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1. 烏丸葵の葛藤と思慕
5枚目 ただただ君に
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(今……私の、ことを)
呼んだの、と口の中で呟く。
美和は葵の前世の名だ。断片的な前世の記憶を思い出してからは、今までその名で呼ばれた事は無い。
あったとしても、きっと自分以外の違う女の子だと思ってしまうだろう。
「貴方、は」
葵の知るその人は自分よりも頭一つ分背が高く、鍛え抜かれた長身が美しい人だった。
節くれだって靱やかで大きな手は、時々愛おしそうに頭を撫でてくれた。
声は低く落ち着いており、病に冒されても尚、優しく「大丈夫」と言って安心させてくれた。
なのに、今この時ばかりはまったくの真逆だった。
目の前にいる少年の身長は、葵の腰に届かないほどの背丈だ。
子供特有の高く、ほんの少し甘い声。その声で確かに「美和」と言ったのだ。
空耳ではなかった。決して、葵の耳がおかしいわけでもないといえた。
きっと葵は無意識に確信していたのだろう。
最近見る夢は、愛した夫とまた巡り会えるという前兆だったと。
戸惑ったのは一瞬だけだった。
目の前にいる少年が、姿は変われど前世で愛した人だと、葵の心の奥深く──魂がそう言っていた。
「和さま……和則さま、なの」
知らずのうちに声が震える。
確信してはいても、目の前の少年が本当に夫であるのか、本人の口から紡がれるまで分からない。
だから、少しだけ答えを聞くのが怖かった。
「俺は」
じっと数秒葵を見つめた少年は、意を決したように口を開く。
「──い……麗、どこにいるのー!?」
すると、桜の樹の向こう側──ここからそう遠くない場所で声が聞こえた。
「……母さん?」
キョロキョロと辺りを見回し、声のする方へゆっくりと視線を向ける少年──もとい麗。
「麗!」
ややあって一人の女性が、葵の横をすり抜けていった。
麗を見つけると慌てて駆け寄り、ぎゅうと抱き締める。
本人はされるがままだ。
「いきなり走っていくんだから……。 探したのよ、勝手に居なくならないで」
「……ごめんなさい」
女性の叱る声は決して責めるものではなく、見つかって良かったという安堵が滲んでいる。
葵はそのさまを黙って見つめていた。
(麗……それが今の、貴方の名前)
和さまは葵が生きる現代に、二度目の転生を果たした。
その事実が分かるだけでも、葵にとっては良かった。
どうやら二人の間に、葵が入り込む余地は無さそうだ。それに、奇しくも今日は小学校の入学式でもある。
きっとこれから新一年生として、和さま──麗の新しい日々が始まるのだろう。
前世のことは一旦置いておくとして、学校に通う所は見てみたい気もする。
ただ、麗とは近いうちまた会える……そんな予感がした。こればかりは葵の直感でしかないが、何故かそう思った。
(あ……そろそろ行かなきゃ)
ちらりと腕時計を確認すると、六時半を回ろうとしていた。今いる公園から駅は少し歩いた場所にあるが、部活にギリギリ間に合う電車が来るまであと数分しかない。
そろそろ立ち去らないと遅れてしまうだろう。
そう思い、踵を返そうとしたその時だ。
「あの!」
凛とした声が桜の樹の下に響く。
ゆっくりと声がする方を振り向くと、麗がこちらをじっと見ていた。
その丸く大きな瞳は、しっかりと葵を捉えている。前世の優しい瞳を宿して。
「俺、八坂麗っていうんだ。い……お姉さんの名前は?」
きっと『今の』名前を聞きたいに違いない。しかし母親の手前、あたかも初対面の人に言うようにそう尋ねられた。
(あぁ……やっぱり覚えてるんだ、この人は)
麗は、この少年は前世の記憶がしっかりとある。
葵の中でぼんやりとした「夫には前世の記憶があるのか」という疑問が今、確信に変わった。
一度そう思ってしまうと、ただ自分の名を言うだけなのに、どうしてか喉に何かが詰まったように声が出ない。
心なしか視界もぼやけてきてしまう。
この感情が懐かしさからくるのか、それとも嬉しさからくるのか。あるいは両方か。
「……私、は」
絞り出すように、けれどしっかりと言葉を紡ぐ。ここまで緊張するのは、高校生活一日目の自己紹介以来だ。
ただ、あの時と今の状況は似てこそすれ、相手が違う。
目の前にいる麗は──和則は、あの時愛し合っていた人だから。
生まれ変わったらきっと探しだす、そう約束した人だから。
「烏丸、葵」
風に攫われてしまいそうな小さな声だったが、少し離れた距離にいる麗にははっきりと伝わったようだ。
「葵……葵、かぁ」
麗はほんのりと頬を染め、慈しむように何度も葵の名を口の中で反芻する。もう忘れるまいと心に留めるかのように。
「さ、麗。ずっとここに居たら冷えてしまうから、帰りましょ。……葵ちゃん、だったかな? 良かったらこの子のこと、よろしくね」
それまで黙って息子を見守っていた母親が、麗の小さな肩に手を添えて帰るよう促した。
踵を返す際、にっこりと花のような笑みを浮かべて葵へ笑いかける。
「あ、はい……」
反射的に葵は返事をしていた。
夢を見ているかのように、まだ頭の中がふわふわする。
母親が「麗をよろしく」と言ってくれたことも、見た目が小さな少年となった夫に、前世の記憶があるということも。
すべてが葵の都合のいい夢なのではないか、と疑ってしまう。
葵は電車に乗り遅れてしまう事も忘れ、しばらくの間立ち竦んだ。
桜の花びらがひらひらと舞う中歩いていく親子を、その姿が見えなくなるまで見つめていた。
呼んだの、と口の中で呟く。
美和は葵の前世の名だ。断片的な前世の記憶を思い出してからは、今までその名で呼ばれた事は無い。
あったとしても、きっと自分以外の違う女の子だと思ってしまうだろう。
「貴方、は」
葵の知るその人は自分よりも頭一つ分背が高く、鍛え抜かれた長身が美しい人だった。
節くれだって靱やかで大きな手は、時々愛おしそうに頭を撫でてくれた。
声は低く落ち着いており、病に冒されても尚、優しく「大丈夫」と言って安心させてくれた。
なのに、今この時ばかりはまったくの真逆だった。
目の前にいる少年の身長は、葵の腰に届かないほどの背丈だ。
子供特有の高く、ほんの少し甘い声。その声で確かに「美和」と言ったのだ。
空耳ではなかった。決して、葵の耳がおかしいわけでもないといえた。
きっと葵は無意識に確信していたのだろう。
最近見る夢は、愛した夫とまた巡り会えるという前兆だったと。
戸惑ったのは一瞬だけだった。
目の前にいる少年が、姿は変われど前世で愛した人だと、葵の心の奥深く──魂がそう言っていた。
「和さま……和則さま、なの」
知らずのうちに声が震える。
確信してはいても、目の前の少年が本当に夫であるのか、本人の口から紡がれるまで分からない。
だから、少しだけ答えを聞くのが怖かった。
「俺は」
じっと数秒葵を見つめた少年は、意を決したように口を開く。
「──い……麗、どこにいるのー!?」
すると、桜の樹の向こう側──ここからそう遠くない場所で声が聞こえた。
「……母さん?」
キョロキョロと辺りを見回し、声のする方へゆっくりと視線を向ける少年──もとい麗。
「麗!」
ややあって一人の女性が、葵の横をすり抜けていった。
麗を見つけると慌てて駆け寄り、ぎゅうと抱き締める。
本人はされるがままだ。
「いきなり走っていくんだから……。 探したのよ、勝手に居なくならないで」
「……ごめんなさい」
女性の叱る声は決して責めるものではなく、見つかって良かったという安堵が滲んでいる。
葵はそのさまを黙って見つめていた。
(麗……それが今の、貴方の名前)
和さまは葵が生きる現代に、二度目の転生を果たした。
その事実が分かるだけでも、葵にとっては良かった。
どうやら二人の間に、葵が入り込む余地は無さそうだ。それに、奇しくも今日は小学校の入学式でもある。
きっとこれから新一年生として、和さま──麗の新しい日々が始まるのだろう。
前世のことは一旦置いておくとして、学校に通う所は見てみたい気もする。
ただ、麗とは近いうちまた会える……そんな予感がした。こればかりは葵の直感でしかないが、何故かそう思った。
(あ……そろそろ行かなきゃ)
ちらりと腕時計を確認すると、六時半を回ろうとしていた。今いる公園から駅は少し歩いた場所にあるが、部活にギリギリ間に合う電車が来るまであと数分しかない。
そろそろ立ち去らないと遅れてしまうだろう。
そう思い、踵を返そうとしたその時だ。
「あの!」
凛とした声が桜の樹の下に響く。
ゆっくりと声がする方を振り向くと、麗がこちらをじっと見ていた。
その丸く大きな瞳は、しっかりと葵を捉えている。前世の優しい瞳を宿して。
「俺、八坂麗っていうんだ。い……お姉さんの名前は?」
きっと『今の』名前を聞きたいに違いない。しかし母親の手前、あたかも初対面の人に言うようにそう尋ねられた。
(あぁ……やっぱり覚えてるんだ、この人は)
麗は、この少年は前世の記憶がしっかりとある。
葵の中でぼんやりとした「夫には前世の記憶があるのか」という疑問が今、確信に変わった。
一度そう思ってしまうと、ただ自分の名を言うだけなのに、どうしてか喉に何かが詰まったように声が出ない。
心なしか視界もぼやけてきてしまう。
この感情が懐かしさからくるのか、それとも嬉しさからくるのか。あるいは両方か。
「……私、は」
絞り出すように、けれどしっかりと言葉を紡ぐ。ここまで緊張するのは、高校生活一日目の自己紹介以来だ。
ただ、あの時と今の状況は似てこそすれ、相手が違う。
目の前にいる麗は──和則は、あの時愛し合っていた人だから。
生まれ変わったらきっと探しだす、そう約束した人だから。
「烏丸、葵」
風に攫われてしまいそうな小さな声だったが、少し離れた距離にいる麗にははっきりと伝わったようだ。
「葵……葵、かぁ」
麗はほんのりと頬を染め、慈しむように何度も葵の名を口の中で反芻する。もう忘れるまいと心に留めるかのように。
「さ、麗。ずっとここに居たら冷えてしまうから、帰りましょ。……葵ちゃん、だったかな? 良かったらこの子のこと、よろしくね」
それまで黙って息子を見守っていた母親が、麗の小さな肩に手を添えて帰るよう促した。
踵を返す際、にっこりと花のような笑みを浮かべて葵へ笑いかける。
「あ、はい……」
反射的に葵は返事をしていた。
夢を見ているかのように、まだ頭の中がふわふわする。
母親が「麗をよろしく」と言ってくれたことも、見た目が小さな少年となった夫に、前世の記憶があるということも。
すべてが葵の都合のいい夢なのではないか、と疑ってしまう。
葵は電車に乗り遅れてしまう事も忘れ、しばらくの間立ち竦んだ。
桜の花びらがひらひらと舞う中歩いていく親子を、その姿が見えなくなるまで見つめていた。
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