ても、葵は笑顔を見せられるだろう。
それほど和さまを、前世の夫を愛していた。
たとえ前世が夫婦だったとしても、現在に悔いが無ければ、隣りにいる人間が葵でなくても構わない。
仮に予想が当たったとしても、受け入れなければいけない事だった。
ただ、前世の記憶が起因しているのか、兄である千秋と和さまを重ねてしまうのだ。
千秋が形作る笑みは、本人かと見紛うほど和さまとよく似ていた。
太陽のように温かく、優しい笑顔。
雰囲気こそ違うが、千秋が笑った時には胸が締め付けられるように苦しくなってしまう。
(……会いたい)
会いたい。会って、抱き締められたい。
あの逞しい腕に抱かれたい。
甘い言葉を囁く、あの声が恋しい。
愛しそうに頭を撫でるあの手が、笑顔が恋しい。
「っ……」
その時、びゅうと風が吹いた。制服のスカートが、ヒラヒラと揺れる。
葵は風で乱れる髪を押さえ、ゆっくりと視線を上へ向けた。
そこには大きな桜の樹が、どっしりと存在感を放っていた。
どうやら葵は無意識のうちに、いつも行く公園へ足を向けていたらしい。
葵が一人で落ち着きたいと思った時に、必ず行く場所だ。
「え……」
早朝だからか人は居ないと思っていた。が、ぽつんとひとつの影があった。
その後ろ姿は小学生ほどの身長で、少しめかしこんだベストに短パンという出で立ちだ。
まだ真新しい黒いランドセルを背負い、ぼうっと桜の樹を眺めている。
(小学生……?)
この春からの新一年生だろうか。
短く切り揃えられた黒髪がさわさわと風に揺れ、その見た目も相まってか、今にも攫われてしまいそうなほど危うい。
元々は来ると決めていたのだ。葵はゆっくりと、桜の大樹へ足を進める。
すると、男の子がこちらを振り向いた。
「あ……貴方、は──」
図らずも葵をじっと見つめるその瞳は、光の加減によっては黒くも青くも見える。
その瞳には見覚えがあった。
(まさか……いえ、そんなはず)
有り得ない。この少年が和さまだなんて。
ただ少し見た目が似ていたからと言って、必ずしも本人と一致するとは思えなかった。
(そう、有り得ないわ。こんなに小さな子……)
ふるりと一度首を振る。世界には、自分と似ている人間がいることがある。
それと同じで、他人の空似だ。そうでなければなんだというのか。
桜の大樹がある場所は、少し小高くなっている。そこまでゆっくり歩いていくと、段々と少年の姿形が分かった。
じっと葵を見つめて逸らさない瞳は、近くまで来ると黒曜石かと思うほど綺麗で、不覚にも見惚れてしまった。
葵が向かってくる事に気付くと、少年の瞳が先ほどよりも大きく見開かれる。
「美和……?」
小さな唇から紡がれた言葉は、夢で葵が呼ばれていた『前世の』名前だった。
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